2014年10月 Archives

3年前にMITメディアラボのディレクターに着任した時、僕の主たる「前職」はスタートアップ起業への投資と助言だった。僕は主にインターネット関連のソフトウェア系・サービス系の会社(Twitter、Flickr、Kickstarter など)に投資をしていた。メディアラボおよびMITに所属することになったのは、僕にとってはちょっとした方針変更だった。世界に影響を与えるという観点では、アカデミアは根本的に別のモデルであり、商業化するのがそこまで容易ではない基礎的な科学や技術に焦点を当てたものだからだ。

メディアラボ着任後にそこの事業に注力できるように、僕はスタートアップ起業への投資をやめる決意をした。(正式にラボでの仕事を始める前に、メディアラボ同窓系の会社である LittlebitsFormLabs に投資していた。)メディアラボとMITについて学ぶことに没頭する中で、各種の科学や技術がこの世に出てきた流れについて学び、考え続けた。とりわけ、人の健康に多大な影響を及ぼす生物医学研究が、多額の先行投資を必要としており、他分野とは大きく異なる様相を呈している点に好奇心をそそられた。僕は生物医学研究についてほとんど知らなかったが、強い興味をおぼえたのだ。

MITに着任する以前から Bob Langer(ボブ・ランガー) の話は耳にしていた。生物医学研究の商業化への貢献、および、バイオエンジニアリング(生体工学)分野の躍進の一助となったことで有名な人物だ。特許を1050件持っていて、何十人もの研究者のグループが傘下にいる。Bob はMITに11人いる、Institute Professor(インスティテュート・プロフェッサー)と呼ばれる、卓越した業績を認められ、各学部長ではなく総長直属となっている教授職の1人だ。

去年6月、Bob の元教え子で、彼のラボ発のスタートアップを経営していた David L. Lucchino(デビッド・L・ルッチーノ)が Bob Langer および友人数名を含むメンツでレッド・ソックスの試合(僕自身は初観戦)に呼んでくれた。隣に座った僕に、Bob が自分の分野について、およびMITでの物事の進め方について教えようと提案してくれた。以後、Bob は僕にとってまさしく師匠と呼べる存在になったし、今ではメディアラボとも提携してくれている。メディアラボを拠点とし、MIT全域におよぶイニシアチブである、Center for Extreme Bionics(先鋭的生体工学のための研究センター)との連携下で、人間の身体障害を取り除くことに焦点を当てた多種多様な技術に取り組んでもらっている。

最近になり、Bob から関連のあるプロジェクトとして、彼がPureTech という会社で協働創設者および上級パートナーとして取り組んでいる仕事について聞かされた。PureTech は主に医療および生物医学分野にて、科学と工学を使って革新的な製品や会社を生み出すことに注力しており、研究者に足場を提供するとともに、技術および会社の初期段階に資金援助しているのだ。

同社では上級パートナー、研究者そして起業家からなるチームが、様々な開発段階にある計11のプロジェクトに取り組んでおり、会社の舵取りは創設者兼CEOである Daphne Zohar(ダフネ・ゾハール)が担っている。表面上はインキュベーターに見えるものの、実際はいくつもの点で新しいモデルと呼べる。PureTech 社内で実際にトランスレーショナル・リサーチ(基礎研究から応用分野におよぶ研究)が行なわれており、PureTech のチームは創設者としても、研究所の運営や実験の実施などの面においても、積極的に活動しているのだ。

Bob の話では、ソフトウェア/インターネット関連の要素がからむ PureTech 系の会社が増えつつあるため、取締役会に同エリアの専門家をもっと入れたいと考えているとのことだった。これは僕視点では理想的なチャンスに思えた。一線級の皆さんに混じって医療、生体工学そして生体医学技術に関する対話に参加しつつ、僕に経験のあるビジネスの一分野のノウハウを提供できそうだと考えた。

医療は万人に関係のあるものだ。我々の誰もが多かれ少なかれ患者兼消費者であり、患者は今後ますます、医療に関する意思決定の中心となっていくだろう。そしてウェアラブルデバイスの台頭により、リアルタイムで我々の生理状態を測定できる技術が普及することになるだろう。技術と臨床の距離が縮まるにつれ、デジタル技術もますます医療の主流に入り込んできて、「electronic medicine」 (電子医療)と呼ばれつつある、驚異的な成長余地を秘めた真新しい分野を形成していくだろう。インターネット系/技術系の会社が判断材料として活用している大量のデータは医療にも活用可能で、リアルタイムでの疾病モニタリングや、ターゲットを絞った新たな患者との連携などが可能になっていくだろう。

先日僕も同社の取締役に就任し、連携先の2社に注力している。1社は Akili という会社で、認知力ゲームを通じた認知力の問題の診断と治療を探求しており、もう1社は学際的なデジタルヘルスプロジェクトを、現在はまだステルス状態で進めているところだ。

医療と生体工学は急成長中の刺激的な分野だと思うし、これらの分野の優秀な研究室がケンドール・スクエア/ケンブリッジエリアにたくさんあるため、立地的な優位性もあると考えている。PureTech が新しい形で人の健康に好影響を与える効果的な筋道をつける一助となればと思うし、僕自身も学び続けながらそれに貢献することを望んでいる。

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メディアラボに着任して最初に学んだ言葉のひとつに「antidisciplinary」(脱専門的)というものがある。新設の教員職の求人情報に、必要条件として記載されていたのだ。異なる専門の人々同士が連携することを「interdisciplinary」(学際的)と言うけれど、脱専門的なプロジェクトというのは、いくつかの専門分野の総和ではなく、真新しい何かを意味している。「脱専門性」という言葉自体、定義が難しい。僕自身は、従来の学界的な意味での専門分野の区分けに適合しない何か、もしくは誰か、すなわち独自の語句、フレームワークや手法をもつ研究分野、の意味に解釈している。研究者の多くは、論文審査(ピアレビュー)のある著名な専門誌への掲載回数でその実績をはかられる。論文審査は通常、ある人が属する専門分野の実力者たちが、その人の仕事をレビューして、重要かつ独創的であるかどうかを判断するというものだ。この構造ゆえ、研究者は型破りゆえにハイリスクなアプローチよりも、自分の専門分野での少数の専門家に認めてもらうことに注力しがちになる。この力学が、より狭い範囲の内容をより深く探求していくという、研究者のステレオタイプを助長している。超専門化により、異なる専門分野の人々が他分野の人々と連携することはおろか、コミュニケーションすらとりにくくなってしまっているのだ。僕にとっては脱専門的な研究とは、数学者 Stanislaw Ulam(スタニスワフ・ウラム)の有名なコメントに類似するものだ。彼は非線形物理学の研究を「ゾウ以外の動物の研究」のようなものだと称した。脱専門性とは、まさしくゾウ以外の動物に着目することを意味する。

メディアラボは「独創性、インパクトそして魔法」に注力している。ラボの学生および教員は、ユニークなことに取り組むべきである。別の誰かがやっていることに取り組むべきではない。別の誰かが同じことを始めた場合、ラボ側では中止すべきだ。我々の取り組みはそのすべてがインパクトを与えるものでなくてはならない。そしてそれは我々に情熱を沸き起こすものであるべきで、漸進的な発想にとどまるべきではないのだ。ここでの「魔法」とは、インスピレーションの元になるプロジェクトに取り組むべしということだ。「Lifelong Kindergarten」グループでは、研究者がしばしば「創造的な学びの4つのP」として「Projects」(プロジェクト)、「Peers」(仲間)、「Passion」(情熱)そして「Play」(遊び)を挙げる。遊びは創造的な学びには非常に重要なのだ。報酬とプレッシャーで人を「produce」(生産)するように仕向けることが可能だと示している研究は多々あれども、創造的な学びそして思考には遊びによって生じる「余地」が必要なのだ。プレッシャーや報酬はしばしばその余地を減じさせてしまうため、結果的に創造的な思考をつぶしてしまいかねない。

メディアラボで求めている種類の研究者とは、既存の専門分野の中間に位置しているか、あるいはそれらを超越しているため、どの専門分野にも当てはまらない人材なのだ。僕はしばしば、自分のやりたいことを他のいずれかのラボか学部でできるなら、そっちでやるべきだとコメントする。やりたいことをできそうな場所がメディアラボしかない、という人だけがうちに来るべきだと。メディアラボは脱専門的なはみ出し者の巣窟に他ならない。

我々が生み出した「余地」について考える時、僕は「すべての科学」を表す巨大な1枚の紙をイメージする。各専門分野はこの紙の上の小さな黒い点であり、点と点の間にある広大な白紙部分が脱専門的な余地に当たる。この白い余地でのびのびやりたい人は大勢いるものの、そこに対する出資は非常に限られており、黒い点のどれかに専門的な足がかりがないと、在職権のあるポストに就くのはさらに困難となってしまっている。

我々が様々な分野や視点の協力を必要とする、より困難な問題に取り組んでいくにつれて、専門分野同士の乖離によるマイナスがますます大きくなっていっている印象だ。複雑怪奇なシステムである人体は、尋常じゃないほど集学的な分野となってきた。我々は本来、「唯一の科学」と呼べるものに従事すべきなのだが、現状では異なる専門分野がモザイク様に散在しており、口にする言語や顕微鏡の設定があまりにも異なるため、同一の問題に取り組んでいてもそのことにお互い気づかないことすらあるのだ。

Hugh Herr(ヒュー・ハー)、Ed Boyden(エド・ボイデン)、Joe Jacobson(ジョー・ジェイコブソン)、Bob Langer(ボブ・ランガー)率いるメディアラボのCenter for Extreme Bionics(先鋭的生体工学のための研究センター)では、機械工学から合成生物学、神経科学に至るまでのあらゆる知見を用いて、多種多様な身体障害を打ち消すという挑戦を続けている。これらの専門分野は多種多様すぎて、従来の学部や研究室の枠組みでは決して協働できないだろう。
メディアラボの共同創設者である Nicholas Negroponte(ニコラス・ネグロポンテ)はかつて、アカデミア在職者は「publish or perish」(論文発表無き者は滅ぶ)だという格言をもじり、メディアラボの在職者の規範は「demo or die」(実証無き者は無価値)だとの金言を打ち立てた。僕はこれをさらにもじり、「deploy or die」(実装無き者に明日は無い)をモットーとしたい。メディアラボの全教員および学生は、自分たちの仕事が究極的に世の中に対してどのような形で実証されるのかを考え続けてほしいし、それを自らの手でなしえるなら、さらに素晴らしいことだ。

連携して大がかりなプロジェクトに取り組むというこの考え方により、分野の垣根を越えて研究者たちが繋がっていき、多数の分断された専門分野ではなく、一つの科学へと融合していくのではなかろうか。専門分野はまだ必要であり続けるだろう。しかし、このような高次の取り組みに注力するとともに、学界や研究費のあり方を改革することで専門分野間の広大な白紙部分、脱専門という大いなる余地で活躍する人たちの数を増やしていくべき頃合いだと、僕は考えている。
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追記:メディアラボの教員の1人から、各専門分野は小さな点というよりも幅が広めの帯状になっており、引用件数の多い論文の多くは、斬新な「脱専門」的余地に位置するものだ、との指摘をいただいた