2016年3月 Archives

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Photo by: Oli Scarff

(Getty Images から利用制限つきでライセンスを受けたもの/コピー禁止)

訳:山形浩生

昨晩、Free Software Foundationのリチャード・ストールマンやWorld Wide Web Consortiumのハリー・パルピンと一緒にDRMについてのパネルに出た。これはDRMに反対するFree Software Foundationのデモ行進に続いて行われたものだ。DRMについてFree Software Foundationは「デジタル制約管理」と定義しているけれど、一般には「デジタル権利管理」のことだ。

質疑応答の際に、だれかが不服従についてどう思うか尋ねた。ぼくは、それが重要だと思うと述べて、理由を説明しようとした。どこまでうまく説明できたか自信がないので、ここにもう少し完全なものを挙げておこう。

ぼくの9つの原則は、遵守よりも不服従というものだ。ある日、MITの総弁護士マーク・ヂヴィンセンゾとの会合中に、ぼくのオフィスのディスプレイにこの標語が表示されていて、かれがそれを問題視した。だから説明するはめになった。

言われた通りのことをしているだけじゃノーベル賞は取れない。アメリカ市民権運動は、市民的不服従なしには起こり得なかった。インドはガンジーとその支持者たちによる、平和的ながらも決然とした不服従なしには独立できなかっただろう。ここニューイングランド地方ではボストン茶会事件を祝うけれど、これもかなりの不服従行為だ。

社会の役にたつ不服従と、そうでないものとの間の一線はむずかしい――ときには、後になって振り返るまでそれが判断つかないこともある。ぼくは別に、法を破れとか、単に反抗的であるために不服従しろと薦めるわけじゃない。でもときには、自分の第一原則に立ち戻って、法やルールが公平かどうかを考え、それを疑問視すべきかどうかを検討しなくてはならない。

社会や制度は一般に、秩序に傾きカオスから遠ざかろうとする。その過程で、これは不服従を押し潰そうとする。それはまた、創造性、柔軟性、生産的な変化も押し潰す――そして長期的には、社会の健全性と持続可能性も。これは学術界だろうと企業だろうと、政府だろうとぼくたちのコミュニティだろうと、どこでも言える。

ぼくとしてはメディアラボが「堅牢な不服従」だと思いたい。メディアラボのモデルがもつ堅牢性の一部は、不服従と意見のちがいが存在し、それが健全で創造的で敬意を持ったやり方で表明されているおかげだ。「堅牢な不服従」であることは、自己修正を続けて革新を続けるあらゆる健全な民主主義と、あらゆるオープンな社会の本質的な要素だと思うのだ。

訳:松尾真一郎

以前のポストで書いたように、ブロックチェーンはインターネット並の破壊力を持ち、多くの機会とイノベーションを解き放つポテンシャルを持つと思うし、各種トランザクションのための、普遍的で、互換性を持ち、信頼できる低コストなネットワークになる可能性があると思う。しかしブロックチェーンは巨大なポテンシャルを持つ一方で、インターネットとOpen Webで過去も現在も経験したものと、似てはいるが多くの点でとてもちがう課題にこの技術は直面している。

私は、ビットコインとブロックチェーンの現状を心配している。

一部にはこの業界への過大投資、また一部にはビットコインがインターネットなどよりはるかにお金がらみであるため、この技術はインターネット初期ではまったく類似例がなかった危機を経験している。それでもインターネットの形成過程は、いくつか重要な教訓を与えてくれる――特に重要な点として人材の問題と知識の蓄積という問題についてだ。インターネットの初期において、そして一部のレイヤでは今でも、インターネットを動かすために必要な中核要素を正しく理解できるだけの技術的なバックグラウンド、能力、そしてパーソナリティを持つ人は非常に限られた少数の人だった。かつてはBorder Gateway Protocol (BGP)を本当に理解している人が世界中に五指に満たないほどだったから、日本でPSINetを作る時にはその人々を探し出して、「競合他者」と共有しなくてはならなかったものだ。

今日、ビットコインとブロックチェーンにも同じような状況がある。暗号技術、システム、ネットワーク、コードを理解し、ビットコイン自体のソフトウェアコードを理解出来る人は少数だ。そのうちの何人かは、Ethereumや他の「関連」システムに従事し、さらに数人は世界中の他の場所に散在しているけれど、その大多数はビットコインに従事している。これはコミュニティであり、このコミュニティにいたのは、1990年代のWebが普及する前の時代に、Financial Cryptography会議のようなイカレた会議に参加していた連中だ。インターネットの各種フリーなオープンソースソフトウェアのコミュニティと同様に、これはお互いを知っていて、おおむね(ただし常にではないが)お互いをリスペクトしていて、でも基本的には才能をほぼ独占しているような人の集まりだ。

残念ながら、ビットコインと今日の「ブロックチェーン」の急激な成長は、ガバナンスという観点からこのコミュニティに不意打ちを食らわせてしまい、おかげでビットコインのコア開発者は、この技術をスケーリングさせることがビジネス上の肝となっている、商業的利害関係者とうまくインターフェースが取れずにいる。「ビットコインのスケーラビリティを向上させられるか?」と問われた時に、「精一杯頑張るけど」とコア開発者は答える。多くの人、とりわけビットコインのアーキテクチャやビットコインの内部で何が起きているのかを理解していない人にとって、こんな回答では不十分だった。

もっと単純なシステム――Webサイト構築や、企業向けのERPシステムの購入運用――での意志決定に慣れた多くの企業は、顧客のニーズをもっときちんと聞いてくれる他のエンジニアをあっさり雇えると思い込んでいたり、「約束はできないけど、頑張ってみるよ」というコア開発者の態度に苛立つあまり、システム導入の基準を下げて、自分たちの要求を満足させると約束させる相手ならだれでも採用したりするようになっている。

ビットコイン、分散化台帳などのブロックチェーン関連のプロジェクトの将来は、このコミュニティに依存している。多くの人たちは彼らのことを「Bitcoin Core」と呼び、まるですぐにでも契約を切れる企業の一種のように扱ったり、いい加減な開発者の寄せ集めで、そいつらの技能なんか他の人を訓練すればすぐ身につくものと思ったりしている。でもそうではない。彼らはアーティストや科学者や精密エンジニアのようなものであり、共通の文化と言語を作り出すことができる。彼らがやっていることができる他の人たちの集団を見つけようとするなんて、Webデザイナーたちにスペースシャトルを発射するように依頼するようなものだ。コミュニティはクビにはできないし、統計的に言えば、ビットコインに従事している人たちこそがそのコミュニティなのだ。

もし「ビットコインのようだけれどもっと良いもの!」を作ろうとしても、それはおそらくセキュアではなく、面白くもないだろう。そして、インターネットがメディア、コミュニケーション、そして商取引に与えたのと同じように、銀行、法律、そして社会に大きな影響を与えるポテンシャルをビットコインに与えている「基本的な本質」には反したものになるだろう。

ビットコインはオープンなプロジェクトで、常に分散化、堅牢性、イノベーションの原則を推し進める、非効率的なこともあるがオープンなコミュニティプロセスだ。ビットコインは単一のシステムじゃない。これを破れば65億ドルの懸賞金が得られる、実動システムだ。この高い評価額のおかげで、そのネットワーク上に何かが実際に展開されるときには非常に多くの注意が払われ、テストが行われる。でも非常に多くの人がビットコインを破る方法を考えているが、それが失敗しているということにはかなり自信が持てる。

EthereumとRippleはおそらくビットコインの次に大きく、1億ドルレベルのシステムだ(Ethereumは今は4億ドル以上である)。Rippleは基本的はビットコインとは根本的にちがう合意アルゴリズムを採用しているし、Ethereumは面白く有用な特徴を持っている。もしビットコイン上であるトランザクションができなかったり、アプリケーションを開発できなかったりする場合、RippleやEthereumが注目されるのも当然だろう。もしセキュリティや安定性を真剣に考えるのであれば――是非そうあってほしい――ビットコインは、最高額の取扱い高と最大のコミュニティを持つほぼ唯一の選択肢であり、実世界の広範囲な実稼働ネットワークに展開している、もっとも実用的な近年の実績を持っている。

多くの人々はアプリケーションの可能性に興奮するあまり、そのアプリケーションが稼働するシステムのアーキテクチャを全く考えていない。多くのインターネット企業が、インターネットがひとりでに動作していると思い込んでいるように、そうした人々はどのブロックチェーンもまったく同じで当然動作するものだと思い込んでいる。でもインターネットは、そういう発想でもほとんどやっていける程度には成熟してきたが、ブロックチェーンはとてもそこまできていない。そういう人たちは、ビットコインに取り組む連中のことを、イカレたリバータリアンの烏合の衆だと思っていることも多く、そいつらがクールなアイディアを思いついたのは事実だけれど、雇われエンジニアを集めれば、お金次第で同じものが作れるはずだと思い込みがちだ。各国政府や銀行は、セキュアな台帳を実際にどう構築するか十分に考えないまま、あらゆる種類の計画を進めようとしている。

こわいのは、アプリケーション層ではビットコインやブロックチェーンが目指していたものに見えるものができても、その中身は相互運用性がなく、分散システムではなく、信頼なしのネットワークもなく、拡張性がなく、オープンイノベーションでもなく、新技術でちょっとばかり効率が向上したぐらいの古いトランザクションシステムとなってしまうことだ。

これには良い前例がある。インターネットがもたらす重要な便益の1つは、インターネットを構成するそれぞれの技術レイヤが、コミュニティで開発された技術標準で正しくサンドイッチされ、すべてのレイヤでオープンなプロトコルについてイノベーションと競争が許されていることだ。これこそが、コストダウンとイノベーションを加速した。モバイルWebができる頃には、こうした原則を見失い(またはコントロールを失い)携帯電話会社にネットワークを任せてしまった。だからこそ、有線インターネットではデータコストなんか気にしないのに、国境を超えたらモバイル環境における「通常の」インターネット体験が、たぶん家賃よりも高いなんてことになってしまう。モバイルインターネットはインターネットのように感じられるが、実は多くのレイヤで独占的なシステムが存在する、インターネットの醜くて歪んだコピーだ。これこそまさに、アプリケーションレイヤがアーキテクチャをずさんで無原則な形で引きずったときに起きることだ。

最後に、だが最も重要なこととして、コードとアーキテクチャの設計に最も集中してほしい開発者たちを消耗させすぎている。多くの人がすでに脱落し、脱落を匂わせている。多くの人が世間での議論のおかげで完全にやる気をなくし、精根尽き果てている。いずれ新世代の金融暗号学者が登場すると信じるにしても、このコミュニティなしにはそういう人々を訓練できない。多くの賢明な人たちがこの論争のあらゆる方面にいるし、そのほとんどは善意でやっているとは思う。でも外野から対立を煽り、無知で挑発的な発言をしてみたり、この世界を一変させる可能性を持つイノベーションに対してビットコインコミュニティが過去、現在、未来にわたり行ってきた貢献について、根本的に軽視して価値を貶めてりする人たちは、有害でしかない。

これまで、私は事態が自然に沈静化することを願って静観していたし、今後本当に沈静化してくれるのかもしれない。でも目に入るのはますます多くの誤報と大風呂敷ばかりで、「ブロックチェーン」は「IoT」や「クラウド」と同じ役立たずのなんでも用語になり果てている。それを見ると、悲しくなるし、ちょっと怒りも感じてしまう。

これからまとまった時間をかけて、未来に影響の大きい分野で見かける、最も見当ちがいの代物については対抗措置をとったり議論にバランスを持たせたりすることにした。ビットコインコア開発者コミュニティは堅牢だが、ステークホルダーのエコシステム、意志決定や情報共有の方法に関する理解は、未だに壊れやすく脆弱だ。幾つかの中核グループや個人の間にあるコミュニケーションと感情の亀裂は、今現在ではかなり広いのではと恐れている。でもこのコミュニティをまとめあげ、技術と実用の両面で広くコンセンサスが最も得られそうな、共有された技術プランの実施がとても重要だと思うのだ。もっと堅牢で、将来起こるであろう避けられない不一致に対しても、冷静で技術的で、実現可能な方法で運営できるようなコミュニティ構築ができればと願う。