Old school knowledge

僕の友人の中には、「若いころ、辞書を最初から最後まで全部読んだ」という驚くべき人物が何人かいる。百科事典の「ブリタニカ」を全部読んだという人もいる。

妹によれば僕は「興味の向くことしか学ぼうとしない人」らしい。おそらく、「飽きっぽい」とか「長期的視野に立った計画が立てられない」とか、そういうことを言いたいのだろうと思う。僕にしてみれば、辞書を最初から最後まで読むなんてことは想像すらできない。実際、じっと座って辞書を読み通すことができる人なんて、そうそういないだろう。

辞書や百科事典を通読する話しはいささか極端に聞こえるかもしれないが、このことは、我々が公教育を受ける子どもたちに求めていることと同じではないかと感じることがある。

授業はかっちりと連続的に編成されていて、生徒たちは教室から教室へ急ぎ足で移動し、授業中はずっと座って、教師が微積分や歴史や、文法について延々と話しを続ける間、集中し続けることを期待される。

良い成績を取る必要があるとか、良い教育を受けることの長期的なメリットを理解しているとか、理由は何であれ、集中力があり、自分でやる気を起こせる生徒たちであれば、それで成功を収めることができる。

何かを学ぶ必要があるときに、オンラインの辞書や百科事典、ビデオは素晴らしいリソースだと、僕は個人的に思う。自らの興味を追求したり会合の準備をしたり、面白い人たちと交流したり、僕はそういった中で、何かを学ぶ必要性を日々感じている。そういうときには学ぼうという意欲が大いに湧き、実際に多くを学んでいる。

大学教授やアマチュアの人たち、教師たちがオンライン上にアップしているビデオ教材は素晴らしいと思う。僕のような「興味の向くことしか学ぼうとしない人」にとって素晴らしいリソースだ。しかし、未来の学習を、オンラインで「辞書の通読」のようなことやらせるインターネット大学のようなものにすべきなのかということについては疑問に思う。僕たちはインターネットというものを、「The Power of Pull」を可能にする素晴らしいネットワークとして捉え、子どもたちに対して、プログラムを修了して正しい「答」を出す能力を評価するのではなく、何かを作ることを通じて学ぶ力を持たせるようにすべきではないだろうか。

3 Comments

4月にjoiさんのこの文章を読んだとき、とても示唆深く、面白い、と感じました。
ただ、問題提起の内容は、考えれば考えるほど深く、考えがまとまらずに1か月近くが経過しました。ようやく私がたどりついたのは、次のような考え方です。

まず、現在の公教育は、根本的には2つの矛盾する機能・役割を担っているということです。
1)一人ひとりの子どもを尊重してその才能を伸ばし、社会へと巣立つための支援をすること。
2)多くの子どもを社会にとって有益(と考えられる)人材に仕立てるべく、子どもを評価すること。

また、残念ながら、この2つの機能・役割は矛盾するということが巧妙に隠ぺいされているということです。
むしろ、教師の教育活動が真剣に実践されるときにのみ矛盾が発露するものの、その矛盾はあまりに個別的で、教師自身がよほど「制度」と対峙する覚悟がない限り、根本的な矛盾であることがわかりにくいからです。
これは意図的なものというよりは、公教育が「制度」として機能している限り宿命とも言えるかもしれません。

そこで非常に重要なのが、joiさんのこれまでの様々なご発言の中で示唆されている通り、インターネット、あるいはネットワークのあり方そのものが「制度」ではない形で構築されてきているということだと思います。

つまり、インターネット、あるいはネットワークにおける「未来の学習」は、やはり「制度としての公教育」を、「代替する」ものではなく、「違う形で存在する」ものだと考えるほうが、おそらく「相性がいい」。

もちろん、公教育がインターネットやネットワークを利用することは十分に考えられるし、現時点では、そうした方向が主流かもしれないけれど、きっとそれは過渡的な、表面的なことなのではないでしょうか。

おそらく、インターネットやネットワークにおける「未来の学習」は、公教育の枠から外されてきた子ども、例えば、様々な障害をもつ子どものための、非常に困難で根気強い試行錯誤の教育(「制度」と「現実」との、途方もない矛盾に常に引き裂かれた状態での教育の実践)のようなものの中から、それはあたかも、泥沼の中に頑丈な地下茎を張り巡らせたハスが咲かせる花のように、生まれてくるのでは…と私は考えるのです。

昨日のコメントに、補足したいことがあります。

それは、joiさんのこの記事の出だしの部分で紹介されている、「辞書を通読するような人」についてです。

おそらく、「辞書を通読するような人」は、長期的視野によって立てた計画に基づいて、辞書を通読しているのではなく、むしろjoiさんが興味をもったものだけを学ぶのと同じように、辞書を通読することに興味と面白さを発見できるからこそ学んでいるのではないでしょうか。その意味では、joiさんと「辞書を通読するような人」は、おそらく「学ぶこと」については、その方法は全く違うものの、スタンスとしては同じということができ、だからこそ(!?)、joiさんの友人なのではないか、と思います。

もう一歩踏み込めば、「(自主的に)辞書を通読するような子ども」も、「(自主的に)色々なことに興味をもって学ぶ子ども」も、同じように、現在の公教育からはえてして疎外されているのではないか、ということです。そしてそのような子どもが一般的に評価されるような学力を得られなかった場合、それは「発達障害児」と名付けられてしまいます。(逆にいえば、大抵の場合、評価されるような学力を得ている場合には、こうした子どもは「個性的」と名付けられるものです。)

だから、joiさんの意図をきちんと汲んで表現すれば、現代の公教育は、「興味を持って色々なことを学びたい子どもに辞書の通読を<強制させる>」というような側面が非常に強い、ということなのだろうと思います。

なお、無用な誤解が生じる可能性があることに気がついたので、もう一つ補足したいのですが、最初の私のコメントの最後にある「泥沼」とは、<「制度」と「現実」との矛盾>を表現したものです。念のために。

そうだね。
僕は、東アジア人は怠け者だから
机に向かっていられるって思っていましてね
単なる、怠け者
あるいは、種として弱すぎる
だから、辺境へと流れてきただけだと
醜い容姿(『美しい』と思う者の真似をするでしょ)
優れて強いコンプレックス
自分と向き合わず
他人の眼を気にして生きる
種として弱すぎるからなんでしょうね
すべての事象は、極めて現実的な説明がつくような気がします
『正答』を求めるよりも
自ら作ることの喜び
まあ
マイナス思考とか
ネガティブ・マインドとか
銭や名誉のためとかが
モチベーション
そうした者は、そもそも
いいアイデアなんて、でないでしょうし
定理・公理以外
特段、学ぶことはないでしょうね
それに、上積みをしていく営為
それは、その者の『趣味』の問題で
教えても無駄なこと
そんな気がしますね

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About this Entry

This page contains a single entry by Joi published on 2012年7月 2日 12:00.

Daniel Suarez の新作小説 『Kill Decision』 was the previous entry in this blog.

電通がデジタルガレージに出資しファミリーに加わる is the next entry in this blog.

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