2015年1月 Archives

この投稿で僕は、技術の歴史における、現在と別の重要時期/ターニングポイントとの強い類似性を掘り下げてみたいと思っている。このような比較で常なのが、相違点が、類似点同様に示唆を含んでいるということだ。どこまでメタファーを適用していくのがよいのかまだわからないが、我々はBitcoin の未来について、インターネットの歴史から多くを学ぶことができるかもしれない。Bitcoin に関する投稿は今回が初めてだし、主張を通すことよりも皆さんに反応や新しい発想をいただくことに主眼を置いている。フィードバックや、僕が読むべき内容へのリンクなどをいただけると非常にありがたい。

僕は根っからのインターネットパーソンであり、本格的なビジネスライフを始めたのがインターネットの黎明期であって、成人後の人生のほとんどをインターネットのレイヤーや要素を組み上げる仕事に関わってきた。日本発の商用インターネットサービスプロバイダの立ち上げを支援したり、ツイッターに投資して日本での展開を助けたり。僕は Open Source Initiative、Internet Corporation for Names and Numbers(ICANN)、Mozilla Foundation、Public Knowledge、Electronic Privacy Information Center(EPIC)の理事にも名を連ねたし、クリエイティブ・コモンズの CEO も務めた。ネット時代の初期で体験したことゆえに、僕の視点が偏っていて、新しいものが何でもインターネットのように見えてしまっている可能性はある。

それを踏まえて、僕はインターネットと Bitcoin は様々な点で似ていると思うし、Bitcoin とその将来を考える際にはインターネットまわりで得られた教訓が指針になりうる側面が多々あると思っている。そして同時に、重要な相違点もいくつかある。

Bitcoinがインターネットに類似する点は、分散型で効率的で、オープンプロトコルに基づいた運搬インフラである点だ。それ以前に使われていた回路や専用線とは違ってデータパケットを動的ネットワーク上で転送するのがインターネットだとすれば、Bitcoin のプロトコルであるブロックチェーンは、相互信頼が成立していない相手同士が分散型かつ効率的な手法で信頼関係を構築することを可能にしている。取引台帳が「集中型」になっている、と言っていいかもしれないが、台帳そのものは機械的な分散型コンセンサスによって形作られている。

インターネットにはルートの部分が存在する。すなわち、インターネットプロトコルを使っているからといって、いわゆるインターネットの一部になっているとは限らない。本家インターネットの一部たりうるには、ICANNとそのコンセンサスプロセスによって管理されている命名と数字のプロトコルおよびルートサーバーに合わせることに同意しなければならない。インターネットプロトコルを使って独自のネットワークを作ってもいいし、命名や数字に独自のルールを適用することも可能だが、それだとただのネットワークであり、インターネットとは呼べないのだ。

同様に、ブロックチェーンプロトコルを使って Bitcoin の対抗馬(alt.coin)を作ることもできる。これによりイノベーションを起こしたり、Bitcoin の技術的利点の多くを活用することが可能だが、Bitcoin との技術的互換性は失われ、Bitcoin のネットワーク効果や信頼性の恩恵は受けられなくなる。

また、インターネットの黎明期同様に、各レベルで複数の発想が競合している。AOL はダイヤルアップネットワークを作り上げ、Eメールの普及に大きく貢献した。やがてコアビジネスだったダイヤルアップネットワークを放棄したが、インターネットサービスとして生き残った。今でも AOL のEメールアカウントを使っている人は多い。

暗号通貨の世界では、Bitcoin の起源的ブロックに連繋していないコインが存在する。根本に同じ技術を使った alt.coin のことだ。alt.coin はものによって少しだけ異なるプロトコルを使っているものもあれば、根本的に違うものもある。

コインの層の上層には、ウォレット、取引所、サービスプロバイダなど、様々な垂直統合度合いのサービスが登場している。どの暗号通貨が淘汰を生き残るかに依存しないものもあれば、特定の通貨に密接に繋がっているものもある。VoIP(ボイスオーバーアイピー)が同じネットワークを斬新な方法で使ったのと同様に、価値の単位をやりとりするためのインフラを元に、根本的に異なる用途でネットワークを活用する技術やサービスも登場しつつある。

インターネット時代の初めの頃は、オンラインサービスの大半はダイヤルアップと x.25 を組み合わせたものだった。x.25 は競合関係にあるパケットスイッチングプロトコルで、国連の下部組織である標準化団体 ITU(国際電気通信連合)の前身であるCCITT(国際電信電話諮問委員会)が開発したものだ。The Source や CompuServe を含む多数のサービスが、インターネット経由でのサービス提供を始める前は x.25 を使っていた。

インターネットの最初のキラーアプリはEメールだったと僕は認識している。初期のオンラインサービスのほとんどでは、同じサービスを使っている者同士でしかEメールを送り合えなかった。それが、これらサービスにインターネットを通じたEメールが実装された途端に誰にでもEメールを送れるようになったのだ。これはかなりすごいことであり、Eメールが今でもインターネット上で使える最重要クラスのアプリケーションである点がそれを物語っている。

インターネットが普及するにつれ、TCP/IPスタックがさらに開発され、投入された。誰でも無料でダウンロードして手元のコンピュータにインストールすることでインターネットに接続できるフリーのソフトウェアだ。これにより、手元のコンピュータ上で実行するアプリにインターネットを通じて他のコンピュータ上で実行中のプログラムと対話させることが可能になった。これによりマシンツーマシンネットワークが誕生し、端末ウィンドウにテキストを入力するだけの時代は終わった。FTP(ファイル転送プロトコル)、そして後に登場する Gopher(ウェブが登場する以前に人気を博した、テキストベースのブラウジング/ダウンロードサービス)により、音楽や画像をダウンロードしてコンテンツの世界的なネットワークを作り上げることが可能になった。やがてこのオープンアーキテクチャに基づいたお伺い不要のイノベーションにより、ワールドワイドウェブ、Napster、Amazon、eBay、Google、Skype が誕生した。

20年前、広告会社、メディア企業そして銀行への講演で、インターネットがどれだけ重要になり、劇的な変化をもたらしていくかを説明したことがあった。当時すでに地球の衛生写真や、コーヒーポットを映すウェブカメラ映像がインターネット上にあったものの、当時はEメールと Usenet News しかなく Amazon、eBay および Google がまだ発明されていなかったため、ほとんどの人はインターネットが商業およびメディアをいかに根幹から変えることになるかを想像できてなかった。これら大企業には、自分たちがインターネットについて何かしら学ぶ必要がある、ないし、インターネットが自分たちの商売に影響するだろう、と考える人はいなかったのだ。講演での反応はぽかんとした顔やいびきがほとんどだった。

Emailがインターネット黎明期のキラーアプリであったのと同様に、僕は Bitcoin がブロックチェーンにとっての最初のキラーアプリだと考えている。eBay、Amazon および Google に相当するものが発明されつつあるのだ。ブロックチェーンは銀行業、法律そして会計業にとって、メディア、商業および広告業にとってのインターネットに相当する変化をもたらす気がしている。ブロックチェーンはコストを削減し、ビジネスの様々なレイヤーでの中抜き効果をもたらし、摩擦要素を軽減することだろう。そしてご存知のように、ある者の摩擦は他の者の実入りになるのだ。

僕が ICANN の理事だった頃に我々が注力したもののひとつは、インターネットの分化を防止することだった。ICANN の方針に異を唱えたり、インターネットに対する米国の影響力を強すぎると懸念する組織は多数存在した。我々の仕事は万人の声に耳を傾け、包括的かつコンセンサスに基づいたプロセスを作り出すことで、そのプロセスに合わせるためのエネルギーとコストよりもネットワーク効果の利点を大きく感じてもらうことだった。概ね奏功したと言っていいだろう。インターネットを設計して運用していた創始者、主要な専門家、技術規格団体などのほとんどが ICANN に連繋してくれていたことが後押しとなった。制度を決める側と専門家側との折衝が、相応の苦労はあれども、また素晴らしいものとも言えずとも、他のどの選択肢よりもマシなものとして認識されていたのだ。

考えるべき命題の1つに、Bitcoin には ICANN に相当する何かが必要なのかというのがある。Bitcoin と ブロックチェーンは、それぞれEメールと TCP/IP に相当するのか?

事情が違うのではないか、と思わせる要素の1つは、ICANN の根本的な意義が、ドメイン名によって生じた名前空間の問題が起こす集中化への対処だった点だ。ドメイン名は我々がインターネットの仕組みを考える際の必須要素であり、競合を解決するための標準化団体が必要になる。Bitcoin にはマイニングプールおよびコア開発という形では集中化が起きてはいるものの、プロトコルそのものが根本的に、機能するには分散化が必須であるように設計されているため、集中化問題に対する解決策はDNS(ドメイン名システム)とは似ても似つかないものになるだろう。インターネットにもある程度の分散化が必要だという議論も成り立つが、今のところ ICANN との関係は破たんせずに続いている。

ICANNがもたらすもう1つの重要な効能は、コア技術への変更を話し合う方法だ。技術者、ユーザー、企業および政府といった、各方面のステークホルダーの間での制度にまつわる対話をまとめる役割も担っている。主たるステークホルダーは、ICANN の元手となるビジネスを運営し、各 ISP と共にインフラの大部分を提供する、登録機関およびデータベースの担い手だった。

Bitcoin の場合は「マイナー」、すなわちBitcoin の核にある暗号論的に安全なブロックチェーンを生み出してネットワークを安全たらしめる演算を担当し、見返りとしてネットワークそのものから Bitcoin の形で報酬を受け取る個人や企業が、その役割を担っている。開発者たちが Bitcoin に適用したいと考える技術的な変更は、マイナーらが採用しない限りは普及しない。そして開発者とマイナーとでは動機が異なるのだ。マイナーには、インターネットでいう登録機関およびレジストリに類似した点がいくつかあるかもしれないが、消費者側を向いておらず、世論がどう思っていようが関係ない、という点が根本的に異なっている。

ICANN の場合と同様に、ユーザーは大事であり、Bitcoin のネットワーク効果による価値の鍵となる存在ではあるものの、マイナーがいなければエンジンそのものが動かない。マイナーは登録機関およびレジストリに比べて特定が難しく、また、変動する Bitcoin の価値、マイニングの難化傾向、そして取引費用がマーケット主導であることがマイナーの動機の変化にどう影響するかも不明瞭だ。マイナーたちがユーザーインターフェースとガバナンス機能をもつコミュニティを形成する可能性はあるものの、現状ではそのほとんどが様々な理由で水面下に隠れた独立した存在となっており、それらの理由が変わる見込みは今のところない。とは言ったものの、Bitcoin 関連の企業で株式を公開している最初の数社にはマイナー企業が1社含まれてもいる。

コア開発者もインターネットの時とは性質が異なる。インターネットの創始者たちは若干ヒッピーのノリがあったかもしれないが、多くが政府の資金援助を受けており、政府にそこそこ好意的と言えた。当時は米商務省と取引するのが有効な判断に思えたのだ。

Bitcoin のコア開発者たちはサイファーパンクである。彼らは政府や世界の銀行システムを信用しておらず、規制や何者かによる干渉に対し常に不可侵でいられる分散型で自律的なシステムを構築しようとしているからこそ開発に従事しているのだ。Bitcoin の設計には、規制側の都合を無視した側面が少なからずある。マイナー陣は Bitcoin の形で報酬を受け取るため、Bitcoin の価値を高める動機付けがあり、そのためスケーリングやネットワーク効果には関心があるものの、自分たちのハードウェアや設備への投資が利潤に結びつく前に消え失せさえしなければ、淘汰を生き抜くのが Bitcoin であれ、alt.coin のどれかであれ、同じことだと思っているんじゃないか。

規制側は明らかにネットワークのルールに口を出す動機があるものの、コア開発者が彼らに耳を貸す必要があるのかどうかは不透明だ。とはいえ、規制側が何らかの形で金を出してくれない限り、適切なスケーリングを果たしたり、インターネットのようにメインストリームにインパクトを与えたりできる可能性は低い。

インターネットの黎明期とよく似ていると思えるのが、我々がインターネットのEメールを目にしつつもウェブをまだ発明できていなかった頃と同様に、今はまだ crypto-equity やスマートコントラクトといったコンセプト(これ以外にも多数ある)の潜在的な有用性を想像しかけている段階にとどまっている点だ。

僕が思うに、過度の規制により Bitcoin ないしブロックチェーンがその可能性をまっとうできず、この副次的な経済システムの一機能にとどまる可能性がある。匿名化システムの Tor がプライバシーを必要とする人々には圧倒的に有意義であるのに対し、一般の人々にはまだ本格利用されていない状況に通じるものがある。

インターネットの成功を助けたのは、規制がなかった事、そしてイノベーションというものが原則として包括的でどこにもお伺いを立てる必要がないその性質にあると言えよう。これにはフリーおよびオープンソースのソフトウェア、そしてベンチャー投資コミュニティが大きな役割を果たしていた。僕がここで提示したい命題は、Bitcoin をとりまく状況はインターネットの時とはまるで違うのだろうか、という問いだ。Bitcoin にまつわる議論はコンテンツではなく金に関するものだし、イノベーションが格段に早いペースで起きている(Bitcoin へのベンチャー投資はインターネット黎明期の投資よりもハイペースになっている)し、一般向けメディアでの言及も増えつつあるし、各国政府が Bitcoin に強い関心を示しているわけだし。米下院議員の Steve Stockman が提唱した、Bitcoin に対する規制に5年間のモラトリアム期間を設けることなどは良案に思える。このことがいったいどうなっていくのかまったく見えないわけで、規制ではなく対話を重視したアプローチが肝要だろう。

僕はまた、レイヤーの切り分けと、他レイヤーは他レイヤーでなるようになるものとして、レイヤー単位でイノベーションを起こすことが有効に思える。言いかたを変えると、可能な限りレイヤーを切り分けた形で、個々の暗号通貨に依存しない取引所やウォレット、色つきのコイン、副次チェーンや他のイノベーションに関連した実験を進めることで、アーキテクチャそのものが結果的にどうなろうとも、得られた知見や生み出されたシステムが生き残りやすくなると考えている。

現段階は僕らがイーサネットやトークン・リングについて議論していた頃によく似た状況に思える。一般ユーザーにしてみれば、相互互換さえ確保できていれば結果的にどちらが採用になっても別にどうでもいいわけだ。しかし今回事情が違うのは、影響を受ける先が多くあり、動きが非常に早いため、失敗した場合のその様相とコストが我々がインターネットを編み出そうとしていた時よりはるかに手痛いものになる可能性があることで、これらの動きに注目している人の数も格段に多いことだ。

Edge恒例の質問は、今年は「思考する機械についてどう思うか?」だった。

僕の答えは以下のとおりだ:

「考えることについて考えるには必ず、何かについて考えることを考えることになる」 ― シーモア・パパート

思考する機械について僕がどう思うか、という問いの答えは、その機械が考えることになる対象による。僕自身は明らかに、AIおよび機械学習が社会に大きく貢献すると信じている一派に属している。人間が苦手としていることを、機械がはるかに上手にこなすことがわかってくるだろうと期待している。大量のデータ、速度、正確さ、信頼性、従順さ、演算、分散ネットワークおよび並行処理などがからむ事項だ。

ここにはパラドックスがある。我々はどんどん人間に近い挙動をする機械を開発しつつあると同時に、子供たちにコンピューターのように思考し、ロボットのように行動するよう促す教育システムを作り上げてきた。そして我々の社会が現時点でのニーズに合わせたスピードでスケーリングや成長を果たすには、信頼でき、従順で、勤勉で、物理的な筐体をもち、演算能力をもつユニットが必要だと判明した。なので我々は何年もかけて、いいかげんで感情的で気まぐれで言うことを聞かない人間たちを、肉でできたロボットに変換していったわけだ。幸い、機械的・デジタル的存在であるロボットやコンピューターが、早晩、それらを模すように教育された人々に対する需要を軽減したり、場合によっては払拭する一助となるだろう。

それでもまだ我々は、完全とは言わないまでもロボットなどが人間にほぼ近い性質を示す世界、すなわち「不気味の谷」に、ロボットデザインの発展が我々を近づけるほどに想起される、恐怖や嫌悪感を乗り越える必要がある。これはコンピューターアニメーション、ゾンビそして義手について言えることだが、不気味の谷へは両方向から近づくことができる。スマホの音声認識システムが聞き取りやすいように声色を変えたことがある人なら、我々人間の側からも不気味の谷に少しずつ踏み込んでいくことができることを理解しているだろう。

我々がこのような嫌悪感を覚える理由についてはいくつもの仮説があるものの、僕には、人間が自分たちを特別な存在だと思っていること、すなわち一種の実存的エゴが一因に思える。これにはもしかすると一神教関連のルーツがあるかもしれない。西洋の工場で作業員らがロボットを大型ハンマーで叩いていた頃、日本の作業員たちは工場で同じようなロボットに帽子をかぶせ、名前をつけていた。2003年4月7日には日本のロボットキャラクターである「アトム」が埼玉県新座市の住民として登録された。

これらのエピソードが何かを示唆しているのだとしたら、それは、精霊信仰に基づけば、我々人間が万物の霊長ではないかもしれないことにそこまで抵抗を感じずにすむのかもしれない、ということだろう。自然を、万物、すなわち人間や木や石や川や家などすべてが何らかの形で命をもちそれぞれが魂を宿している、複合的なシステムなのだとみなせば、神が我々のような姿をしていたり、我々のように考えていたり、我々のことを特別扱いしてくれたりしなかったとしても、べつだん問題にはならないのかもしれない。

なので、人類がこの自問自答を始めたこの時期に生きていることの最大の利点の1つは、人間の意識の役割についてより大きな疑問を持てることかもしれない。人間は巨大で複雑なシステムの一部に過ぎず、それは我々の理解を超えて難解なものなのだ。魂を宿した木、石、川や家と同様に、コンピューター上で動作しているアルゴリズムも、この複雑なエコシステムの別の一端に過ぎないのかもしれない。

我々人類は進化によってエゴを獲得し、自己というものが存在する気になってはいるが、これは概ね自己欺瞞であり、個体としてのヒトが進化動態の枠組みの中で有用な働きができるようにするためのものだ。その中から生じる道徳観も自己欺瞞の一種なのかもしれない。我々はもしかすると、究極的にはすべてが無意味なシミュレーションの中に生きているかもしれないのだ。そうは言っても我々の倫理観や良識が無意味とは限らない。僕に言わせれば、我々は自分たちが特別だと言い張らずとも、複雑で相互に繋がったシステムの一部である責任感を発揮できるんじゃないだろうか。機械がこれらのシステムの中で重要な役割を担うようになればなるほど、その台頭によって人間たちの間に自分たちがはたして特別なのかという議論が満ちていくであろう。それはよいことかもしれない。

もしかすると、我々が思考する機械についてどう思うかという命題は、別にどうでもいいことかもしれない。機械らは「思考」するだろうし、システムはそれに適用していくだろう。複雑なシステムの常で、結果は概ね予測不能なのだ。現状は現状のとおりで、今後はなるようになるわけだ。我々が今後に関してする予想のほとんどはおそらく絶望的なほど間違っていて、気候変動の例にあるように、何かが起きているという認識と、それに対して何か対処をするということはしばしば、ほとんど無関係なのだ。

以上は非常にネガティブで敗北主義的な見解に聞こえるかもしれないが、僕は実はかなり楽観的で、これらのシステムは非常に順応力と耐久性が高く、何が起きたとしても美しさや喜び、楽しさは存続するだろうと思っている。そこに人間たちの役割があると願いたいし、あるんじゃないかと思っている。

どうやら我々人間は、素晴らしいロボットを作り出す力はそこまではないが、機械に実装するには複雑すぎて不可能かつリソースの無駄になるであろう、気まぐれで創造的な事をしでかすにはとても向いているようだ。理想的には教育システムが、我々を機械のまがい物に仕立てようとするのではなく、人間ならではの強みをより全面に押し出した形に進化してくれるといいのだが。人間は(と言っても必ずしも我々の現在の形での意識や、それにまつわる直論的な哲学のこととは限らないのだが)ごちゃごちゃしたものや入り組んだものを、芸術や文化、意味に昇華させるのがけっこう得意なのだ。人間と機械がそれぞれ最も得意とすることに注力していくことで、相補的な素晴らしい関係性を築いていけるはずだ。人間が半導体ベースの類縁たちの効率性を活用する一方で、彼らは我々のごちゃごちゃした、いいかげんで、感情的で創造的な肉体や頭脳を活用してくれる、そんな関係が。

我々が向かう先を混沌だと考える向きも多いようだが、高まりつつあるのは混沌の度合いではなく複雑性なのだ。インターネットが体外のあらゆる要素を広大で制御不能に思えるシステムへと繋げつつあるのと同時に、我々は自らの生命の内奥を掘り下げれば掘り下げるほど、無限の複雑性を発見しつつある。頭脳がすべてを統制している気になってはいるものの、体内の微生物叢は我々の衝動や欲求や言動に影響を与えて自らの生殖と進化を支援させているわけで、人間と、人間が作り出した機械のどちらが本当に主導権を握っているのかは、いつまで経ってもはっきりしないかもしれない。しかし我々はもしかすると、周囲の他の生物たち、物、そして機械とより謙虚な姿勢でつき合えばいいところを、自分たちが特別であると信じ込むことで、より大きな被害を招いてきたのかもしれない。