2019年7月 Archives

小さな子どもをもつ親なら誰でもそうだと思うが、わたしも2歳になろうとしている娘をどこまでテクノロジーに触れさせていいのか悩んでいる。特にYouTubeとモバイルデヴァイスは判断が難しい。

2018年に実施されたある調査では、米国の親が子育てで最も不安に感じているのは、子どもがデジタルデヴァイスを使いすぎることだという結果が出ている。厳密な研究に基づいて実証的な方向性が示されたガイドラインは、なかなか見当たらない。こうした状況を考えれば、わたしが友人たちからのアドヴァイスにある奇妙な傾向を見出したのも不思議ではないかもしれない。

一般的に、リベラルでテクノロジーに精通した人たちほど、子どものスクリーンタイム(スマートフォンなどの利用時間)に関しては、なぜか保守的になる。そして、子どもがデヴァイスの画面を見つめている時間を厳しく制限しようとするのだ。

わたしが特に衝撃を受けたのは、子どもとテクノロジーの関係を巡る友人たちの意見が、一般の研究や調査に基づいたものではないという点だった。友人たちはどうやら、恐怖をあおり立てるような内容の書籍やメディア報道、YouTubeを見続けた場合の問題点だけに焦点を絞ったTEDのトークといったものを根拠にしているようなのだ。

いまや欠かせない「コネクテッド子育て」

子育てについて、わたしは妹の伊藤瑞子に相談することがよくある。カリフォルニア大学アーバイン校でConnected Learning Labを率いる彼女は、2人の子どもを育て上げた母親でもあるからだ。Connected Learning Labでは、子どもとテクノロジーのかかわりについてさまざまな研究が行われている。彼女の意見は、「テクノロジーの恩恵を受けている親たちは子どものガジェットの利用時間を心配するよりも、子どもがテクノロジーを使って何をしているのかに関心をもつべき」というものだ。

彼女は米小児学会(AAP)が、いわゆる「2×2ルール」を取り下げたことを歓迎している。これは子どもが生まれてから2年間はコンピューターを使わせず、また18歳までは利用時間を1日2時間以内に制限すべきという子育ての指針だ。彼女は、このルールのせいで子どもにガジェットを使わせることへの罪悪感が生まれたと考えている。そして、彼女が「コネクテッド子育て」と呼ぶ、子どもとデジタルとのかかわりに親が参加していくという方法論は無視されるようになってしまったと言う。

わたしもこのコネクテッド子育てに取り組んでいる。例えば、娘と一緒にYouTubeを見て、彼女が新しく覚えたダンスを踊っているときは、エルモに合わせて歌うのだ。毎日、帰宅すると娘がその日に見つけた動画や新しいキャラクターを見せてくれる。そして、彼女がベッドで眠りにつくまでの時間に、新しい動画に出てくる歌を覚えたり遊びをしたりする。

娘の祖母は日本にいるのだが、妻のiPhoneから、この就寝前の特別な時間に参加することができる。彼女はヴィデオ通話の画面から、娘がYouTubeの動画に合わせて歌うのを褒めてくれる。遠くにいる家族とのこうしたつながりを奪うなどということは、わたしにはとても考えられない。

それは「デジタルのヘロイン」なのか?

子どものスマートフォンやネット依存を巡る議論は、違法薬物の撲滅運動のようなナラティヴで語られることがある。心理学者ニコラス・カルダラスの著書『Glow Kids: How Screen Addiction Is Hijacking Our Kids ― and How to Break the Trance』(照らされる子どもたち:子どもを支配するスクリーン中毒とそこから抜け出す方法)がいい例だろう。

カルダラスはこの本のなかで、スクリーンを見続けるとセックスをしているときのようにドーパミンが大量に放出されると述べる。カルダラスはこれは「デジタルのヘロイン」であり、子どもがネットの利用時間を管理できない状況は「中毒」と呼ばれるべきだと主張する。

別の心理学者によるもう少し冷静な(そしてここまで警戒的ではない)分析も紹介しよう。児童心理学者アリソン・ゴプニックは、テクノロジーが子どもに及ぼす影響について、よりバランスのとれた見方をしている。

「スクリーンを眺めていると頭を使わない状態になってしまうことがよくありますが、同時にインタラクティヴで探索的なこともたくさんできます」

ゴプニックはまた、デジタルでのつながりは子どもの心理的な成長の正常な一部なのだと説明する。彼女は「友だちが『いいね!』をしてくれたら、ドーパミンが出るのは普通です」と指摘する。

スクリーンタイムの量と質

スマートフォンなどの使用が子どもにそれほど大きな影響を及ぼさないことは、研究でも証明されている。保守的なAAPですら、インターネット依存やゲーム中毒とみなされる子どもの割合は全米で4〜8.5パーセントにすぎないと認めているのだ。オックスフォード大学のアンドリュー・プシュビルスキーとエイミー・オーベンが未成年者35万人を対象に実施した大規模な調査では、心理面での影響はごく軽微で、統計的にはほとんど無視できる水準であることが明らかになっている。

一方、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)のソニア・リヴィングストンとアリシア・ブルム=ロスの調査では、親の間で子どもをテクノロジーに触れさせることへの懸念が広まっていることがわかっている。ただ、ふたりはデジタルデヴァイスの利用時間を「スクリーンタイム」という言葉で一律にくくってしまうことには懐疑的で、保護者は単純に時間を計測するのではなく、その質に注目すべきだと考えているという。

Connected Learning Labの発達心理学者キャンディス・オジャーズは、未成年者のデジタルデヴァイス利用を巡る論文を調査した。オジャーズは、デジタルデヴァイスに触れることがプラスとマイナス両面の効果があるが、負の影響ばかりが強調されていると指摘する。「本当の問題はスマートフォンではなく、誤った情報が広まることで保護者や教育者の間に恐怖が生まれることなのです」

この点に関しては、長期的な研究に早急に着手することが必要だろう。デジタルデヴァイスとその挙動を決めるアルゴリズムが子どもたちにどのような影響を及ぼすかについて、厳密に調べていくのだ。

正確な研究結果が出て初めて、わたしたちはこうしたシステムをどのように設計し最適化するかについて、エヴィデンスに基づいた決定を下すことができるようになる。子どものデジタルデヴァイスの利用を管理監督する責任が親だけに押し付けられている現状を、変えていかなければならない。

デヴァイスの使い方の中身に注目せよ

わたしは個人的には、ほとんどの子どもにはスクリーンタイムよりも重要なことがあると考えている。保護者は子どもの教育や健康、保育施設といったより深刻な問題を抱えている。わたしが所属しているような、いわば社会的エリートのグループの外部では特にそうだろう。

昨年10月に『ニューヨーク・タイムズ』にシリコンヴァレーの子育てについての記事が掲載されたが、テック業界でもある程度の地位にいる人なら、子どもをデジタルデヴァイスから引き離しておくために人を雇うことができる。こうした余裕のある親のもとに生まれた子どもたちが、過度なデヴァイス利用の弊害を受ける恐れは少ない。

そして、わたしやその周囲の人々には、子どもをおとなしくさせるにはスマートフォンを見せておくしかないような状況に置かれることもある世間一般の親たちに、あれこれ言う資格はないだろう。わたしたちが取り組むべきなのは、すべての保護者、特にベビーシッターやナニーを雇う余裕のない親たちのために、この種の新しい子育て道具が安全かつ楽しいものになるようなテクノロジーを生み出すことだ。

もちろん、実際にデジタルデヴァイス依存という問題を抱える家庭を無視しているわけではない。ただこうした場合でも、スクリーンタイムを厳格に管理するよりは、むしろその中身に注目することのほうが重要なのではないかと、わたしは思っている。

わたしたち大人の子育ての矛盾

デジタルデヴァイスの利用を巡って妹が使う例のひとつが、砂糖だ。砂糖の摂取は一般的には健康に悪く、さまざまな弊害を伴うことは周知の事実である。砂糖には中毒性もある。ただ、たまには親子で牛乳とクッキーというおやつの時間を楽しむことは、家族のつながりという意味では有益なのではないだろうか。

禁止という行為が裏目に出ることもある。ルールを破ってしまったことで挫折感を味わったり、子どもが隠れてスマートフォンを使っているのではないかという不信感が生まれる可能性もあるだろう。

子どもがコンピューターを使う時間を管理しようとするとき、親は監視ツールのようなものを使うことがよくある。ただ、こうした場合、特にティーンエイジャーはプライヴァシーを侵害されているように感じることが多い。

また、NPOのCommon Sense Mediaが実施した調査では、誰もがそうではないかと思っていたことが証明された。つまり、親はデジタルデヴァイスを多用しており、子どもがスクリーンに興味をもつのは親の真似をするからだというのだ。この事実は、わたしたち大人の子育ての矛盾をレーザーのように鋭く突いている。

マサチューセッツ工科大学(MIT)教授のシェリー・タークルは著書『つながっているのに孤独──人生を豊かにするはずのテクノロジーの正体』のなかで、デジタルデヴァイスのために家庭でのやりとりが減り、家族のつながりにひびが入りつつあると指摘した。

わたしも、デヴァイスによって気が散ることがあるという意見には賛成だ。講義中に「ちょっとノートパソコンを閉じて」と言うことはあるし、ディナーの最中にメールを打つのは普通は失礼に当たると思う。ただ、iPhoneのせいで家族が崩壊しつつあるかというと、それは少し疑問に感じるのも事実だ。

ポジティヴになり、子どもを見守るということ

わたしが幼いころには、デジタルデヴァイスというものはほとんど存在しなかった。ただ、わたしは毎日、幼稚園から脱走を繰り返していて、最終的にはそこを追い出された。高校ではさまざまな課外活動は熱心にやったが、授業への出席率は最低で、ぎりぎり卒業している。それでも、母はルールに従うことのできないわたしを積極的にサポートした。本来やるべきとされる分野には見向きもせず、興味のあることしかやらないという傾向を徹底して認めてくれたのだ。

母とわたしは強い信頼関係で結ばれており、おかげで、わたしは失敗したせいで見捨てられたと感じたり、恥ずかしく思ったりすることなく、そこから学ぶことができた。ときには進む方向がわからなくなることもあったが、大きな問題はなかった。

母は子育てではポジティヴであることが重要だと直感的に理解していたようだ。Connected Learning Labで幼児期の育児とメディアについて研究するシュテファニー・ライヒは、「どのような研究でも、鋭敏で愛情深く、子どもにきちんと注意を傾ける保護者に育てられるのがいちばんだという結果が出ています。首尾一貫していて、子どもと的確なコミュニケーションをとれるような親がいいのです」と話す。ある研究では、子どもを温かく見守り、制限はなるべく設けないほうが認知面でプラスの効果が出るということが示されている。

娘がYouTubeの動画からダンスを学んでいくのを見るたびに、毎朝オンラインゲームをやっていた幼いころのわたしを眺める母のことを想像する。わたしはこの習慣のおかげで世界中に仲間ができ、インターネットの初期の時代からその可能性を模索するといったことにもつながったのだ。

娘がいまのわたしの年齢になるまでには、どんなことが素晴らしいことや、ひどいことが起きるのだろう。娘にはデジタルデヴァイスやそこから広がる世界とよい関係を築くことで、未来に向けた準備をしていってほしいと願っている。

Credits

Translation by Chihiro OKA

昨年、サイバネティクスに関するノーバート・ウィーナーの名著『人間機械論』を扱ったディスカッションに参加する機会があった。そしてこの場で、わたしがシンギュラリティ(技術的特異点)を巡る議論に対するマニフェストとみなすものが生まれている。

シンギュラリティとは、近い未来に人工知能AI)が人類の知性を凌駕し、人間にとって代わる日がやって来るという議論だ。この説の提唱者たちは、AIは指数関数的に高度化し、わたしたちがこれまでになし遂げてきたことはすべて意味を失うと主張する。

これは、かつて機械には複雑すぎると考えられてきた問題を解決する手法を設計し、コンピューターの進化に寄与してきた人たちが編み出した、いわば宗教のようなものだ。こうした人々は、デジタルの世界で完璧な仲間を見つけたのである。

すなわち、理解可能かつコントロールもできそうな機械をベースとした思考と創造のシステムが存在し、的確にデザインすれば、その処理能力を急速に向上させていく。しかも、システムの進化に寄与した者は富と権力を得ることができるのだ。

シンギュラリティという概念の基本的欠陥

シリコンヴァレーではこれまで、こうしたテクノロジーのカルトの経済的な成功と集団思考とが相まって、自己規制が欠落したフィードバックのループが生み出されてきた(一方で、「#techwontbuild」「#metoo」「#timesup」といったハッシュタグに代表される、ささやかな抵抗運動も存在する)。

シグモイド関数のS字カーヴや正規分布の曲線は、勾配の始まりにおいては指数関数のそれと形状がよく似ている。しかし、システムダイナミクスの専門家によると、指数関数の曲線は上限なしにプラス方向に伸びていくため、自己強化的で危険だという。

シンギュラリティの提唱者たちは、指数関数にスーパーインテリジェンスと富を見出す。これに対し、シンギュラリティというバブルの外にいる人は、S字カーヴのような自然なシステムを信じている。それは外部からの介入に的確に反応し、自己調整していくシステムだ。

例えば何らかのパンデミックが起きても、時間が経てば拡大は収束する。パンデミック以前と同じ状態を回復することはできないかもしれないが、新たな秩序が形成されるのだ。これに対し、シンギュラリティという概念(特に、いつか人類が自己存在の葛藤を乗り越える審判の日が訪れる、もしくは救世主的なものが出現するという予言)には基本的な欠陥がある。

いまなお残る還元主義的な議論

この種の還元主義的思考は目新しいものではない。心理学者のバラス・スキナーがオペラント条件づけ[編註:報酬などによって自発的に特定の行動をとるよう学習させること]を体系化して以来、学校教育はおおむねこの理論に基づいてデザインされてきた。

一方で、最近の研究では、スキナーのような行動主義的アプローチは狭義の学習でしか機能しないことが明らかになっている。それにもかかわらず、多くの学校ではいまだに反復訓練などオペラント条件づけの柱となる要素が重視されている。

もうひとつ、優生学という例を挙げよう。人間社会における遺伝的特性の役割を過度に単純化したこの学問は、第2次世界大戦中のナチスによるジェノサイドの根拠となった。

優生学では、自然淘汰を人為的に押し進めることで「優れた人間だけを残す」ことができるという還元主義的な議論が展開される。この恐るべき思想は現在も根強く残っており、科学の世界では遺伝と知性のような特性とを関連づけて扱う研究は、いかなるものもタブーとなっている。

「シンギュラリティの夢」の産物

科学の発展の重要な推進力のひとつに、複雑な事象を簡潔に説明し、それを理解する力を高めたいという願望がある。しかし、「何ごともできる限りシンプルにすべきだが、必要以上に単純化してはならない」というアルバート・アインシュタインの言葉も、覚えておく必要があるだろう。

わたしたちは現実世界の不可知性を受け入れなければならない。世界を単純化することはできないのだ。芸術家や生物学者、人文科学に携わる人々はこのことをよく理解しており、世の中には説明できないこともあるという事実に特別な不安を抱いたりはしない。

人類が抱えている問題の大半は、いわば「シンギュラリティの夢」とでも呼ぶべきものの産物であることは明白だ。気候変動や貧困、慢性疾患、近代的テロリズムといったものはすべて、わたしたちが指数関数的な成長を目指した代償なのである。

こうした現代の複雑な問題は、過去の問題を解決するために行われたことの結果として生じている。生産性の向上を際限なく追求し、制御するには複雑になりすぎたシステムを無理に管理しようとした果てに、いま目の前に広がる世界があると言っていい。

「システムのシステムからなるシステム」

現代の科学の問題に効果的に対処するには、規模と次元を超えて相互接続された複雑な自己適応型システムを尊重しなければならない。システムの参加者も設計者もそれを完全に理解はできないし、同時にそこから離脱することも不可能なのだ。

言い換えれば、人間は誰もが異なる規模の適応度地形をもつ複数の進化システムの内部にいる。体内の微生物レヴェルから、個人としての社会とのかかわり、あるいは人類という種における個体としてまで、その段階は実にさまざまだ。

人間という個体で考えると、それは「システムのシステムからなるシステム」といった構造になっている。そして、例えば人体を構成するそれぞれの細胞は、個としての人間よりもシステムの設計者のような振る舞いを見せる。ケヴィン・スラヴィンが2016年に「Design as Participation」と題したエッセイで書いたように、「あなたは交通渋滞に巻き込まれているのではない。あなたは交通そのもの」なのだ。

種としての生物学的進化(遺伝的進化)は繁殖と生存によって促されるため、わたしたちは成長して子孫を残すというゴールに向かって走るようプログラムされている。システムは成長を規定し、多様性と複雑性を確保しながら、自己の適応力と持続可能性を高めるために絶えず進化している。

これはシステム内部の者による「参加型デザイン」と呼ぶことができるだろう。参加型デザインとはシステムに多様な機能を追加していくようなもので、ここでの繁栄は金や権力、規模の大小といったものではなく、いかに健康で活力的であるかによって測られる。

人間と機械の統合

これに対して新しい知性を備えた機械は、明らかに異なる目標と方法論によって動いている。こうした機械を例えば経済、環境問題、医療といった複雑な自己適応型システムに組み込めば、機械はシステムの構成要員を侵略するのではなく扶助し、さらにはシステム全体を補強していくだろう。

ここにおいて、シンギュラリティの提唱者たちによって提示された「AI」の定式化に問題があることが明らかになる。それは、ほかの適応型システムとの相互作用の外部にある形式、目標、方法論を示唆しているのだ。

新たな知性について語るとき、わたしたちは人間と機械の対立という図式から判断するのではなく、人間と機械を統合していくようなシステムを考えていくべきだ。ここではAIにとどまらず、さらに進んだ「拡張知能(extended intelligence:EIまたはXI)」という概念の話をしている。

システムを理解して制御しようとするよりも、さらに複雑なシステムの堅固な一部となり得るシステムを設計していくことのほうが重要だ。わたしたちはシステム内部の設計者および参加者として自分たちの目的と感覚に疑問を投げかけ、制御という概念に対する謙虚なアプローチの下でそれを変革していく必要がある。

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Translation by Chihiro OKA