2012年4月 Archives

Old school knowledge

僕の友人の中には、「若いころ、辞書を最初から最後まで全部読んだ」という驚くべき人物が何人かいる。百科事典の「ブリタニカ」を全部読んだという人もいる。

妹によれば僕は「興味の向くことしか学ぼうとしない人」らしい。おそらく、「飽きっぽい」とか「長期的視野に立った計画が立てられない」とか、そういうことを言いたいのだろうと思う。僕にしてみれば、辞書を最初から最後まで読むなんてことは想像すらできない。実際、じっと座って辞書を読み通すことができる人なんて、そうそういないだろう。

辞書や百科事典を通読する話しはいささか極端に聞こえるかもしれないが、このことは、我々が公教育を受ける子どもたちに求めていることと同じではないかと感じることがある。

授業はかっちりと連続的に編成されていて、生徒たちは教室から教室へ急ぎ足で移動し、授業中はずっと座って、教師が微積分や歴史や、文法について延々と話しを続ける間、集中し続けることを期待される。

良い成績を取る必要があるとか、良い教育を受けることの長期的なメリットを理解しているとか、理由は何であれ、集中力があり、自分でやる気を起こせる生徒たちであれば、それで成功を収めることができる。

何かを学ぶ必要があるときに、オンラインの辞書や百科事典、ビデオは素晴らしいリソースだと、僕は個人的に思う。自らの興味を追求したり会合の準備をしたり、面白い人たちと交流したり、僕はそういった中で、何かを学ぶ必要性を日々感じている。そういうときには学ぼうという意欲が大いに湧き、実際に多くを学んでいる。

大学教授やアマチュアの人たち、教師たちがオンライン上にアップしているビデオ教材は素晴らしいと思う。僕のような「興味の向くことしか学ぼうとしない人」にとって素晴らしいリソースだ。しかし、未来の学習を、オンラインで「辞書の通読」のようなことやらせるインターネット大学のようなものにすべきなのかということについては疑問に思う。僕たちはインターネットというものを、「The Power of Pull」を可能にする素晴らしいネットワークとして捉え、子どもたちに対して、プログラムを修了して正しい「答」を出す能力を評価するのではなく、何かを作ることを通じて学ぶ力を持たせるようにすべきではないだろうか。