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この記事は以前発表したものの別バージョン。以前のバージョンは WIRED Ideas: The Educational Tyranny of the Neurotypicals on September 6, 2018.

固い学び方は僕には合わなかった。幼稚園では逃げてばかりで退園になったし、大学を2回も中退しただけでなく、経営学の博士課程も辞めた経歴は頼りないことは否めない。診断を受けたことはないけど、自分は何らかの"非定型発達"だと思うようになった。

"定型発達"はオーティズム社会が使っている言葉で、一般社会が"普通"と呼ぶ状態を指す。疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention、略してCDC)によると、小児の59人にひとり、そして男児の34人にひとりがオーティズム(自閉スペクトラム症)、つまり非定型発達だ。男性人口の3%にあたる。注意欠如・多動症(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder、略してADHD)と識字障害も含めると、全人口の4人にひとりが"定型発達"しないことになる。

オーティズムを含めた非定型発達の歴史はNeuroTribesに掲載されている(Steve Silberman(スティーブ・シルバーマン)著)。オーティズムは、ウィーン出身の医師ハンス・アスペルガーと、ボルチモアを拠点としたレオ・カナーが1930年代と1940年代に提唱した状態。施設に入れられた小児を安楽死させていたナチス占領下のウィーンで、アスペルガーは人付き合いがぎこちない子供たちにみられる様々な違いを包括する範囲を定義した。中には並外れた能力を持ち、Silbermanの言い方を借りれば「規則と法律、そしてスケジュール(日程、時刻表、予定表、時間割など)に強い魅力を持つ」子供もいた。一方、カナーはより重い障害のある子供に関する記録を書き残した。この状態は親の躾が悪いことに起因すると仮定したカナーの提言により、オーティズムの子を授かった親はこの状態を恥すべきことと考えるようになり、オーティズムを"なおす"ことを目指した活動が何十年も続いた。なおすのではなく、家族や教育制度、そして社会がオーティズムに適合できる方法を作っていく。そういうやり方もあるのに。

脳に多様性のある生徒の役に立てなかった制度といえば、まず学校。その理由として、教育制度の組み立て方が、産業革命から生まれた大量生産型の、頭脳労働と肉体労働に分けられた環境における典型的な仕事をするために子供たちを育てる、という考えに基づいていることが挙げられる。生徒たちは標準的な能力と、従順さ、理路整然な様、そして信頼性を身に着けた。これはかつての社会にとって有益だったけど、今はそれほどでもない。何らかの非定型発達と診断される人口の4分の1に加えて、その他大勢の人も現代教育の構造と方法に悪戦苦闘してると思う。

教育は他人から受けるもので学習は自分からやるものだと普段から言ってるけど、広い意味での"教育"は時代遅れだと思うし、学習をもっと力強いものにするには全く新しいやり方が必要。"教育"という概念を改良し、僕たちが規模とモノの大量生産を重視していた過去の社会で使われてた直線的で秩序だった指標を振り払わないといけない。脳の多様性を受け止めて尊重することは、インターネットとAIが推し進めている変革を生き残るための鍵であり、この変革は過去の予測可能なNewton(ニュートン)的な世界を打ち砕き、複雑さと不確実性を特徴とするHeisenberg(ハイゼンベルク)的な世界に置き換えている。

Life, Animated(ライフ・アニメイテッド、邦題『ディズニー・セラピー 自閉症のわが子が教えてくれたこと』)でRon Suskind(ロン・サスキンド)は3歳になる頃に喋れなくなった息子のOwen(オーウェン)のことを紹介している。話せなくなる前はディズニーのアニメーション映画が大好きだったOwen。沈黙してから数年経った時、何十ものディズニーの名作を最初から最後まで記憶していたことが明らかになった。時間が経つにつれ、大好きなキャラクターを演じ、その声を真似することで家族と意思疎通できるようになり、タイトルバックを見て練習し、読めるようにもなった。最近、Owenは家族と共にSidekicks(サイドキックス、仲間とか助手とかを意味する)という新しいタイプの画面共有アプリを作り、他の家族が同じ方法を試せるようにした。

Owenのことから分かるのは、オーティズムが様々な形で存在することと、介護を提供する人が子供を"普通"な状態になおすのではなく、介護者の適合さえあれば、オーティズムのある大勢の子供たちが生き生きし続けることが可能だということ。しかし、僕たちの教育機関は、この子供たちに教育を与えることができる適応的プログラムを個別に提供するように設計されていない。

非定型発達に役立つ設計がされていない学校に加えて、僕たちの社会は昔から、人付き合いが下手な人や"普通"じゃないと思われてる人に対して寛容や思いやりがほんの少ししかなかった。動物福祉を推奨するTemple Grandin(テンプル・グランディン)は、Albert Einstein(アルバート・アインシュタイン)、Wolfgang Mozart(ヴォルフガング・モーツァルト)、Nikola Tesla(ニコラ・テスラ)が今生きていれば「自閉症スペクトラム」と診断されると主張する。彼女はオーティズムが昔から人類の躍進に貢献してきたと主張し、「オーティズムの特徴がなければ、私たちはまだ石器時代を抜け出せていなかったかもしれない」と言う。彼女はニューロダイバーシティ(脳の多様性)運動の著名な代弁者だ。この運動は、性別、民族、性的指向の多様性と同じように、神経学的な違いも尊重されるべきだと主張している。

オーティズムのある人(アスペルガー症候群も含まれる)は、定型発達した人にとって簡単なことができなかったり難しく感じたりする場合もあるけど、並外れた能力を持ってることもしばしば。例えば、イスラエル参謀本部諜報局で航空写真と衛星画像の分析を担当する9900部隊では、模様を視認する能力がズバ抜けているオーティズム・スペクトラムの人もスタッフとして加わっている。シリコンバレーの驚異的な成功は、その文化が、社会全体と東海岸の機関のほとんどを支配している、年齢に基づく経験と、適合性を重んじる従来の社会的および企業的価値感をあまり重視しない文化なのが要因だと思う。オタクっぽくてぎこちない若者を歓迎し、彼らの超人的で"異常な"能力を使って金儲け装置を作ることに成功し、世界の羨望の的となっている。(この新しい文化は、ニューロダイバーシティについては素晴らしく包括的だけど、性別や人種の観点から言うと、白人の兄ちゃんたちばかりが中心となってる文化なのが問題。)

前述の模様の視認をはじめとしたオーティズムの様々な珍しい特性は、科学や工学に凄く良く適してて、プログラミングを行うことや複雑な概念を理解すること、数学の難しい問題を綺麗に解くことを超人的に行うことを可能にし、そういったことをオーティズムの学生たちは頻繁に実行してる。

残念ながら、ほとんどの学校は非定型学習者を組み入れる際に困難に直面する。いま判明してる脳の多様性は昔に比べて種類が増えていて、それらには、関心主導型学習やプロジェクト型学習、そして無教師学習のほうが適してそうなことがますます明らかになってきてるのに。

Macomber Center for Self Directed Learning(メイコンバー自主学習センター)を運営するBen Draper(ベン・ドレイパー)は同センターについて、「子供なら誰でも受け入れられる」とし、オーティズム・スペクトラムだと親に分かってもらった子は、一般的な学校でうまくいかなくても、この施設ではよく活躍すると言う。Benはいわゆる脱学校運動に加わってて、この運動の信義は、学習は自主的に行うものであり、そもそも学習を導くべきではない、というもの。子供たちは情熱を感じるコトを追求する過程で学習するわけだから、大人たちはその邪魔さえしなければよくて、必要な時に子供を支えてあげればいい、という考え方。

もちろん、そんなのは形が無さ過ぎて無責任なやり方になりそう、と反論する人は大勢いる。でも、振り返ってみると、僕は"脱学校"な育ち方をしてたら、のびのびと成功してたと確信してる。Benと、僕の同僚で脱学校のことを紹介してくれたAndre Uhl(アンドレ・ウール)は、最近の論文でこのやり方は、使い方次第で誰でも成功できるし、現行の教育制度は粗末な学習成果を出しているだけでなく、子供の、個人としての権利を侵害していると主張した。

MITは、インターネット前の時代から、並外れた能力を持つ非定型発達の学生が集まってコミュニティと文化を形成する場を提供した数少ない機関の1つ。そんなMITでさえ、この学生たちが必要としてる多様性と柔軟性を与えるために、今も改善を試みてる。僕たちの学部課程では特にそうだ。

診断を受けたらどういう結果になるか分からないけど、僕は従来の教育を受けることに完全に失敗した。学ぶのは大好きだけど、僕の学び方は会話しながら、そしてプロジェクトに取り組みながら、が主体。いろんなものをつなぎ合わせながら、何とか世界観と生活を手に入れることができた。苦しみながらだったけど、いろんな恩恵もあった。僕なりの世界論とそれに至った経緯について、最近博士論文を書いた。僕の経験を何かしらの傾向として見てほしくない。論文を読んで、僕があまりにも特異な人物なので"人間の亜種"と見なされるべきだと言った人がいる。褒め言葉だと受け止めてるけど、僕みたいに幸運に恵まれてるわけでもなく、従来の教育制度を体験し、本来は生き生きとして当たり前なのに、喜びよりも苦労の方が多い人もいると思う。実際、ほとんどの子供たちは僕ほど幸運に恵まれてるわけではない。現在の社会の在り方の中で成功するのに適しているタイプの人もいるけど、現行の制度で成功しない子供たちのうち、凄く高い割合の子供たちが、とてつもない貢献をする潜在能力があるのに、僕たちはそれを活用できてない。

産業時代の学校は、子供たちに基本的な識字能力と社会生活をする能力を身に着けさせて、工場で働くか、繰り返すだけの頭脳労働の仕事をするか、どっちかをできるようにすることが主な目的だった。子供たちを(頭のいい)ロボット的な人、さらに言えば、標準的な試験に出てくる問題を一人で、そしてスマートフォンやインターネットを使わずに、鉛筆だけで解ける人に育て上げよう、というのは、以前なら当然だったかもしれない。非定型発達の人たちを篩い落としたり、薬物療法や施設への入所によって矯正することは、人類の産業的競走力の観点から見て大事なことに思えたのかもしれない。また、指導用の器具は当時の技術で作れるものしかなかったわけで。前述の諸作業がどんどん実世界のロボットによって行われるようになってる今、僕たちがしなきゃいけないのは、脳の多様性を受け入れ、情熱、遊び、そしてプロジェクトによる共学習をするんだよ、と子供たちに言って励ますことなのかもしれない。つまり、機械にはできない方法で学習することを子供たちに教え始めなければいけないのかもしれない。また、現代のテクノロジーのおかげで僕たちはつながりの学習ができる。この学習は、いろんな興味の対象や能力の発展に役立っているし、僕たちの生活や、いろんな関心事から生まれるそれぞれの小社会の一部となっている。

メディアラボにはLifelong Kindergarten(ライフロング・キンダーガーデン、生涯幼稚園)という研究グループがあり、グループの責任者Mitchel Resnick(ミッチェル・レズニック)は最近、同じ題名の本を書いた。この本は、クリエイティブな学習と4P(情熱、仲間、プロジェクト、遊び)(passion、peers、project、play)に関する研究について書かれている。この研究を行ってるグループは、情熱を感じるコトを追求し、遊び心のあるアプローチで、プロジェクトベースの環境で仲間と協力しているときこそが、学習が最もうまくいく時だと信じてる。その通りだと思う。僕が学校に通ってた頃の記憶といえば「カンニングをしない」、「宿題は自分でやる」、「大事なのは教科書で、趣味やプロジェクトは二の次」、「休み時間になれば遊べるんだから、真剣に勉強しなさい。そうしないのは恥」といったこと。4Pの真逆だ。

精神衛生上の問題の多くは、脳の多様性のうちのいくつかを"修正"する試み、または単に当人に対して無神経あるいは不適切な言動があったことが原因だと僕は信じてる。精神的な"疾患"の多くは、4Pに重点を置き、学習、生活、そして人とのやりとりをするための適切な窓口を当人に提供することによって"癒す"ことができる。教育制度に関しては、まずは教育を受ける側、そして今ではその一員として体験してきたけれど、僕の体験はそれほど珍しくない。何らかの非定型発達だと診断された人々(少なくとも人口の4分の1)は、現代の教育の構造と方法に悪戦苦闘してると思う。脳の働きが一般的じゃない人は、自分のことを例外ではなく、ひとりの人間、それ以上でもそれ以下でもない、と考えて生きていけるようになるべき。

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訳:永田 医

小さな子どもをもつ親なら誰でもそうだと思うが、わたしも2歳になろうとしている娘をどこまでテクノロジーに触れさせていいのか悩んでいる。特にYouTubeとモバイルデヴァイスは判断が難しい。

2018年に実施されたある調査では、米国の親が子育てで最も不安に感じているのは、子どもがデジタルデヴァイスを使いすぎることだという結果が出ている。厳密な研究に基づいて実証的な方向性が示されたガイドラインは、なかなか見当たらない。こうした状況を考えれば、わたしが友人たちからのアドヴァイスにある奇妙な傾向を見出したのも不思議ではないかもしれない。

一般的に、リベラルでテクノロジーに精通した人たちほど、子どものスクリーンタイム(スマートフォンなどの利用時間)に関しては、なぜか保守的になる。そして、子どもがデヴァイスの画面を見つめている時間を厳しく制限しようとするのだ。

わたしが特に衝撃を受けたのは、子どもとテクノロジーの関係を巡る友人たちの意見が、一般の研究や調査に基づいたものではないという点だった。友人たちはどうやら、恐怖をあおり立てるような内容の書籍やメディア報道、YouTubeを見続けた場合の問題点だけに焦点を絞ったTEDのトークといったものを根拠にしているようなのだ。

いまや欠かせない「コネクテッド子育て」

子育てについて、わたしは妹の伊藤瑞子に相談することがよくある。カリフォルニア大学アーバイン校でConnected Learning Labを率いる彼女は、2人の子どもを育て上げた母親でもあるからだ。Connected Learning Labでは、子どもとテクノロジーのかかわりについてさまざまな研究が行われている。彼女の意見は、「テクノロジーの恩恵を受けている親たちは子どものガジェットの利用時間を心配するよりも、子どもがテクノロジーを使って何をしているのかに関心をもつべき」というものだ。

彼女は米小児学会(AAP)が、いわゆる「2×2ルール」を取り下げたことを歓迎している。これは子どもが生まれてから2年間はコンピューターを使わせず、また18歳までは利用時間を1日2時間以内に制限すべきという子育ての指針だ。彼女は、このルールのせいで子どもにガジェットを使わせることへの罪悪感が生まれたと考えている。そして、彼女が「コネクテッド子育て」と呼ぶ、子どもとデジタルとのかかわりに親が参加していくという方法論は無視されるようになってしまったと言う。

わたしもこのコネクテッド子育てに取り組んでいる。例えば、娘と一緒にYouTubeを見て、彼女が新しく覚えたダンスを踊っているときは、エルモに合わせて歌うのだ。毎日、帰宅すると娘がその日に見つけた動画や新しいキャラクターを見せてくれる。そして、彼女がベッドで眠りにつくまでの時間に、新しい動画に出てくる歌を覚えたり遊びをしたりする。

娘の祖母は日本にいるのだが、妻のiPhoneから、この就寝前の特別な時間に参加することができる。彼女はヴィデオ通話の画面から、娘がYouTubeの動画に合わせて歌うのを褒めてくれる。遠くにいる家族とのこうしたつながりを奪うなどということは、わたしにはとても考えられない。

それは「デジタルのヘロイン」なのか?

子どものスマートフォンやネット依存を巡る議論は、違法薬物の撲滅運動のようなナラティヴで語られることがある。心理学者ニコラス・カルダラスの著書『Glow Kids: How Screen Addiction Is Hijacking Our Kids ― and How to Break the Trance』(照らされる子どもたち:子どもを支配するスクリーン中毒とそこから抜け出す方法)がいい例だろう。

カルダラスはこの本のなかで、スクリーンを見続けるとセックスをしているときのようにドーパミンが大量に放出されると述べる。カルダラスはこれは「デジタルのヘロイン」であり、子どもがネットの利用時間を管理できない状況は「中毒」と呼ばれるべきだと主張する。

別の心理学者によるもう少し冷静な(そしてここまで警戒的ではない)分析も紹介しよう。児童心理学者アリソン・ゴプニックは、テクノロジーが子どもに及ぼす影響について、よりバランスのとれた見方をしている。

「スクリーンを眺めていると頭を使わない状態になってしまうことがよくありますが、同時にインタラクティヴで探索的なこともたくさんできます」

ゴプニックはまた、デジタルでのつながりは子どもの心理的な成長の正常な一部なのだと説明する。彼女は「友だちが『いいね!』をしてくれたら、ドーパミンが出るのは普通です」と指摘する。

スクリーンタイムの量と質

スマートフォンなどの使用が子どもにそれほど大きな影響を及ぼさないことは、研究でも証明されている。保守的なAAPですら、インターネット依存やゲーム中毒とみなされる子どもの割合は全米で4〜8.5パーセントにすぎないと認めているのだ。オックスフォード大学のアンドリュー・プシュビルスキーとエイミー・オーベンが未成年者35万人を対象に実施した大規模な調査では、心理面での影響はごく軽微で、統計的にはほとんど無視できる水準であることが明らかになっている。

一方、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)のソニア・リヴィングストンとアリシア・ブルム=ロスの調査では、親の間で子どもをテクノロジーに触れさせることへの懸念が広まっていることがわかっている。ただ、ふたりはデジタルデヴァイスの利用時間を「スクリーンタイム」という言葉で一律にくくってしまうことには懐疑的で、保護者は単純に時間を計測するのではなく、その質に注目すべきだと考えているという。

Connected Learning Labの発達心理学者キャンディス・オジャーズは、未成年者のデジタルデヴァイス利用を巡る論文を調査した。オジャーズは、デジタルデヴァイスに触れることがプラスとマイナス両面の効果があるが、負の影響ばかりが強調されていると指摘する。「本当の問題はスマートフォンではなく、誤った情報が広まることで保護者や教育者の間に恐怖が生まれることなのです」

この点に関しては、長期的な研究に早急に着手することが必要だろう。デジタルデヴァイスとその挙動を決めるアルゴリズムが子どもたちにどのような影響を及ぼすかについて、厳密に調べていくのだ。

正確な研究結果が出て初めて、わたしたちはこうしたシステムをどのように設計し最適化するかについて、エヴィデンスに基づいた決定を下すことができるようになる。子どものデジタルデヴァイスの利用を管理監督する責任が親だけに押し付けられている現状を、変えていかなければならない。

デヴァイスの使い方の中身に注目せよ

わたしは個人的には、ほとんどの子どもにはスクリーンタイムよりも重要なことがあると考えている。保護者は子どもの教育や健康、保育施設といったより深刻な問題を抱えている。わたしが所属しているような、いわば社会的エリートのグループの外部では特にそうだろう。

昨年10月に『ニューヨーク・タイムズ』にシリコンヴァレーの子育てについての記事が掲載されたが、テック業界でもある程度の地位にいる人なら、子どもをデジタルデヴァイスから引き離しておくために人を雇うことができる。こうした余裕のある親のもとに生まれた子どもたちが、過度なデヴァイス利用の弊害を受ける恐れは少ない。

そして、わたしやその周囲の人々には、子どもをおとなしくさせるにはスマートフォンを見せておくしかないような状況に置かれることもある世間一般の親たちに、あれこれ言う資格はないだろう。わたしたちが取り組むべきなのは、すべての保護者、特にベビーシッターやナニーを雇う余裕のない親たちのために、この種の新しい子育て道具が安全かつ楽しいものになるようなテクノロジーを生み出すことだ。

もちろん、実際にデジタルデヴァイス依存という問題を抱える家庭を無視しているわけではない。ただこうした場合でも、スクリーンタイムを厳格に管理するよりは、むしろその中身に注目することのほうが重要なのではないかと、わたしは思っている。

わたしたち大人の子育ての矛盾

デジタルデヴァイスの利用を巡って妹が使う例のひとつが、砂糖だ。砂糖の摂取は一般的には健康に悪く、さまざまな弊害を伴うことは周知の事実である。砂糖には中毒性もある。ただ、たまには親子で牛乳とクッキーというおやつの時間を楽しむことは、家族のつながりという意味では有益なのではないだろうか。

禁止という行為が裏目に出ることもある。ルールを破ってしまったことで挫折感を味わったり、子どもが隠れてスマートフォンを使っているのではないかという不信感が生まれる可能性もあるだろう。

子どもがコンピューターを使う時間を管理しようとするとき、親は監視ツールのようなものを使うことがよくある。ただ、こうした場合、特にティーンエイジャーはプライヴァシーを侵害されているように感じることが多い。

また、NPOのCommon Sense Mediaが実施した調査では、誰もがそうではないかと思っていたことが証明された。つまり、親はデジタルデヴァイスを多用しており、子どもがスクリーンに興味をもつのは親の真似をするからだというのだ。この事実は、わたしたち大人の子育ての矛盾をレーザーのように鋭く突いている。

マサチューセッツ工科大学(MIT)教授のシェリー・タークルは著書『つながっているのに孤独──人生を豊かにするはずのテクノロジーの正体』のなかで、デジタルデヴァイスのために家庭でのやりとりが減り、家族のつながりにひびが入りつつあると指摘した。

わたしも、デヴァイスによって気が散ることがあるという意見には賛成だ。講義中に「ちょっとノートパソコンを閉じて」と言うことはあるし、ディナーの最中にメールを打つのは普通は失礼に当たると思う。ただ、iPhoneのせいで家族が崩壊しつつあるかというと、それは少し疑問に感じるのも事実だ。

ポジティヴになり、子どもを見守るということ

わたしが幼いころには、デジタルデヴァイスというものはほとんど存在しなかった。ただ、わたしは毎日、幼稚園から脱走を繰り返していて、最終的にはそこを追い出された。高校ではさまざまな課外活動は熱心にやったが、授業への出席率は最低で、ぎりぎり卒業している。それでも、母はルールに従うことのできないわたしを積極的にサポートした。本来やるべきとされる分野には見向きもせず、興味のあることしかやらないという傾向を徹底して認めてくれたのだ。

母とわたしは強い信頼関係で結ばれており、おかげで、わたしは失敗したせいで見捨てられたと感じたり、恥ずかしく思ったりすることなく、そこから学ぶことができた。ときには進む方向がわからなくなることもあったが、大きな問題はなかった。

母は子育てではポジティヴであることが重要だと直感的に理解していたようだ。Connected Learning Labで幼児期の育児とメディアについて研究するシュテファニー・ライヒは、「どのような研究でも、鋭敏で愛情深く、子どもにきちんと注意を傾ける保護者に育てられるのがいちばんだという結果が出ています。首尾一貫していて、子どもと的確なコミュニケーションをとれるような親がいいのです」と話す。ある研究では、子どもを温かく見守り、制限はなるべく設けないほうが認知面でプラスの効果が出るということが示されている。

娘がYouTubeの動画からダンスを学んでいくのを見るたびに、毎朝オンラインゲームをやっていた幼いころのわたしを眺める母のことを想像する。わたしはこの習慣のおかげで世界中に仲間ができ、インターネットの初期の時代からその可能性を模索するといったことにもつながったのだ。

娘がいまのわたしの年齢になるまでには、どんなことが素晴らしいことや、ひどいことが起きるのだろう。娘にはデジタルデヴァイスやそこから広がる世界とよい関係を築くことで、未来に向けた準備をしていってほしいと願っている。

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Translation by Chihiro OKA

昨年、サイバネティクスに関するノーバート・ウィーナーの名著『人間機械論』を扱ったディスカッションに参加する機会があった。そしてこの場で、わたしがシンギュラリティ(技術的特異点)を巡る議論に対するマニフェストとみなすものが生まれている。

シンギュラリティとは、近い未来に人工知能AI)が人類の知性を凌駕し、人間にとって代わる日がやって来るという議論だ。この説の提唱者たちは、AIは指数関数的に高度化し、わたしたちがこれまでになし遂げてきたことはすべて意味を失うと主張する。

これは、かつて機械には複雑すぎると考えられてきた問題を解決する手法を設計し、コンピューターの進化に寄与してきた人たちが編み出した、いわば宗教のようなものだ。こうした人々は、デジタルの世界で完璧な仲間を見つけたのである。

すなわち、理解可能かつコントロールもできそうな機械をベースとした思考と創造のシステムが存在し、的確にデザインすれば、その処理能力を急速に向上させていく。しかも、システムの進化に寄与した者は富と権力を得ることができるのだ。

シンギュラリティという概念の基本的欠陥

シリコンヴァレーではこれまで、こうしたテクノロジーのカルトの経済的な成功と集団思考とが相まって、自己規制が欠落したフィードバックのループが生み出されてきた(一方で、「#techwontbuild」「#metoo」「#timesup」といったハッシュタグに代表される、ささやかな抵抗運動も存在する)。

シグモイド関数のS字カーヴや正規分布の曲線は、勾配の始まりにおいては指数関数のそれと形状がよく似ている。しかし、システムダイナミクスの専門家によると、指数関数の曲線は上限なしにプラス方向に伸びていくため、自己強化的で危険だという。

シンギュラリティの提唱者たちは、指数関数にスーパーインテリジェンスと富を見出す。これに対し、シンギュラリティというバブルの外にいる人は、S字カーヴのような自然なシステムを信じている。それは外部からの介入に的確に反応し、自己調整していくシステムだ。

例えば何らかのパンデミックが起きても、時間が経てば拡大は収束する。パンデミック以前と同じ状態を回復することはできないかもしれないが、新たな秩序が形成されるのだ。これに対し、シンギュラリティという概念(特に、いつか人類が自己存在の葛藤を乗り越える審判の日が訪れる、もしくは救世主的なものが出現するという予言)には基本的な欠陥がある。

いまなお残る還元主義的な議論

この種の還元主義的思考は目新しいものではない。心理学者のバラス・スキナーがオペラント条件づけ[編註:報酬などによって自発的に特定の行動をとるよう学習させること]を体系化して以来、学校教育はおおむねこの理論に基づいてデザインされてきた。

一方で、最近の研究では、スキナーのような行動主義的アプローチは狭義の学習でしか機能しないことが明らかになっている。それにもかかわらず、多くの学校ではいまだに反復訓練などオペラント条件づけの柱となる要素が重視されている。

もうひとつ、優生学という例を挙げよう。人間社会における遺伝的特性の役割を過度に単純化したこの学問は、第2次世界大戦中のナチスによるジェノサイドの根拠となった。

優生学では、自然淘汰を人為的に押し進めることで「優れた人間だけを残す」ことができるという還元主義的な議論が展開される。この恐るべき思想は現在も根強く残っており、科学の世界では遺伝と知性のような特性とを関連づけて扱う研究は、いかなるものもタブーとなっている。

「シンギュラリティの夢」の産物

科学の発展の重要な推進力のひとつに、複雑な事象を簡潔に説明し、それを理解する力を高めたいという願望がある。しかし、「何ごともできる限りシンプルにすべきだが、必要以上に単純化してはならない」というアルバート・アインシュタインの言葉も、覚えておく必要があるだろう。

わたしたちは現実世界の不可知性を受け入れなければならない。世界を単純化することはできないのだ。芸術家や生物学者、人文科学に携わる人々はこのことをよく理解しており、世の中には説明できないこともあるという事実に特別な不安を抱いたりはしない。

人類が抱えている問題の大半は、いわば「シンギュラリティの夢」とでも呼ぶべきものの産物であることは明白だ。気候変動や貧困、慢性疾患、近代的テロリズムといったものはすべて、わたしたちが指数関数的な成長を目指した代償なのである。

こうした現代の複雑な問題は、過去の問題を解決するために行われたことの結果として生じている。生産性の向上を際限なく追求し、制御するには複雑になりすぎたシステムを無理に管理しようとした果てに、いま目の前に広がる世界があると言っていい。

「システムのシステムからなるシステム」

現代の科学の問題に効果的に対処するには、規模と次元を超えて相互接続された複雑な自己適応型システムを尊重しなければならない。システムの参加者も設計者もそれを完全に理解はできないし、同時にそこから離脱することも不可能なのだ。

言い換えれば、人間は誰もが異なる規模の適応度地形をもつ複数の進化システムの内部にいる。体内の微生物レヴェルから、個人としての社会とのかかわり、あるいは人類という種における個体としてまで、その段階は実にさまざまだ。

人間という個体で考えると、それは「システムのシステムからなるシステム」といった構造になっている。そして、例えば人体を構成するそれぞれの細胞は、個としての人間よりもシステムの設計者のような振る舞いを見せる。ケヴィン・スラヴィンが2016年に「Design as Participation」と題したエッセイで書いたように、「あなたは交通渋滞に巻き込まれているのではない。あなたは交通そのもの」なのだ。

種としての生物学的進化(遺伝的進化)は繁殖と生存によって促されるため、わたしたちは成長して子孫を残すというゴールに向かって走るようプログラムされている。システムは成長を規定し、多様性と複雑性を確保しながら、自己の適応力と持続可能性を高めるために絶えず進化している。

これはシステム内部の者による「参加型デザイン」と呼ぶことができるだろう。参加型デザインとはシステムに多様な機能を追加していくようなもので、ここでの繁栄は金や権力、規模の大小といったものではなく、いかに健康で活力的であるかによって測られる。

人間と機械の統合

これに対して新しい知性を備えた機械は、明らかに異なる目標と方法論によって動いている。こうした機械を例えば経済、環境問題、医療といった複雑な自己適応型システムに組み込めば、機械はシステムの構成要員を侵略するのではなく扶助し、さらにはシステム全体を補強していくだろう。

ここにおいて、シンギュラリティの提唱者たちによって提示された「AI」の定式化に問題があることが明らかになる。それは、ほかの適応型システムとの相互作用の外部にある形式、目標、方法論を示唆しているのだ。

新たな知性について語るとき、わたしたちは人間と機械の対立という図式から判断するのではなく、人間と機械を統合していくようなシステムを考えていくべきだ。ここではAIにとどまらず、さらに進んだ「拡張知能(extended intelligence:EIまたはXI)」という概念の話をしている。

システムを理解して制御しようとするよりも、さらに複雑なシステムの堅固な一部となり得るシステムを設計していくことのほうが重要だ。わたしたちはシステム内部の設計者および参加者として自分たちの目的と感覚に疑問を投げかけ、制御という概念に対する謙虚なアプローチの下でそれを変革していく必要がある。

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Translation by Chihiro OKA

1967年夏、全米には人種暴動の嵐が吹き荒れていた。この年に起きた159件の"暴動"(視点を変えれば抗議行動と呼ぶこともできる)の大半は、インナーシティ[編註:都市内部で周辺地域から隔絶された特定の区域]に住む貧しいアフリカ系米国人と警察との対立に端を発する。

貧困層が住むこうしたエリアは暴動前から荒廃しており、そこに暴動によるダメージが加わったため、回復はほぼ不可能になった。一連の事態を理解するためには、「特定警戒地区指定(レッドライニング)」という言葉を知る必要がある。これは保険業界の専門用語で、保険を引き受けるにはリスクが高すぎることを示すために、地図上で赤線で囲まれた区域のことを指す。

ときの大統領リンドン・ジョンソンは68年、暴動で被害を受けた地域の保険問題に関する諮問委員会を設置した。インナーシティの復興に加え、レッドライニングが暴動の一因となった可能性があるかどうかを探るためだ。

この委員会の調査で、ある事実が明らかになった。レッドライニングによって、マイノリティーのコミュニティーと周囲との格差が助長され、金融や保険などの面で不平等が深まるというサイクルが生じる。つまり、地図の上に赤い線を引くことで、こうした地域が周囲と隔絶されてしまったそもそもの原因である貧困に拍車がかかるのだ。

保険会社とソーシャルメディアの共通項

保険会社は黒人やヒスパニック系といった人種的マイノリティーへの商品販売を拒んでいるわけではなかったが、業界ではレッドライニングを含む明らかに差別的な商慣行が許容されていた。そして、保険がなければ金融機関の融資は受けられないため、こうした地域に住む人は住宅購入や起業が実質的に不可能だった。

委員会の報告を受けて、レッドライニングの禁止とインナーシティ周辺への投資促進に向けた法律が制定されたが、この慣行はなくならなかった。保険会社は黒人への商品販売拒否を正当化するために、特定の地域における統計的リスクという言い訳をもち出した。つまり、レッドライニングは保険の引受リスクという純粋にテクニカルな問題であって、倫理的なこととは何も関係がないというのだ。

この議論は、一部のソーシャルネットワーク企業の言い分と非常によく似ている。SNS企業は、自分たちはアルゴリズムを駆使したプラットフォームを運営しているだけで、そこに掲載されるコンテンツとは関わりはないし、責任も負わないと主張する。

一方、現代社会の最も基本的な構成要素である金融システムの一端を担う保険会社は、市場における公平性と正確性に従っているだけだと述べる。数学的かつ専門的な理論に基づいてビジネスを展開しているのであり、結果が社会にどのような影響をもたらそうが知ったことではないというのが、その立ち位置だ。

「よい」リスクと「悪い」リスク

「保険数理的な公正」を巡る議論は、こうして始まった。公正さの確保という問題において、歴史的に重視されてきた社会道徳やコミュニティの基準より統計や個人主義的な考え方を重視するやり方については、さまざまな批判がある。一方で、こうした価値観は保険業界だけでなく、治安維持や保釈の判断、教育、人工知能AI)などさまざまな分野に広がっている。

リスクの拡散は昔から保険の中心的なテーマだったが、リスク区分という概念はこれより歴史が浅い。リスクの拡散とは、コミュニティのメンバーに何かが起きたときに備えて一定の資源を担保しておくことで、その根本には連帯という原則がある。

これに対し、近代の保険システムは個人のリスク水準をその当人に割り当てる。いわば個人ベースのアプローチで、自分より危険性の高い他人のリスクを肩代わりする必要がなくなるのだ。この手法は東西冷戦で社会主義的な性格のものが敬遠された時代に広まっていったほか、保険市場の拡大にも貢献した。

保険会社はリスク区分を改良していけば「よい」リスクを選ぶことが可能になる。つまり、自社の保険金の支払いが減り、コストの高い「悪い」リスクは他人に押し付けられる。

保険数理学的な「公正」の発展

なお、この問題については、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの研究者でアルゴリズムの公平性と保険数理を専門とするロドリゴ・オチガメが、MIT助教授で歴史学を教えるケイリー・ホランのことを教えてくれた。本稿はホランの研究に多くをよっている。彼女は近く『Insurance Era: The Privatization of Security and Governance in the Postwar United States(保険の時代:戦後の米国における安全と統治の民営化)』という本を上梓する予定だが、ここでは本稿で触れたことがさらに詳しく説明されている。

リスクの拡散と連帯の原則の根底には、リスクを分かち合うことで人々の結束が強まるという考え方がある。そこでは相互扶助と協力関係の構築が奨励される。ただ、20世紀の最後の10年間は、この精神が保険数理学的な公正に取って代わられてしまった。

レッドライニングは、完全に人種差別的なアイデアと間違った固定観念に基づいて始まったものだ。しかし、保険会社はこの差別が「公正」であると主張するために、一見それらしく見える数学的手法を編み出し、それを発展させていった。

女性は男性より平均寿命が長いのだから年金保険料を多く払うべきである、黒人コミュニティは犯罪の発生率が高いから黒人の損害保険料率を高く設定することは許される──というわけだ。

論点をすり替えた議論の末に

米国社会にはいまだに、こういったあからさまな人種差別や偏見が存在する。そして保険業界では、差別は複雑な数学や統計に包んでうまく隠されており、専門家でなければ理解して反論するのはほとんど不可能だ。

1970年代後半には、女性の活動家たちがレッドライニングやリスク評価における不公正と闘うための運動に加わった。彼女たちは、保険のリスク区分に性別という要素が加えられているのは性差別だと主張した。

保険会社はこれに対して、またもや統計と数理モデルをもち出した。リスク区分を決める際に性別を考慮するのは間違っていない、なぜなら保険の対象項目には実際に男女によってリスクの異なるものがあることが統計によって明らかになっているからだ──というのだ。

こうして、保険業界のやり方に批判的だった人たちの多くが、ある意味で論点をすり替えた議論に巻き込まれていった。公民権グループとフェミニストの活動家が保険業界との戦いに破れたのには、理由がある。

人々は、特定の統計やリスク区分が不正確だと保険会社を非難した。しかし本当の問題は、そもそも保険のように重要かつ基本的な社会システムを構築する上で、数学的に割り出した公正さ、つまり市場主導型の価格的な公平性を取り入れることが妥当なのかという点だ。

アルゴリズムに潜むバイアス

公正であることは、正確であることとは必ずしも一致しない。ジャーナリストのジュリア・アングウィンが、刑事司法制度で採用されているリスクスコア評価には非白人に対する偏見があると指摘したとき、評価システムのアルゴリズムを開発した企業は、システムは正確なのだから公正だと反論した。

リスク評価システムでは、非白人は再犯率が高いとの予測が出る。再犯率は犯罪者が釈放後に再び罪を犯す可能性のことで、過去の犯罪データを基に算出されるが、問題の根本はここにある。なぜなら、逮捕という行為そのものに警察当局のバイアスがかかっており(例えば、警察官は非白人や貧困層の居住区域を重点的にパトロールするだろう)、アルゴリズムは当然それを反映してしまうからだ。

再犯リスクは保釈金の金額や判決、仮釈放の有無といった決定を下す際に、判断材料のひとつになる。また、当局はこのデータを基に、犯罪の起こる可能性が高そうな場所に人員を割く。

ここまで書けばわかると思うが、特定の集団の未来を予測する上でリスクスコア評価を信じるのであれば、黒人だからという理由だけで量刑相場が上がるのは「公正」ということになる。数学的には「公正」なのだろうが、社会的、倫理的、かつ人種差別という観点から考えたときに公正でないことは明らかだ。

形成される「負のループ」

さらに、富裕層の住むエリアに逮捕者が少ないからといって、富裕層は貧困層と比べてマリファナを吸う頻度が低いということにはならない。これは単純に、こうしたエリアには警察が少ないというだけの話だ。当然のことだが、逆に警察が目を光らせている貧困地区に住んでいれば、再逮捕の可能性は高くなる。こうして負のループが形成されていく。

インナーシティに対するレッドライニングも、まったく同じように機能する。特定の地域での過剰な治安維持活動は、短期的に見れば「正確」なデータに基づいた「公正」なことなのかもしれない。しかし、長期的にはコミュニティに負の影響を及ぼし、さらなる貧困と犯罪の拡大につながることが明らかになっている。

独立系メディアサイト『プロパブリカ』に掲載されたアングウィンの調査報道記事によると、保険会社は規制があるにもかかわらず、いまだに非白人地域の居住者に白人地域に比べて高いプレミアムを課している。リスクが同じ場合でもそうだという。

『ボストン・グローブ』紙の調べでは、ボストン都市圏に住む白人世帯の純資産は平均で24万7,500ドル(約2,700万円)なのに対し、非移民の黒人世帯の純資産の中央値は8ドル(約900円)であることが明らかになっている。この格差は、レッドライニングとその結果としての住宅市場や金融サーヴィスへのアクセスの阻害によって引き起こされたものだ。

人々が関与できるメカニズムの重要性

レッドライニングはすでに法律で禁じられているが、別の例もある。アマゾンは「Amazonプライム」の当日配送無料サーヴィスを「最良の」顧客にのみ提供している。これは実質的にはレッドライニングと同じで、新しいアルゴリズム的な手法によって、過去に行われた不公正の結果を強化していくものだ。

保険会社と同じで、テクノロジーやコンピューターサイエンスの世界にも、倫理判断や価値基準といったものは排除した純粋に数学的な手法で「公正さ」を定義しようとする傾向がある。これは高度に専門的であると同時に、循環論法に陥りがちだ。

AIは再犯率のような差別的慣行の結果を利用して、身柄の拘束や治安維持強化の正当性を認めさせようとする。しかし、アルゴリズムによって下された判断そのものが、貧困、就職難、教育の欠如といった潜在的な犯罪の要因を生み出すことにつながる可能性があるのだ。

テクノロジーの力を借りて策定された政策については、それが長期的に社会にどのような影響を及ぼすのかを見極め、説明できるようなシステムを確立する必要がある。アルゴリズムがもつインパクトを理解する助けとなるようなシステムだ。アルゴリズムの利用や最適化の方法、どこで収集したデータがどのように使われているのかといったことについて情報を提供し、人々がそこに関与できるようなメカニズムを構築していかなければならない。

理想の未来か、過去の規範か

現代のコンピューターサイエンティストは、かつての保険数理士よりはるかに複雑なことに取り組んでいるし、実際に公正なアルゴリズムをつくろうと試行錯誤を重ねている。アルゴリズムにおける公正さは正確さとイコールではなく、公正さと正確さとの間に存在するさまざまなトレードオフによって定義される。

問題は、公正という概念は、それだけで完結するシンプルな数学的定義に落とし込むことはできないという点だ。公正さは社会的かつ動的であり、統計的なものではない。完全に達成することは不可能だし、民主主義の下での監視と議論によって常に改良されていくべきものなのだ。

過去のデータと、いまこの瞬間に「公正」とされることに頼るだけでは、歴史的な不公正を固定化してしまうだろう。既存のアルゴリズムとそれに基づいたシステムは、理想の未来ではなく過去の規範に従っている。これでは社会の進歩にはつながらず、むしろそれにブレーキをかけることになるはずだ。

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Translation by Chihiro OKA

2011年3月11日、日本の東北地方で大規模な地震と津波が発生し、福島第一原子力発電所で放射性物質の放出を伴う事故が起きた。事故の直後から日本全国で大気中の放射線量への関心が急速に高まったが、正確な情報を手に入れるのは極めて困難だった。

わたしは当時、放射線量の測定値をインターネット上の地図にまとめることを目的とした「Safecast」という非営利団体(NPO)の立ち上げにかかわった。測定に使える計測器の数が絶対的に不足していたためで、Safecastは独自にガイガーカウンターを設計、作成したのだ。わたしたちは最終的に100万カ所以上で放射線量の測定を実施し、データを一般公開することを目標にしていた。

当初は日本国内だけのプロジェクトだったが、世界各地から問い合わせがあり、放射線量の測定地域も広がっていった。Safecastが大きな成功を収めたのは、小型で高性能、かつ操作の簡単なガイガーカウンターを提供したことが理由だと考えている。計測器は最初は無償で貸し出していたが、活動が拡大する過程で組み立てキットを作成して販売した。

チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故のあとでも民間主導の監視活動が行われていたが、世界中の専門家が協力してグローバルな放射線測定システムをつくり上げたのはこれが初めてだった。なお、放射線の基礎レヴェルは地域によって大きな違いがあるため、変化があったかどうか調べるには、まず対象となる地域の平時の放射線量を知る必要がある。

営利目的ではないデータ利用を活性化せよ

Safecastは非営利団体だが、近年は福島第一原発の事故で確立したモデルを大気汚染の測定に応用することに取り組んでいる。2017年および18年にカリフォルニアで起きた大規模な山火事では、原因物質こそ違うが、原発事故による放射能汚染にも劣らないひどい大気汚染が問題となった。

火災の発生後、TwitterにはN95マスク[編註:米国労働安全衛生研究所(NIOSH)が定めた一定の基準を満たす微粒子用マスク]や空気中の汚染物質の量に関する話題が溢れた。「Apple Watch」にネットから取得したと思われる大気汚染情報が表示されている写真を見たこともある。

わたしは当初、シリコンヴァレーのエリートたちの間で関心が高まれば、汚染物質の監視体制の強化につながるだろうと考えていた。大気汚染のモニタリングシステムの構築は進んでいるが、そのシステムは福島でSafecastが確立した放射線レヴェルの監視体制ほどには整備されていない。

この背景には、起業家への過度の期待があるのではないだろうか。シリコンヴァレーでは誰もが、スタートアップなら何でも解決できると信じている。しかし、起業家に一任することが最適なアプローチではない場合もあるのだ。

大気汚染の全体像を俯瞰することが困難な状況のなかで、情報開示を求める声が強まれば、オープンデータを扱う独立したシステムの確立を望む人は増えるだろう。現状では、民間から(多くの場合においては無料で)取得したデータを最も活用しているのは政府と大企業だが、問題はそのデータが一般には提供されていない点だ。

例えば、製薬会社は新薬の開発に向けてさまざまな医療データを利用する。誰もがこうしたデータを参照することができれば、救える命の数はもっと増えるのではないだろうか。

つまり、営利目的ではないデータ利用を活性化させ、これを長期的な政策評価に役立て、透明性を確保することが必要なのだ。データは個人の監視のために使われるべきではない。目先の金儲けではなく、長期的な視点に立って、社会に利益をもたらすことのできるモデルを構築すべきときが来ている。

データを公開しようとしない企業たち

歴史を振り返ると、人類が初めて手にした大気センサーは、炭鉱で毒ガスの検知に使われていたカナリアだったと考えられている。「炭鉱のカナリア」という表現があるが、坑夫たちはメタンや一酸化炭素といった毒性のあるガスが発生したことをいち早く知るために、この小さな鳥を坑道にもち込んでいた。

2000年代になると、一般の消費者でも簡単に使うことのできる携帯可能な小型計測器が登場した。一方で、汚染物質の計測方法が変わったために、数年前の計測データが比較対象として役に立たない事態も生じている。

大気汚染の度合いを示すために使われる「空気質指数(AQI)」と呼ばれる指標があるが、世界全体で標準化されていないために、国や地域、データの提供元によって基準が異なるほか、算出方法も明確ではないことが多い。

また、この分野で主要な役割を果たしているのは一般企業だが、こうした企業たちは自社のデータを公開しようとはしない。これはデータの自由化とオープンソースの重要性が“発見”される以前の価値観に基づいたビジネス戦略だが、企業はいまだに社外へのデータ提供を拒むだけでなく、標準化されたオープンデータを共有しようとする試みから市民の目を遠ざけ、そこに資金が向かわないよう努力を続けている。

つまり、誰もが勝手に温度計を組み立てて、摂氏でも華氏でもドリールでもランキンでも、とにかく好きな単位で気温を計測しているようなもので、まったく収拾がつかないのだ。

計測データの標準化に立ちはだかる壁

こうした状況では、市民に基準となるデータを提供するための調査や研究を行うことは難しい。データの標準化は企業にとっても利点がありそうなものだが、競合相手では協力という発想は生まれず、他社と差をつけるために規格外の方向へとシステムの改良を重ねていくことになる。

「Air Sensor Workgroup(ASW)」は、大気中の粒子状物質の計測における標準化を促進するための作業部会で、「Air Quality Data Commons」と名付けられた全米規模での大気汚染のデータ共有プラットフォームの構築を進めている。一方、カリフォルニアの大規模火災の発生以降、大気中の微粒子の計測機器の需要が急拡大したが、こうしたセンサーを手がけるスタートアップからの協力は得られていない状況だ。

これらのスタートアップ(と投資家たち)は、自分たちの事業の成否はビッグデータを囲い込めるかどうかにかかっていると信じている。それが計測データの標準化に向けたさまざまなプロジェクトの障害となっている。

スタートアップは通常は、互いに協力したりデータを共有したり、調査結果などを公表したりするオープンリサーチを実施するようなことはしない。また、仮に会社を閉鎖することになった場合に自社データを公開するようなシステムを備えた大気汚染関連のスタートアップは、わたしが知る限りでは存在しない。

データを囲い込む製薬会社と同じ構図に

大気汚染というのはニッチな分野であるように思われるかもしれない。しかし、データシェアは多くの重要な産業で課題になっている。例えば、医療分野では臨床試験のデータ共有を巡る問題がある。

具体的には、過去に実施された臨床試験のデータが一括管理されていないために、これまでに積み上げられてきた成果を活用することが、不可能ではないにせよ非常に困難なのだ。医療分野の調査や臨床試験には、政府から数十億ドル規模の補助が出ている。しかし、オバマ政権下で始まった、がん撲滅を目指す「ムーンショット計画」など一部の例外を除いて、補助を受ける上でデータの公開などは義務づけられていない。

バイオ医薬品メーカーは、米食品医薬品局(FDA)には治験データを提出するが、こうした情報を研究者や一般に公開することはしない。要するに、大気汚染データとほぼ同じ状況になっているのだ。

臨床試験や医療分野の研究調査は、費用の一部が税金で賄われている。それにもかかわらず、製薬会社は結果を公表せず、データを囲い込んでいる。データが共有されれば新薬の発見につながったり、ほかの治験でそのデータを利用することもできるはずだ。

データのオープン化が医療の向上につながる

オープンデータは、臨床試験のプロセスの合理化と結果分析における人工知能(AI)活用の鍵となる概念だ。こうしたことが進めば、医療ケア全般が飛躍的に向上するだろう(これについては、昨年書いた博士論文のなかで詳細を論じた)。

一方で、臨床試験の終了後6カ月以内に結果を公開することを義務づけるといった取り組みも徐々に進んでいる。また、企業同士の競争に影響を及ぼさない方法でデータ開示を進めようと試みるイニシアチヴも存在する。医学の進歩のために、データの「湖」と健全なエコシステムを構築することを目指しているのだ。

一般の人々がデータ開示を求める動きも拡大しており、これもオープンデータの促進に寄与している。東日本大震災より前は、日本で放射線量のデータをもっているのは政府と大企業であり、そのデータセットも緻密なものではなかった。福島第一原発の事故が起きたことで、人々は大気中の放射線量に注目するようになったが、政府や原発を運営する電力会社はパニックが起きることを恐れ、データ開示に消極的だった。

しかし、国民は情報を求めた。Safecastはこうした背景の下に生まれ、大きな成功を収めたのだ。なお、オープンソースの無料ソフトウェアは学術関係者や趣味人を中心に始まったことも付け加えておくべきだろう。当初はデータ開示を求める活動家たちと企業の間で対立があったが、やがてはオープンソースというビジネスモデルが主流になっていった。

コモンズの悲劇と、理念の挫折

最後に、大気汚染の計測器には多くの選択肢があるが、どれを購入するか検討する際には、最新モデルかどうかや、ソーシャルメディアで話題になっているクラウドファンディングのキャンペーンといったものに惑わされないでほしい。

重要なのは、製品を支える技術の学術的根拠が信頼できるものであること、そして計測データの基準が明確に示されていることだ。同時に、計測器を提供する組織が、クリエイティヴ・コモンズの「CC0」[編註:コンテンツやデータの所有者がすべての権利を放棄することを示すライセンス]でデータを共有しているかどうかも確認しよう。

個人情報などを含むために完全には開示できないデータセットについては(家系図やゲノム情報などがこれに相当する)、マルチパーティーコンピュテーションやゼロ知識証明といった最先端の暗号化技術を用いれば、匿名化して公開することが可能になる場合もある。

カリフォルニアの大規模な山火事によって、データを所有し管理するのは誰なのかについてきちんと議論すべきときが来ていることが明らかになった。ビッグデータの時代においては、データをもつ者が市場を支配するという考えが主流になっている。そこでは「コモンズの悲劇」[編註:資源が共有財(コモンズ)である状態ではその乱用が起こるために資源の枯渇を招くという経済学の法則]のなかで、社会と科学のための情報活用という理念は挫折してしまうのだ。

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Translation by Chihiro OKA

科学はオープンなシステムによって知識を共有することによって、育まれ、発展していく。しかし、一部の学術誌の購読料が大幅に高騰しており、ハーヴァード大学のように資金的に恵まれた大学の図書館ですら定期購読を続けるのが難しくなっているという。

学術出版社の利益率はかなり高水準にある。これは、出版社は論文の著者や査読者に報酬を支払わないためだ。学術分野には一般的に政府から助成金が出ているが、こんな不自然な構造が持続可能なはずがない。わたしたちはこの状況にどう対処していくべきなのだろう。

ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)が広まった1990年代、人々は新しい学問の時代がやって来ると考えるようになった。知識への自由なアクセスに支えられた力強い学びの時代だ。

インターネットは研究教育機関が利用するネットワークとして始まったが、インターフェースやプロトコルの改良を経て、いまでは何回かクリックすれば公開されている論文はすべて読むことができる。少なくとも、理論的にはそうであるはずだ。

ところが、学術出版社は自分たちを守るために固まるようになった。著名な学術誌へのアクセスを有料化し、大学図書館や企業から多額の購読料を徴収し始めたのだ。このため、世界の大半で科学論文を読めないという状況が生まれた。

同時に、一部の出版社が不当に高い利益率を出せるという構造ができ上がった。例えば、情報サーヴィス大手レレックスの医学・科学技術出版部門エルゼビアの2017年の利益率は、36.7パーセントだった。これはアップルやアルファベット、マイクロソフトといったテック大手を上回っている。

壁に囲まれた「知」

学問の世界では、最も重要かつ権威のある学術誌の大半が、この購読料という壁(ペイウォール)で守られている。ペイウォールは情報の自由な拡散を阻むだけでなく、研究者の採用や人事にも影響を及ぼす。

こうした学術誌に関しては、その雑誌に掲載された論文がどれだけ頻繁に引用されたかの平均値を示す指標が算出される。この「インパクトファクター」と呼ばれる指標が、大きくかかわってくるからだ。

研究職など学術業界の人員採用では、応募者が過去に書いて学術誌に掲載された論文の評価が重要な位置を占める。インパクトファクターは、ここで意味をもつ。

応募者を評価する側は大学委員会や他の研究者だが、こうした人々は自身が多忙なだけでなく、応募者の専門分野についてそれほどの知識をもっていない場合もある。このため、過去の論文の合計数とそれが掲載された学術誌の影響度を示すとされるインパクトファクターによって、研究者の能力を判断しようとするのが一般的になっている。

必然的に、職を得るためには研究者たちは実際の信頼性とは関係なく、インパクトファクターの高い学術誌に優先して論文を送らざるを得ない。結果として、重要な論文はペイウォールに囲まれ、金銭的に恵まれた研究機関や大学に籍を置いていなければ基本的にはアクセスできないことになる。学術の世界を支える助成金の財源である税金を支払っている一般市民、発展途上国の人々、スタートアップ、急速に増えている独立系研究者などは、ここには含まれない。

壁を迂回するサイトの意義

プログラマーのアレクサンドリア・エルバキアンは2011年、購読料という壁を迂回するために「Sci-Hub」という科学論文を提供する海賊版サイトを始めた。エルバキアンはカザフスタン在住だが、この国は大手学術出版社が法的措置をとることのできる範囲のはるか外にある。

彼女はドキュメンタリー映画『Paywall』のなかで、こんな冗談を言っている。エルゼビアは自らの使命を「専門知識を一般に広めること」だとしているが、どうやらうまくいっていないようなので、自分はその手助けをしているだけなのだ、と。

エルバキアンのサイトは著作権侵害だと非難を受ける一方で、研究者には人気のあるツールだ。壁が取り除かれれば協力の機会も増えるため、有名大学の研究者にもSci-Hubの利用者は多い。エルバキアンは、わたしの同僚で友人でもあった故アーロン・スワーツが心に描きながらも、その短い生涯では成し遂げられなかったことをやろうとしているのだ。

論文掲載料によるアクセス無料化の試み

学術誌のペイウォールは将来的にベルリンの壁のように崩壊する可能性があり、その構造の弱体化に向けた努力も進められている。20年近く前には、学術情報の無償公開を呼びかけるオープンアクセス(OA)運動がはじまった。

OAでは基本的には、研究者が論文の査読や校閲を経ていないヴァージョンを学術機関のリポジトリなどにアップロードする。この運動はアーカイヴ先となる「arXiv.org」といったサイトが用意されたことで盛んになった(arXiv.orgは1991年に始まり、現在はコーネル大学が運営する)。また、2008年にはハーヴァード大学がセルフアーカイヴの方針を打ち出したために、世界中の大学がこれに追随した。

一部の出版社はこれに対し、論文の掲載者の側に「論文掲載料(APC)」を課すことで購読料を廃止するという手段に出た。APCは著者である研究者や研究機関が支払うもので、論文1本当たり数百ドルから数千ドルと非常に高額だ。

Public Library of Science(PLOS)のような出版社は購読を無料にするためにAPCを採用しており、実質的にはペイウォールが存在する場合でも、このシステムの下では論文の閲覧は無料になる。

ある意味で「勝利」と言えるかもしれないが…

わたしは学術界にOAという考え方が広まり始めた10年前に、クリエイティブ・コモンズの代表に就任した。仕事を始めたばかりのころ、学術出版社の人たちを相手に講演する機会があり、著作物の再利用ライセンスを著作権者自らが決めるようにするというクリエイティブ・コモンズの趣旨を説明しようとした。これには著作物の帰属を記載するだけで著作権料を課さないという選択肢も含まれるのだが、出版社側の反応は「そんなことはとんでもない」というものだった。

あの当時と比べれば状況ははるかに進歩したと思う。レレックスですら一部の雑誌は無料化し、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスも採用している。ほかにも多くの出版社が科学論文への自由なアクセスの実現に向けた準備を進めており、前述のAPCはこうした試みのひとつでもある。

つまり、ある意味では「勝利」と言えるかもしれない。しかし、学術研究における情報へのアクセスの変革は真の意味で達成されたのだろうか。わたしはそうは思わない。現行のオープンアクセスは支払う人が誰であれ何らかの課金を伴っており、それが少数の学術出版社に利益をもたらし続けている現状では、特に強くそう感じてしまう。

また、OAをうたう一方で、査読など品質管理のために必要な努力を放棄した学術誌も出てきている。こうしたことが起こると、OA運動そのものの信頼性が失われてしまう。

出版社にAPCを引き下げるよう求めることはできるが、主要学術誌とプラットフォームを抱える出版社がそれに応じる可能性は低いだろう。これまでのところ、出版社は機密保持契約やその他の法的手段を駆使して、値下げに向けた集団交渉を回避している。

新しい知のエコシステムの創造に向けて

メディアラボは先に、エイミー・ブランド率いるマサチューセッツ工科大学出版局(MITプレス)と共同で「MIT Knowledge Future Group(KFG)」というイニシアチヴを立ち上げた(念のために、わたしはメディアラボ所長で、かつMITプレスの役員でもある)。目的は新しい知のエコシステムを創造することだ。

これに向けて、正確な知識を共有するために誰もが無料でアクセスできるインフラを構築し、そのインフラを公的機関が所有するような体制を整える計画でいる。いまは学術出版社やプラットフォーマーに支配されている領域を再び取り戻すのだ。

この解決策はある意味では、オンライン出版に対するブログのようなものかもしれない。ブログは単純なスクリプトで、無料で情報発信ができる。運営するにはさまざまなサーヴィスがあるが、オープンソースで共通の標準が確率されている。ブログによって、非常に低コストで情報発信のためのプラットフォームの作成が可能になった。

このプラットフォームを利用すれば、非公式ではあるものの、以前なら数百万ドルもするコンテンツ管理システムがなければやれなかったことができる。こうしてユーザー作成型のコンテンツの時代が訪れ、その後のソーシャルメディアへとつながっていったのだ。

学術出版の世界はより複雑だが、ここで使われているソフトウェア、プロトコル、プロセス、ビジネスモデルを修正し再構築することで、経済的および構造的な面で革命を起こすことができるのではないだろうか。

オープンなシステムの構築が緊急の課題に

メディアラボは現在、オープンソースの出版プラットフォーム「PubPub」および公共の知を拡散していく際の標準となる「Underlay」の開発に取り組んでいる。また、研究者や研究機関を支援するためのテクノロジーやシステムをつくり上げ、それを運用していくための専門機関も設立した。

将来的には、科学論文を公開し評価するためのオープンソースのツールと透明性の確保されたネットワークからなるエコシステムが確率されるだろう。同時に、査読の過程を公表することで透明性を高めたり、体系的バイアスをなくすために機械学習を活用するといった、まったく新しい手法を試すことも考えている。

現状ではひと握りの商業出版社がプラットフォームを支配しているが、これに対する別の選択肢としてオープンなシステムをつくり上げていくことが緊急の課題となっている。こうした出版社は、研究情報のマーケットだけでなく、学術評価やより一般的には科学研究の技法も管理しているのだ。

学術評価では誰がその論文の主要著作者なのかということが重要になってくるが、共同研究やチームでの論文執筆が増えている昨今、この問題は複雑性を増している。

研究結果や発見についての功績が誰に認められるのかは大きいが、複数の著者がいる場合の著者名の並び順には共通のルールがなく、その研究への実際の貢献度や専門知識よりも、どちらかと言えば年功序列や文化のようなものによって決まっていることが多い。結果として、評価されるべき人が評価されていないのだ。

わたしたちの惑星の未来のために

これに対して、オンラインでの情報発信なら、著者名の「公平な」羅列から一歩前進することができる。映画のクレジットのようなものを想像してもらえばいい。論文のオンライン版は現状ではこうした形式になっていないが、これはいまだに印刷物の制約に従っているだけの話だ。また査読についても、プロセスの透明化、対価の提供、公平性のさらなる向上といった点で、改良の余地があると考えている。

知の表現と普及、保存のためのシステムについて、大学はよりよい管理が行われるよう主張していく必要がある。それは、大学の中核となる使命とも重なる。

人類の叡智とそれをどう活用し、また支援していくかということは、わたしたちの惑星の未来に直結している。知識は歪んだ市場原理やその他の腐敗要因から保護されなければならないのだ。そのための変革には世界規模での協力が必要不可欠であり、わたしたちはその促進に貢献したいと考えている。

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Translation by Chihiro OKA

1年以上前の話になるが、2017年12月にボストン公立学校(BPS)の各学校の授業時間が変更され、保護者が強く反発する出来事があった。始業時刻や終業時刻が変わったことでスクールバスの運行スケジュールも改定されており、新しいスケジュールがあまりに非合理的だというので不満が噴出したのだ。新しい授業時間はコンピュータープログラムを使って作成されており、そのアルゴリズムを開発したのはマサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームだった。

しばらくしてから、アメリカ自由人権協会(ACLU)のマサチューセッツ支部で「Technology for Liberty Program」の責任者を務めるケイド・クロックフォードからメールが届いた。政治家たちに対し、市民生活に影響を与えるような政策の決定にアルゴリズムを使うことには慎重になるよう呼びかける論説に、共同で署名を入れてほしいというのだ。

ケイドはMITメディアラボのフェローで、わたしの同僚でもある。彼女はデジタル世界における自由について考えるうえで重要なトピックを追いかけており、注目すべき話題があれば知らせてくれるのだ。なお、当時は問題のアルゴリズムを設計したMITの研究者たちのことは、個人的には何も知らなかった。

「行政プロセスに欠陥」と指摘したが…

ケイドが書いた論説の下書きにわたしが何点か修正を入れたあと、この論説は『ボストン・グローブ』紙に送られた。この論説は2017年12月22日付の紙面に掲載されている。タイトルは「学校の要求に従ったからといって、アルゴリズムを非難することはできない」だ。

わたしたちはここで学校の新しいスケジュールを検証した上で、問題はアルゴリズムそのものではなく、さまざまな意見を組み上げてシステム変更の影響を判断するという行政プロセスに欠陥があったのではないかと指摘した。この論説が掲載されたちょうどその日、BPSは新しいスケジュールの導入を見合わせる方針を明らかにし、ケイドとわたしはハイタッチで喜びを分かち合った。

この時点では、反対運動を起こした保護者もわたしたちも、そのとき手に入る情報に基づいて正しいと思ったことを実行に移したに過ぎない。しかし、それからしばらくして、この問題を別の角度から考えさせられる出来事があった。

これから書くことは、公共のルールづくりにおいてテクノロジーをどのように利用すべきか、またこうしたルールの影響を受ける人々からのインプットを政策づくりにどのように反映していくべきかについて、重要な視点を与えてくれると思う。

現在は民主主義にとって暗澹たる時代であると同時に、人間がテクノロジーを制御しきれなくなるのではないかという不安が増している。こうした状況にあって、わたしの体験した一連の出来事から、どうすればアルゴリズムを適切に活用できるのかという問題について、より深い理解を得られるはずだ。また、「デモクラシー2.0」というものを考える上でも役に立つかもしれない。

「明らかに何かがおかしい」状況

冒頭の事件から数カ月後、今度はMITのオペレーションズ・リサーチ・センターで博士課程に在籍するアーサー・デラルーとセバスティアン・マーティンから連絡をもらった。彼らは新しい授業時間を組み上げたアルゴリズムを開発したチームの一員で、ボストン・グローブの論説を読んだという。電子メールには丁寧な口調で、わたしが「事態の全容をつかめていないのではないか」と書かれていた。

ケイドとわたしは、アーサーとセバスティアンに会うことにした。この面会には、彼らのアドヴァイザーでMIT教授のディミトリス・ベルツィマスも参加してくれた。彼らはまず、わたしたちに変更に反対する保護者による抗議運動の写真を見せた。そこに写っていたのはほぼすべてが白人だったが、学区内の子どもたちの多くは非白人で、白人家庭は全体の15パーセントにすぎない。明らかに何かがおかしかった。

アーサーとセバスティアンの研究チームは、時間割を変更した場合の影響を割り出して評価するアルゴリズムも開発した。なかでも重要だったのが、登下校に使われるスクールバスに関するアセスメントで、BPSは運行スケジュールの最適化だけでなく、コストの削減も求めていた。

実はスケジュールの改定に先駆けて「Transportation Challenge」と題したコンペティションが行われ、MITのチームがつくり出したアルゴリズムが選ばれたという経緯がある。BPSはかなり前から授業時間の調整に取り組んでいたが、コストを抑えたままでバスのスケジュールを最適化するのは至難の業で、最終的には外部の力を借りることにしたのだ。

すべての問題を解決し、コストを上げないという難題

MITのチームのアルゴリズムは、必要な要素をすべて盛り込んだ上で、バランスを保った解決策を見つけ出すことに成功した。これまでは複雑なバスシステムの運用コストを算出するのはほぼ不可能で、それが授業時間の変更を検討する際の障害になっていたという。

チームはコンペの終了後、BPSと共同でアルゴリズムの改良に取り組んだ。行政が主催した住民参画のための説明会などにも加わって保護者らの要望を聞き、さらなる最適化を進めていった。

チームはこの過程で、アルゴリズムに各家庭の資産状況という要素を付け加えることにした。既存の授業時間体系は、主に低所得世帯に対して著しく不公平だということが明らかになったためだった。

また、高校生は始業時間が早すぎると睡眠にマイナスの影響が出るという調査結果があったので、この点も考慮した。さらに、発達障害などを対象とした特別支援プログラムも最適化の優先事項に加えたほか、低学年の児童たちの下校時刻が遅くなりすぎないように注意が払われた。

アルゴリズムは、これらすべての問題をコストを上げないようにしながら解決するよう命じられた。それどころか、できれば予算を削減したいという期待までかけられたのだ。

裕福な世帯に対する「バイアス」

事前調査からは、学区内のどの学校でも変更そのものに反対している層が一定数いることがわかっていた。また、一部の学校では多数派の声をくんで、終業時刻を午後1時半に設定するといった特殊な条件を設定することも可能だったが、そんなことをすれば少数ではあっても強い反発が出ることは必至だった。

アルゴリズムが導き出した解決策には、始業時刻が朝8時より遅い高校の数を大幅に増やす、終業時刻が午後4時以降になる小学校の数を減らすといった変更が含まれていた。最終的に出来上がった案は、大多数の人にとって既存のシステムよりかなり優れたものになっていた。

もちろん不満を表明する保護者がいることは予想された。しかしアーサーもセバスティアンも、あれほどまでに激しい抗議運動が起こるとは考えていなかったという。

大きな論点のひとつが、最適化の条件に各家庭の「資産」を組み込んだ結果として、アルゴリズムの出した答えには裕福な世帯に対する「バイアス」がかかっていたという点だ。また、コンピューターが決定を下したという事実も人々を動揺させたのではないかと、わたしは思っている。

新しい授業時間を受け入れた保護者は、その決定プロセスにまで注意を払うことはなかったが、不満を抱いた人々は変更中止を求めて市庁舎に押し寄せた。そのニュースを知ったケイドとわたしは、当時は反対派への支持を表明して、アルゴリズムの提案の「問題点」を訴えたのだ。

そして行政側は反対運動に押され、変更を断念すると決めた。ボストンのスクールバス改革は頓挫し、BPSとMITのチームの努力も水泡に帰したわけだ。

個人という立ち位置からの見解

白人を中心とした裕福な世帯で構成される反対派の保護者たちが、低所得層の家庭を助けるために自分たちにとって有利な既存の時間割の廃止に賛成するかどうかはわからない。ただ、高校生の睡眠、低学年の児童たちの下校時刻、特別なケアが必要な子どもたちを優先する、運用コストの削減、所得による不公平が生じないようにするといったアルゴリズムに組み込まれた諸条件は、どれもごく普通に納得できるものだ。最適化はこうした条件に基づいて行なわれたということを理解すれば、たいていの人は新しいシステムが現行のものより優れているという意見に賛成するのではないかだろうか。

問題は、大局的な視点から個人という立ち位置に移ると、人々は急に身構えて文句を言い始めるという点だ。一連の騒動について考えていたとき、わたしはハーヴァード大学の心理学教授ジョシュア・グリーンが提示した問題に触発されて、メディアラボのScalable Cooperation Groupが実施したある研究を思い出した。

グリーンは自動運転システムについて、社会の大半が事故の際に多数の歩行者を救うにはクルマの搭乗者を犠牲にするといった人工知能AI)の合理的な判断を支持する一方で、自分はそんなクルマは買わないと考えているという矛盾を指摘したのだ。

テクノロジーはどんどん複雑になっているが、そのおかげで、わたしたちが社会をつくり変えていく能力も強化されつつある。同時に、合意形成やガヴァナンスといったものの力学が変化していることも確かだろう。

ただ、社会の均衡を保つためには妥協も必要だという考え方は、なにも目新しいものではない。民主主義を機能させていく上で基礎となる理念だ。

決定過程のブラックボックス化という問題

MITの研究者たちは、アルゴリズムの開発過程で保護者らと話し合う機会があったが、保護者たちは授業時間の最適化において考慮された要素をすべて理解しているわけではなかったという。時間割を改良するために必要となるトレードオフは明確には示されておらず、また変更の結果としてもたらされる利点も、それぞれの家庭が受ける影響と比べれば曖昧なものに見えた。

そして、保護者たちの抗議運動がニュースで報じられたときには、個々の変更がなされた理由や、そもそもなぜ時間割を刷新するのかという俯瞰的な視点は失われてしまっていたのだ。

一方で、今回の事例で難しかったのは、アルゴリズムの決定過程のブラックボックス化という問題だ。これに関しては、スタンフォード大学の熟議民主主義センターが討論型世論調査(DP)という手法を紹介している。これは民主主義を採用したガヴァナンスにおける意思決定の方法のひとつだ。

具体的には、政策立案の過程で影響を受けるグループの代表者に集まってもらい、数日間にわたって討議を行う。その政策の目的を評価し、必要な情報を全員で検討することで、利害対立のある人々の間で合意形成を目指すのだ。

BPSの場合、保護者たちがアルゴリズムによる最適化における優先事項を十分に検討し把握していたなら、自分たちの要望がどのように反映されたかをより簡単に理解することができただろう。

人間の協力の重要性

アルゴリズムを開発した研究者たちとのミーティングのあと、ケイドがデヴィッド・シャーフェンバーグというジャーナリストを紹介してくれた。シャーフェンバーグはボストン・グローブの記者で、BPSの授業時間変更についての調査記事を書いたという。

この記事には、読者がMITのチームのアルゴリズムを理解できるようにシミュレーターが組み込まれており、コストや保護者の要望、子どもたちの健康といった要素があるなかで、どれかを重視すればほかのものは犠牲にせざるを得ないという難しい状況がよくわかるようになっている。

テクノロジーを利用して学校運営の改革を実施しようとしたBPSの試みは、こうしたツールによってバイアスや不公平を増幅させないためにはどうすべきかを理解する上で、貴重な授業となった。アルゴリズムを使えば、システムを公平かつ合理的なものに改良することができる。ただ、それには人間の側の協力も必要なのだ。

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Translation by Chihiro OKA

40歳になったばかりのころ、気候変動、動物の権利、自分の健康という以前から気になっていた3つの問題に、一気に取り組んでみようと思い立った。そして、ヴィーガンになることにした。医者からは赤身の肉の摂取を減らすように言われていたし、幸いなことに日本の片田舎にある農村に引っ越したばかりだった。周囲ではさまざまな野菜が栽培されており、どれもとてもおいしかった。

しばらくはよかったが、一過性の高揚が消え去ると、食べられるものに制限があることにずいぶん悩まされた。特に旅行中が大変だった。そして結局、わたしはヴィーガンからペスクタリアン[編註:魚介類は食べる菜食主義者]に転向した人々の一群に加わった(Wikipediaにヴィーガンの有名人のリストがある。もしわたしの名前が載っていたとしても、この記事を書いたことで削除されてしまうだろう)。

それから5年後に東日本大震災が起きた。わたしの家は福島第一原子力発電所からは離れた場所にあったが、放射性物質のセシウム137はそこまでやってきて、苦労してつくり上げた有機農法の畑に降り積もり、オーガニックの循環システムを完全に破壊してしまった。

わたしは同じ年にマサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの所長に就任し、米国に移住した。そして徐々に、再び肉を口にするようになっていったのだ。

「細胞農業」との出合い

月日は流れ、ヴィーガンになると誓った日から10年が経ったころ、非営利団体(NPO)のNew Harvestを率いるイーシャ・ダタールに出会った。イーシャは「細胞農業」と呼ばれる先端技術の研究をしている。具体的には、食品(牛乳、卵、魚、果物など)や、それにまつわる風味、芳香といったものを細胞培養によってつくり出す学問だ。

芸術分野に造詣が深い人なら、オロン・カッツとイオナット・ズールを覚えているかもしれない。カッツとズールは2003年、カエルの筋肉から“生きた”ステーキ肉を培養するというアートプロジェクト「Disembodied Cuisine」を発表した。

08年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で、フラスコの中でマウスの細胞から小さなジャケットをつくり上げるというバイオアート「Victimless Leather」の展示が行われた。期間中にジャケットが大きくなりすぎたため、美術館側が培養装置の電源を切る決断を下したところ、抗議の声が上がったという。

ただ、イーシャがやろうとしているのは、興味深い芸術作品を生み出すことではない。わたしたちの食生活はいまや、ヴィーガンかペスクタリアンか肉食かというような単純な分類はできなくなっている。テクノロジーのおかげで、その生産過程において倫理的議論を巻き起こすような肉の代用品が手に入るようになったためだ。イーシャは食糧問題に取り組んでおり、New Harvestはこの分野の研究機機関やグループの支援と連携に携わっている。

一般の人から見ると代用肉を開発する企業やラボはどれも似たようなもので、肉なしのミートボールをつくっているという程度のイメージしかわかないかもしれない。しかし、例えば自動運転システムがどれも異なるのと同様に、代用肉にもさまざまな種類がある。

自動車の業界団体SAEインターナショナルは、自動運転を5段階に分けて定義している。わたしもここで、細胞農業を6つのレヴェルに分けて説明してみたいと思う。運転支援システムの付いたクルマは便利だが、ドライヴァーのいない自動車輸送サーヴィスを利用して家まで帰るのは、まったく別種の体験だ。そして後者は、自動運転とは異なる道筋をたどって進化してきた場合もある。細胞農業にも同じことが言えるのではないかと考えている。

レヴェル0:ヴィーガンの基本

豆類のようにタンパク質の豊富な植物はたくさんある。これらの植物はそのまま食べても非常においしい。

レヴェル1:代替食品を試してみる

ヴィーガンだったときには、植物ベースの加工タンパク質をいろいろ試した。例えば、豆腐は肉のような食感があり風味もいい。わたしはこれらの食品を代用肉のレヴェル1に位置付けている。ヴィーガン向けの中華レストランに行くと「フェイクミート」と呼ばれるものが出てくることがよくあるが、たいていはグルテンミート(セイタン)か、大豆などからつくられた植物性タンパク質だ。きちんと風味があり、食感はエビのような動物性タンパク質に似ている。こうした植物ベースのタンパク質は、肉を食べるという行為の模倣に向けた第一歩だ。ヴェジーバーガーもこのカテゴリーに含まれる。

レヴェル2:テクノロジーの介入

次のカテゴリーに属するのは、やはり植物ベースではあるが、最新の科学技術を駆使した特殊なプロセスを経てつくられるプロテインだ。酵母菌やバクテリアを使って植物性タンパク質に何らかの変化を起こし、味や匂い、質感、見た目などを本物の肉により近づけていく。

インポッシブル・フーズが生産する「インポッシブル・バーガー」がまさにそうで、ここでは遺伝子操作したイースト菌がつくり出すヘムと呼ばれる化学基が重要な役割を果たす。このヘムによって血の滴るような肉らしい食感が生まれ、植物由来なのに牛肉そっくりのバーガーパテになるのだ。こうした製品はバイオテクノロジーと大規模発酵の可能な設備のおかげで、商業ベースでの生産が可能になっている。

一方、卵を使わないヴィーガン向けマヨネーズで知られるスタートアップのジャストは、植物性タンパク質からスクランブル・エッグを生み出す方法を開発した。原材料に卵はいっさい含まれないが、これも薬学に食品および化学分野の研究を掛け合わせたものだ。

レヴェル3:一歩踏み込んで

レヴェル3の代用肉は、植物ベースの材料と培養した動物細胞を組み合わせたものだ(動物細胞が入っている点でレヴェル2の発酵“肉”とは異なる)。大部分は植物だが、色や肉のような風味を出すために動物細胞を加える。

このレヴェルになると、食品業界ではまだ一般的でない手法や科学技術が必要になってくる。具体的には産業バイオテク技術と大規模な細胞培養といったものだが、医薬品業界ではすでに実用化されている。

レヴェル4:培養液からつくられたミートボール

ここで、完全に培養だけでできた動物性タンパク質が登場する。サンフランシスコに拠点を置く食品技術スタートアップのメンフィス・ミーツなどが取り組んでおり、動物の骨格筋やその筋繊維の束を培養液からつくり出す。質感については改良の余地があるため、現在は主にミートボールとして製品化されている(レヴェル3とレヴェル4の大きな違いは、前者は基本的には植物性タンパク質でそこに微量の動物の培養細胞を加えただけなのに対し、後者は製品の大部分が動物細胞である点だ)。

現段階では最も一般的な培地は血清で、大半はウシの胎児から調整された血清が使われる。ビーフバーガーのパテを1枚つくるのに、だいたい50リットルのウシ胎児血清が必要で、コストは6,000ドル(約67万円)程度だ。これを大量生産が可能な水準にまでもっていくには、動物由来ではない培地で培養を行う方法を見つけなければならないし、培地だけでなく細胞そのものにも何らかの技術的工夫が加えられていくだろう。さらに、単にカロリー源であればいいということではなく、栄養素や風味といったものをきちんと理解し再現することも重要だ。

レヴェル5:研究室生まれの培養肉

レヴェル5では、人類は遂に本物の鶏モモ肉やTボーンステーキと遜色のない代用肉を手に入れる。「研究室生まれの培養肉」と言われたときにわたしたちが想像する、『宇宙家族ジェットソン』に出てきそうな未来の食べ物だ。これが代用肉産業が目指すゴールだが、実現した企業はまだ存在しない。技術的には、幹細胞からつくり出した人工臓器を使った臓器移植医療で用いられる最先端の細胞科学を応用することになるだろう。

ただ、ビーカーに動物細胞を詰め込んで固めるだけでは、ステーキ肉の食感はつくり出せない。本物の肉の質感を生み出すには筋組織の3次元構造を再現することが必要で、血管も組み込めるという。植物ベースの培養液も開発されているが、この筋組織を増やす、つまりわたしたちの体内でいままさに起こっているように筋組織を「成長」させていくことも鍵となる。

再生医療と細胞組織学の研究のおかげで、シャーレいっぱいの幹細胞ではなく、実際に機能する人工肝臓をつくり出すにはどうすればいいかといったことが、徐々に明らかになっている。ただ、これを食品に応用しようと考えている科学者はまだ少ない。

レヴェル6:まったく新しい食品の創造

本物の肉と区別のつかない培養肉ができればすごいが、それよりも素晴らしいのは新しい食品科学というアイデアである。さまざまな原材料から、まったく新しい食べ物をつくり出す食糧生産システムが可能になるのだ。新しい食感や風味をもち、画期的な栄養素を含んだ人工タンパク質といったものが生産されるようになる。科学者たちはただの肉の模造品ではなく、見たこともない食材を開発していくだろう。ポスト・ミート(肉の次にくるもの)の時代だ。

食糧が自宅で簡単に“生産”できる時代

わたしや投資家たちが、なぜこれほどまで一連の取り組みに注目しているのか説明させてほしい。地球には太陽光などの再生可能エネルギーを効率的にカロリーに変換することのできる生物がいる。藻類や菌類などが一例だが、わたしやイーシャの夢は、いわばエネルギーの収穫者であるこうした生き物たちに備わったシステムを解明することにある。このメカニズムがわかれば、自然エネルギーを何らかのバイオリアクターに投入し、アウトプットとして出てくるカロリーからわたしたちの欲しい食べ物をつくり出すことが可能になる。

世界中に存在する発酵食品を含め、微生物の利用という点で人類はさまざまな革新的な技術を発達させてきた。ほかにもゲノミクスや組織工学(ティッシュエンジニアリング)、幹細胞といったテクノロジーの進化を考えれば、「食」に革新をもたらすような大発見も決して夢物語ではないだろう。

同時に、大規模な家畜飼育システムや食品のサプライチェーン、はたまたウシのげっぷ[編註:メタンを含んでいるため地球温暖化の原因となっている]などが環境に与える影響を軽減することも可能になる(畜産業は地球の農耕可能な土地の7割を占有しており、飼料のサプライチェーンなども含めると温室効果ガスの最大51パーセントを排出しているという試算もある)。

肉食は人類の活動のなかで最も環境負荷が高い行為のひとつだ。また、肉に限らず野菜や果物も輸送工程で冷蔵を必要とするが、新種の食べ物であればその問題も解決できる。原材料を常温保蔵が可能なかたちで運び、食べる直前に何らかの準備をすればいい。子どものころ、乾燥卵を塩水に浸けておくだけで孵化するシーモンキーを飼ったことがあるが、あれと同じように簡単に自宅で“生産”できる食べ物だ。

このまったく新しい食糧生産システムにおいては、原材料を入れるとラムチョップが出てくるような魔法のバイオリアクターが必要になる。細胞を材料に使うホームベーカリーか、ビールではなく肉がつくれる醸造タンクのようなものを想像してみてほしい。細胞生物学の研究者たちがシステムを開発できれば、残るのはエンジニアリング的な課題だけだ。

求められる真の科学の力

これまでのところ、肉食という行為を考え直すことに投資しているのは、大半がヴェンチャーキャピタリストだ。彼らはリターンを重視するため、スタートアップには製品をなるべく早く市場で販売するようプレッシャーがかかる。一般からの資金だけでは、時間をかけてレヴェル4や5まで突き詰めた食品が開発される望みは薄いだろう。

このため、基礎研究を支えるための政府支援や社会的投資を拡充しなければならないし、生物医学の研究者たちがその知見を生かして細胞農業分野で協力していくことも必要だろう。実際、New Harvestが協力する研究機関の多くは、基礎研究に従事している。家畜から採取した細胞の培養や植物細胞の構造に手を加えて、そこに動物細胞を培養するといった取り組みが行われているという。

イーシャと仲間の研究者たちのネットワークを見ていると、神経科学の黎明期を思い出す。当時はこの分野における政府からの補助金はほとんどなかったが、ある時期からいきなり大きな注目を集めるようになった。気候変動をめぐる懸念が無視できないところまで拡大している現在、代用肉の研究も同じ時期に差し掛かっているのではないかと思う。また、地球人口が100億人を突破する日はそう遠くはなく、食糧不足が起きる可能性も指摘されている。

細胞農業の支持者の大半は、その理由に動物の権利を挙げる。動機としてまったく問題はないが、食糧生産の未来に向けて新しい食べ物を開発するには真の科学の力が必要だ。そして、わたしたちはいますぐにこの問題に取り掛からなければならない。

将来的に十分な食糧を確保するためだけでなく、気候変動を最小限に抑え、家畜への抗生物質の投与による耐性菌の蔓延を食い止め、水産資源の減少に歯止めをかけることもできるだろう。そして、これまでに味わったこともないようなヌーベルキュイジーヌを楽しめる可能性だってあるのだ。

特記事項:イーシャにはのちに、MITメディアラボの特別研究員になってもらった。彼女の研究とヴィジョンは、わたしたちにインスピレーションを与えてくれている。

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Translation by Chihiro OKA

刑務所の収容者の数を減らすべきであるという点では、コーク兄弟[編註:米国の実業家で極めて大きな影響力がある]から米国最大の人権擁護団体である米国自由人権協会(ACLU)まで、誰もが意見が一致している。人種差別的かつ不公正なシステムが受刑者の増加を招いていると左派が批判する一方で、保守陣営は現行の刑事司法制度は非効率で改革が必要だと叫ぶ。ただ両者は少なくとも、塀のなかにいる人間の数を少なくするのはよいアイデアであるという点では、意見が一致している。

この問題をめぐっては、犯罪抑止に向けた取り組みを中心に、さまざまな場所で人工知能AI)が活用されるようになっている。例えば、地域住民の人口構成や逮捕歴といったデータから犯罪の起こりやすそうな場所を特定するといったことが、実際に行われているのだ。また、保釈や仮釈放の決定を下す際のリスクの判定だけでなく、実際の刑罰の決定にまでAIのシステムが関与することもある。

改革派は政党を問わず、アルゴリズムを使えば人間より客観的なリスク評価が可能だと主張する。保釈の判断を例に考えてみよう。リスク判断において正確かつ効率的なシステムがあれば、勾留の必要がない容疑者を迅速に特定できる。

ところが、非営利の報道機関であるプロパブリカが2016年に行なった調査によると、こうしたシステムには人種的バイアスがかかっている。AIが黒人の保釈を高リスクと判定した比率は、白人の2倍に達したというのだ。

わたしたちはアルゴリズムを、未来を予測する「水晶玉」のように考えている。しかし、実際には社会を批判的に見つめ直すための「鏡」ではないだろうか。

アルゴリズムは、わたしたちが気付かずにいる世のなかのひずみを正確に映し出す。機械学習やデータサイエンスを活用することで、貧困や犯罪を生み出している根本的な問題を解明することが可能になるかもしれない。しかしそれには、意思決定の自動化にこうしたツールを用いて不公正さを再生産するようなことは、やめなければならない。

「反社会的なAI」から見えてきたこと

AIのシステムはたいてい、将来的に起こりうることを正確に予測するための学習に、大量のデータセットを必要とする。例えば、皮膚がんの兆候を検出するようなAIであれば、その利益は明らかだ。

マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボは6月、恐らくは世界初となる「反社会的な人格」を備えたAIを公開した。「ノーマン」と名付けられたこのAIサイコパスは、機械学習でアルゴリズムを生成する際にデータがどれだけ重要な役割を果たすかを理解してもらうためにつくられたもので、オンライン掲示板「reddit」にアップロードされた死体などの残虐な画像を使って訓練された。

研究チームは一方で、より穏やかな画像で学習した普通のAIも用意した。そして、両者にロールシャッハテストに使われるインクしみを見せて何を連想するか尋ねたところ、普通のAIが「木の枝に止まる鳥」と判断した画像を、ノーマンは「感電死した男」と描写したのだ。

AIが人間の人生を左右するような決定を下す場合、社会的にすでに不利な立場にある人々にさらなるダメージを与えるリスクが存在する。同時に、被支配者から支配者への権限の移譲も加速する。これは民主主義の原則に反している。

ニュージャージー州など一部の州では保釈金制度の見直しに向けて、容疑者を釈放すべきか判断する際にアルゴリズムが使われている。現行の制度は本来の目的通りには機能していないだけでなく、保釈金を支払えない者にとって著しく不公平だということは、複数の研究によって示されている。

つまり多くの場合において、裁判前の未決期間の自由を“買う”金がない貧困層の勾留と、「推定無罪」という原理の下で保障された権利を否定する結果につながっているのだ。

構造的な問題解決の重要性

理想的には制度改革が行われるべきだろう。だが保釈金を廃止すれば、代わりに電子モニタリングや強制的な薬物検査など、金銭は伴わないものの懲罰的な措置を導入せざるを得ないのはでないかと懸念する声もある。

保釈の際に設けられる条件が、容疑者の逃亡や証拠隠滅といったリスクの軽減において効果的なのかということは、現状ではほとんどわかっていない。当然のように、強制薬物検査やGPSによる監視などの条件付きでの保釈が、容疑者本人や社会にどのような影響を及ぼすのかという重要な質問に対する答えも見つかっていない。例えば、保釈中にGPS付きの足輪をはめなければならない場合、それは就業の妨げとなるのだろうか。

こうしたことを考えたとき、仮に制度改革を実施しても、結局は保釈金と似たり寄ったりの有害なシステムを構築するだけで終わってしまう可能性はある。わたしたちは社会システムを改良する機会を失うのだ。

これを避けるには、旧来のモデルに機械学習という新しい技術を適用して社会的弱者を罰することを続けるのではなく、貧困と犯罪の根底にある構造的な問題を探ることに注力する必要がある。

これは何も刑事司法制度に限った話ではない。ニューヨーク州立大学オールバニ校の政治学者ヴァージニア・ユーバンクスは、今年1月に出版された『Automating Inequality』(自動化された不平等)で、アルゴリズムを使った意思決定システムの失敗例をいくつか紹介している。なかでも胸が痛むのは、ペンシルヴェニア州アレゲニー郡の自治体が導入した、児童虐待に関する相談電話のモニタリングにデータを活用する事例だ。

具体的には、ケースワーカーが介入して児童を保護すべきか判断する際に、その判断を支援するためのアルゴリズムが作成された。ここでは公的機関のデータが用いられたが、過去に虐待が認められたのは貧困層の子供が多かったため、結果として基本的に貧困層の子供を「ハイリスク」と識別すようなアルゴリズムができてしまった。

虐待のひとつにネグレクト(育児放棄)があるが、ネグレクトの危険性を示す兆候は貧困層の児童に見られる特徴と重なる部分が多い。例えば、極度の貧困で紙おむつを買えないからといって、それは育児の放棄には当たらない。しかし、アルゴリズムに判断を任せれば、そういった状況が虐待の恐れがあると見なされ、子供が公共の保護施設に入れられることが起こり得るのだ。

ものごとの因果関係の理解に努めるべき

ユーバンクスはデータやアルゴリズムを、貧困を引き起こす原因を探るために活用してはどうかと提案する。機械的に子供を親から引き離すのではなく、AIには「家庭を安定させるために最も効果的な手段は何か」といった質問をすべきだというのだ。

MITのチェルシー・バラバスは2月に行われたカンファレンスで、わたしも執筆に関わった論文「Interventions over Predictions: Reframing the Ethical Debate for Actuarial Risk Assessment」(予測への介入:リスク評価における倫理的議論の再構築)の発表を行った。カンファレンスでは、社会システムにテクノロジーを応用する際に、公平性や信頼性、透明性といったことをどのように確保していくかが話し合われた。

わたしたちはこの論文で、テック業界はAIの倫理的な危険性を判断するうえで間違った基準を使ってきたという主張を展開している。正確さや偏向という観点から考えたとき、AIの利点もリスクも限定的にしか捉えられていない。結果として、わたしたちはオートメーションやプロファイリング、予測モデルといったものにAIを導入することで、社会的にはどのようなメリットがあるのかという基本的な問いに答えることをおろそかにしてしまったのだ。

この議論をやり直すためには、「偏りのない」システムの作成はひとまず置いて、先にものごとの因果関係を理解することに努めるべきだ。保釈された容疑者が決められた日に出廷しない理由は何だろう。赤ん坊がおむつを換えてもらえないのはどうしてだろうか。

公共サーヴィスの管理運営にアルゴリズムを的確に活用することで、効果的な社会支援システムを設計することが可能になるが、ここには既存の不平等の固定化という大きなリスクもある。メディアラボのプロジェクトのひとつである「Humanizing AI Law(HAL)」は、この問題に焦点を当てている。ほかにもまだ数は少ないが、社会科学やコンピューターサイエンスの専門家たちを巻き込んで、同様の試みが行われるようになっている。

予測モデルが無益だとは思わないし、因果関係がわかればすべてが解決するわけでもない。社会的な問題に取り組むのは骨の折れる仕事だ。

わたしがここで言いたいのは、大量のデータはいま目の前で実際に何が起きているのかを理解するために使われるべきだ、ということだ。焦点を変えることで、より平等でさまざまな機会に満ちた社会を構築することが可能になるかもしれない。そして『マイノリティ・リポート』のような悪夢は避けることができるのではないだろうか。

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Translation by Chihiro OKA

国連特別報告者のフィリップ・アルストンは、2017年12月15日にある厳しいリポートを発表した。ニューヨーク大学ロースクールの教授であるアルストンは人権活動家で、貧困問題などの専門家でもある。

リポートでは、スタンフォード大学の貧困と不平等研究センターが算出した次のようなデータ[PDFファイル]を引用した。「労働市場、貧困、セーフティーネット、経済的な不平等という観点から見ると、米国は世界で最も裕福な10カ国のうち最下位である。そればかりか21カ国中でも18位にとどまっている」というものだ。

そのうえで、「米国における社会的な流動性は、先進国のなかで最低レヴェルにまで低下している。アメリカン・ドリームは急速に色あせ、幻想となりつつあるのだ」と書いている。

このリポートの発表に先立つ同年の12月11日、日刊紙『ボストン・グローブ』に興味深い記事が掲載された。同紙の調査報道班「スポットライト」チームの調べによると、ボストンの都市圏に住む非移民の黒人世帯の純資産の中央値は8ドル(約900円)であるのに対し、白人世帯の純資産は平均で24万7,500ドル(約2,780万円)だという。

米国は明らかに、所得格差によって分断されてしまっている。そして、この問題に対する有効な解決策は見つかっていない。

同様の懸念を抱くテック界のリーダーやカトリック教会の代表者と、働くことの未来について過去数年にわたって広範な議論を続けてきた。こういった状況のなかでよく出てきたのが、ユニヴァーサル・ベーシックインカム(UBI)という概念だ。

これまで仲間と同じように、UBIについてはっきりとした態度を取ることを避けてきた。しかしいま、これについてきちんと考えるべきときが来たと感じている。

賛否がはっきりと分かれる概念

テック業界やヘッジファンドの著名人の「仲間うち」では、米国における貧困と技術革新による雇用喪失という問題への優れた解決策として、UBIがよく取り上げられる。ただ考え方自体はそれほど目新しいものではなく、わたしが生まれる前から存在した。

UBIは、生活保護のような現金の支給か負の所得税(所得が一定水準に達していない人も税金を還元する仕組み)といったシステムによって貧困層(もしくは国民全員)の生活水準を改善し、社会改革を起こそうという概念だ。

興味深いことに、この概念はノーベル賞経済学者のミルトン・フリードマンのような保守派から、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような改革派まで、どちらからも支持を得ている。一方で、UBIを批判する声も保守と革新の両方から聞かれる。

保守派は、社会保障費の削減が可能になるという理由でUBIに賛成する。医療や食糧支援、失業手当といった個々の社会保障の代わりに一定金額を支給して、その使途に政府が関与せず個人が決めるようにすれば、究極的には安上がりだというのだ。

これに対して、改革派はUBIを富の再分配の機会と捉える。例えば、無報酬で家事労働に従事するグループにも収入の道が得られる。さらに、UBIの支持者はこれが貧困の撲滅につながると主張する。

しかし一方では、同じくらいの反対意見も存在する。保守は労働意欲が失われると警告するし、財源をどうするかという問題もある。働く者が働かない者を養うという結果に陥るのではと懸念しているのだ。

また懐疑的な改革派は、雇用主が賃金を引き下げるのではないかと指摘する。ほかにも、国が既存の社会保障を骨抜きにし、提供する責任を放棄する言い訳に使われるのではないかと懸念する声もある。

結果としてUBIは、党派が対立する問題でありながら、超党派の支持を得るというパラドックスに陥っている。

パネリストとして最近招待されたあるカンファレンスで、司会者が「UBIについてどう思うか」と参加者に質問する場面があった。500人ほどいた聴衆の大半は、「効果があるかはわからないが、実証プログラムなどをやってみるべきだ」と考えているようだった。

UBIに対する意見が大きく異なるのは、運営方法や社会的な反応がほとんどわからないからだ。具体的に、どのようなものなのかきちんと理解している人は少ない。スマートフォンやWikipediaが登場する以前の、酒場における酔っ払いの言い争いと同じで、正確に議論できないのだ。ただ、知っておくべき基本原則や、実態を想像するのに役立つ研究がある。

シリコンヴァレーが原因で注目を集める

UBIという制度が注目を浴びるようになったのは、シリコンヴァレーが原因だ。テック界の大物や学者などが「ロボットや人工知能(AI)は、近いうちに人間の仕事を奪うだろう」と騒ぎ始めたのである。同時に「ロボットは誰もやりたがらない低賃金の単純労働を担うようになる」というポジティヴな予想もある。

一方で「ロボットが自分の能力には見合わないと判断した底辺の仕事を、人間がやらされる羽目になる」と警告する専門家もいた。そして、UBIはこの状況を救うことができるかもしれないという。

昨年の全米知事協会の会合でイーロン・マスクは、テクノロジーが人間の雇用を奪うという未来は「自分にとっては最も恐ろしい問題」で、「解決策は容易に思いつかない」と語った

マスクや一部の起業家は、UBIによって収入が確保されれば相応の余暇ができるため、この空き時間を使い、自らを鍛え直すことができると主張する。勉強してロボットにできない技術を身に付ければいいと言うのだ。新しいタイプの起業家が誕生し、アメリカン・ドリームが再来するかもしれないとまで言う者もいる。

ただ、それは少し先走り過ぎているかもしれない。英国のバース大学政策研究所のルーク・マルティネリは「財政的に実現可能なUBIでは不十分だし、十分なUBIは費用という意味で現実的ではない」と指摘している[PDFファイル]。大筋のところでは、この意見に同意する。

財源が最大の課題に

UBIで最も大きな問題は財源だ。仕事をせず、自分の好きなことを追求するのに必要な額(給与収入がゼロになっても最低限の生活ができる額)を月1,000ドル(約11万円)とした場合、すべての国民に支給するには、たいていの国で国内総生産(GDP)の5〜35パーセントに相当する予算が必要になる。これは、先進国の貧困を撲滅するコストとしても、かなり割高だ。

つまり、すべての国民が日々の生活を送るのに十分な額を本当に支給しようとすれば、社会保障をなくして浮いた金をUBIに回すしか方法はない。リバタリアニズムの信奉者と保守派の一部は賛成するかもしれないが、大方にとっては受け入れられる案ではないだろう。

シリコンヴァレーの議論を支えているのは、ピーター・ディアマンディスが『楽観主義者の未来予測』で主張しているような「科学とテクノロジーの急速な進化により、豊かな未来が訪れる」という信念だ。

ディアマンディスは医療の進歩やコンピューターの処理能力の向上、AI開発を含むテクノロジーの発展によってシンギュラリティ(人工知能が人類の知能を超える転換点)がもたらされ、世界が一変すると主張する。いまの世界が暗黒時代のように感じられる未来がやってくるというのだ。

ディアマンディスは、人間の脳はこうした未来を直感的に想像できないため、長期的な変化を過小評価する傾向にあると説明する。人類は「数十年後には、いまからは想像できないほど豊かになっているだろう」と、彼は著書に書いている。

彼は「わたしたちはすぐに、地球上のすべての人間の基礎的な需要を満たし、さらにはこれを上回る能力をもつようになる。全人類が富を手にする未来は、すぐそこまで来ているのだ」とも主張している。

ただ、テクノロジストが忘れがちな事実をひとつ指摘しておきたい。わたしたちはすでに、実際に世界全体を養うのに十分な量の食糧をもっている。その分配がうまくいかないだけだ。

テック業界とUBIの関係

テック界の富豪は「ケーキは残しておけるし、それを食べられる」と考えている。富裕層が経済的に豊かになれば、いずれは貧困層にも富が行き渡るというトリクルダウン理論を信じている。最終的には、誰も苦しまずに世界全体が豊かになると思っているのだ。では、彼らにはなぜそのような確信があるのだろうか。

テック業界に君臨する企業は、非常に短期間でトップまで上り詰めた。創業者も同様に、あっという間に莫大な富を手にしている。そして、マーク・アンドリーセンが『ウォール・ストリート・ジャーナル』への寄稿「Why Software is Eating the World(ソフトウェアが世界を飲み込む理由)」で予言したように、この快進撃に終わりはないように見える。

シリコンヴァレーのリーダーのほとんどは、急拡大する市場のおかげで、過去のゲームの勝者たちのように攻撃的な戦略を取らなくても富を築くことができた。このため、彼らは自分たちのビジネスが本質的には「よいことをしている」と感じている。そしてこの結果として、大まかに言うと恵まれない人を救うべきだと強く信じているのだ。少なくとも、そう思える。

米国やフィンランドの事例

テクノロジストは次のように考えている。自分たちの予見が正しく、機械化によってアメリカのGDPが大幅に拡大するなら、この未来に付随する問題を何とかするのも自分たちの役目であるに違いない。

テック界の大物は、UBIに関する研究を支援したり、自分の資産で実証や実験をし始めたりしている。社会秩序を保ちながら、自分の支配的な地位を維持できる未来を実現するためだ。

UBIの小規模な実証実験は、地域や組織において過去に何度も行われている。なかには労働を伴わない収入があっても、個人の勤労意欲は失われないという結果が出た事例もある。UBIを受け取ることになった人々は望まない仕事は辞めたが、よりよい職を探したり、学業を再開したりすることを選んだという。

Yコンビネーターの社長であるサム・アルトマンも、UBIの実験を進めている。「Basic Income Project」という少しばかり退屈な名前のこのプログラムでは、全米の2州からランダムに選んだ3,000人に対して実施される予定だ。

選ばれた人のうち、1,000人には月額1,000ドル(約11万円)、2,000人には50ドル(約5,617円)だけ支給される。後者はコントロールグループと呼ばれ、結果を検証する際の比較対象となる。

5年にわたるこの実験では、無条件で金をもらえる場合に人間がどのような行動を取るのかが明らかになるだろう。つまり、UBIを考える上でのひとつの科学的根拠が与えられるわけだ。UBIに関しては、エヴィデンスが絶対的に不足している。

結果はどうなるだろう。被験者は実際によりよい仕事に就こうとするのか。新しいことを学ぶための挑戦を始めるのか。子どもであれば学ぶ機会が増え、脳の発達が促進されるのか。犯罪率は低下するのか。こうした数々の疑問に何らかの答えが出るかもしれない。

ほかの大きな支持を集める理論と同じで、実際にどう運用していくかで現実のUBIの明暗が分かれる可能性がある。17年1月より開始し、大きな注目を集めているフィンランドの実験的なプログラムを例に考えてみよう。

フィンランドの社会保険庁事務所(KELA)と研究者チームが「就労の有無にかかわらず、国民に月額550〜700ユーロ(約7万2,500〜9万2,000円)を一律で支給してはどうか」と提案したのがきっかけとなり、スタートした。

フィンランド政府は、失業保険を支給されている非就労者のみを対象とし、この提案を受け入れた。保守政権はUBIがよりよい職の選択や新しい分野への挑戦につながるかには興味がなかったようだ。

彼らは「実験プログラムの重要な目的は雇用の促進にある」とはっきりと主張している。こうして労働を再び有意義なものとし、リベラルな価値観を推奨するアイデアは、つまらない仕事でもとにかく就業を促すための保守的なプログラムに変わってしまった。

これは、UBIを実施するには政治が大きな影響を及ぼす可能性があるという、大きな警告といえる。フィンランドの実験が終了するのは19年末だ。最終的な結果が出るまでにはまだ時間がある。

クリス・ヒューズの主張

Facebookの共同創業者のひとりで、そこそこの金持ちとなったクリス・ヒューズは、少し違った見解を示している。彼の案は、シリコンヴァレーのテクノロジーによる薔薇色の世界という未来予想と、東海岸のリベラル派の考え方のちょうど中間といえるだろう。

詳細はヒューズの新著『Fair Shot: Rethinking Inequality and How We Earn(フェアショット:不平等を再考し、いかに獲得するか)』に書かれているが、簡単に説明すると以下のようになる。

まず、UBIはいますぐにでも始められる。具体的には、給付つき勤労所得税額控除(EITC)を通じて中低所得の納税者に月額500ドル(約5万6,000円)を支給することにより、「米国の全国民に経済的安定」を与えられるという。この際には、児童手当、高齢者向け福祉、教育手当などもEITCの対象に含める(現行のシステムでは、給与所得を伴わない場合はEITCの対象にならない)。

ヒューズは、この方法で「アメリカの貧困を半分に減らせる」と主張する。EITCには現在、年間700億ドル(約7兆8,700億円)かかっている。だが彼のやり方を採用すると、費用は2,900億ドル(約32兆6,000億円)に拡大してしまう。

ヒューズはフランスの経済学者エマニュエル・サエズとガブリエル・ズックマンの「アメリカの富の90パーセントは人口の1パーセント以下の超富裕層に集中している」という研究を引き合いに出し、この上位1パーセントへの所得増税を訴える。

具体的には、年間所得が25万ドル(約2,810万円)を超える層への所得税率を現行の35パーセントから50パーセントに引き上げるというのだ。投資収益も一般所得と同様に扱い、長期的に保有する株式の売却益への課税率は高所得者層に対し、20パーセントから50パーセントに引き上げられる。

ヒューズは実際に私財を投じて、自らの理論を証明しようとしている。カリフォルニア州ストックトンで行われる実証実験に「必要な資金を提供する」と決意したのだ。

UBIは米国を救うのか

UBIは米国を救うだろうか? 議会では富裕層を対象とした減税法案が通過したし、大統領もこれに署名した。それでも、わたしはヒューズの提案はある程度は合理的だと思う。実際にEITCは評判のいい制度だ。

懸案材料は現在の政治情勢と、わたしたちがものごとを冷静かつ論理的に話し合う能力が大きく損なわれたままである、という点だろう。これに加えて、合理的なアイデアを法制化しようとするときには付きものの、さまざまな問題もある。

ひとまず、シリコンヴァレーの富裕層がついに「このままいくと将来的に自分たちのビジネスに負の影響が出るかもしれない」と気付き始めたのは、素晴らしいことだ。UBIをめぐる研究に注目が集まっているばかりか、私財を投じた実験プログラムも行われている。

いまの社会では証拠というものは軽視されがちだ。しかしこうした実験が、UBIを理解するうえで役立つ科学的なエヴィデンスを提供してくれるだろう。

わたしは楽観的すぎるだろうか? そんなことはないと思う。では、現状を打破するためにやれることはすべて試してみるべきだろうか。そして、UBIは見込みのある解決策だろうか?

答えはどちらも「イエス」だ。

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わたしたちが積み木やクッキーのオレオが積み重なっているのを見るとき、それがどの程度安定しているかを直観的に感じ取る。倒れそうなのか、そうだとしたらどの方向に崩れ落ちるのかといったことを予測できるのだ。ここでは物体の量や質感、大きさ、形、向きといった条件を加味した極めて複雑な計算が行われている。

マサチューセッツ工科大学(MIT)教授のジョシュア・テネンバウムが率いるチームは、脳にはいわば直観的な物理演算エンジンとでも呼ぶべき能力が備わっているという仮説を立てた。人間が五感を通じて収集する情報は不明確で大量のノイズを含んでいるが、わたしたちはそれでも、その先に何が起きるのかを推測することができる。それによって外に逃げたり、米袋が倒れないように慌てて抑えたり、耳を塞いだりするのだ。

この「ノイズのあるニュートン物理学」のシステムは確率的予測に基づいており、予測が外れることもある。下の写真にある、不安定な形に積み上げられた石について考えてみよう。

脳は過去の経験から、石がこのままの状態を保つのは無理だと考える。ただ一方で、石は実際にそうなっている(これはパソコンゲームの物理演算エンジンと似ている。「グランド・セフト・オート」シリーズのようなゲームでは、プレーヤーが仮想世界の物体にどう反応していくかがシミュレーションされる)。

常識的な判断のできる人工知能AI)はこれまで、この分野で最も難しい研究課題のひとつだった。つまり、現実世界の物事の働きやその関係を「理解」し、その目的や因果関係、意味をくみ取ることのできるAIである。

AIは長年にわたって驚くべき進化を遂げてきたが、実用化されているものの大半は統計的な機械学習を基にしている。ワークモデルを構築するには、例えば大量の画像といった学習データを必要とする。人間がそれぞれのデータに「猫」や「犬」といったラベル付けをしてやると、ニューラルネットワークはそれを参照し、特定の画像が何であるかを推測するようになる。うまくいけば、人間と同程度の正確さに達することが可能だ。

この統計モデルに完全に欠けているもののひとつが、データの中身の理解である。AIは写真に写っている犬が動物で、ときにはクルマを追いかけたりするということを知らない。そのため、この種のシステムで正確なモデルを構築するには、大量のデータが必要になる。システムは画像のなかで何が起きているのかを理解するのではなく、パターン認識に近いことをしているからだ。それは「学習」に対する総当たり的なアプローチで、高速なコンピューターと膨大な量のデータセットが手に入るようになったことで実現した。

現実世界との相互作用が意味すること

機械学習は子どもの学習の仕方とも大きく異なる。それを説明するために、テネンバウムがよく引き合いに出す動画がある。ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所の所長を務めるマイケル・トマセロと、フェリクス・ヴァルネケン、フランシス・チェンが共同で作成したもので、大人の男性と小さな男の子の意思疎通に関するものだ。

男性は扉の付いた戸棚の前に立ち、手に持っている数冊の本を扉に何回か当てる。そばでその様子を見ていた男の子が、男性はその本を戸棚にしまいたいのだと理解し、戸棚の扉を開けてくれる。男の子の仕草が何ともかわいらしいのだが、それはともかく、ここで示された目の前で起きていることを見て解決策を思いつくというのは、人間にしかできないことだ。

男性の行動を見ていた男の子は、その場の状況を本能的につかんでいる。戸棚には扉がある。蝶番が付いているから、取っ手を手前に引けば扉が開くはずだ。一方で、男性は本を何回も戸棚にぶつけている。男の子は目の前にある物体や、そこで起こっていることを観察するだけでなく、男性の意図は何かを考える。「彼は何かをやりたいけれど、うまくいかないのだろう」と推測するのだ。

男の子が扉を開けるという行動に出るには、「人間が何かをしているときには計画や意図があり、それを達成するために他者による助けを必要とすることがある」ということを理解していなければならない。人間の子どもには複雑な概念を学習し、その概念を現実の世界に当てはめる能力が生まれつき備わっているのだ。子どもは誰に指図されることもなく、この能力を自然に発揮する。

わたし自身にも小さな娘がいるが、彼女も現実世界との相互作用を通じて学習していく。まるで脳の内部にあるさまざまな演算装置やシミュレーターといったものをトレーニングをしているかのようだが、そのひとつが(テネンバウムの言葉を借りれば)物理演算エンジンなのだろう。

このシステムは、積み木で遊んだりコップをひっくり返したり、椅子から落ちたりすることで、重力や摩擦の法則などのニュートン力学が、わたしたちの生活にどのように現れるかを理解する。そして、自分はこの世界で物理的には何ができるのかについて、基本的なパラメーターを身につけていくのだ。

子どもはこれに加えて、生まれたばかりのときから社会的エンジンとでもいうべき能力を示す。他者の顔を認識し、視線を追い、現実世界における社会的対象の考え方や振る舞い、そしてそれらが互いにどう作用していくのかを把握しようとする。

専門家が直観の役割を過小評価する理由

ワシントン大学教授のパトリシア・クールは、幼児の言語習得をめぐり「ソーシャル・ゲーティング」という仮説を立てた。人間の言語能力は、乳幼児期に周囲の世界とのやりとりを通じて養われる社会的理解力の発達と結び付いている、というのだ。また、ハーヴァード大学の認知心理学者エリザベス・スペルキは、乳幼児がどのようにして、生後10カ月といった早い時期から他者の目的を推測する「直観的心理学」を構築していくのか研究している。

ノーベル経済学賞の受賞者で行動経済学の大家ダニエル・カーネマンは著書『ファスト&スロー』のなかで、人間の脳の直感的な部分は数学や統計といったことはあまり得意ではないと書いている。カーネマンは以下のような例を用いて、このことを説明する。

野球のバットとボールがセットで1.1ドルで売られている。バットはボールより1ドル高い。さて、ボールはいくらだろう。多くの人が直観的に、10セントだと思うのではないだろうか。それは間違っている。ボールが10セントでバットはボールより1ドル高いなら、バットは1.1ドルだから、両方合わせれば価格は1.2ドルになる。正しい答えは、ボールが5セントでバットが1.05ドル。これなら合計は1.1ドルだ。

ここから明らかなように、直感は数字に関しては騙されやすい性質がある。自然界にある積み重なった石が、わたしたちの脳の物理演算エンジンを混乱させるのと同じだ。

学者や経済の専門家たちは、科学や学術研究における直観の役割を過小評価する理由として、バットとボールの例を持ち出してくる。しかし、これは大きな間違いだ。直感は物理的および社会的状況を素早く判断するのに使われるが、このとき脳は説明が不可能なほどに複雑な演算処理を行っている。こうした計算を数学的に書き出して実行することはできない。

例えばスキーが上手な人でも、滑っているときに自分が具体的に何をしているのか説明するのは難しいし、入門書を読んだだけでスキーができるようにはならない。脳と体は一緒になって動き、同調し、非常に複雑な方法で何かを学ぶ。成功すれば、直線的な思考を介さなくても、一連の動きが流れるようにできるようになる。

人間の脳は乳幼児期にとてつもない変化を遂げる。赤ん坊の脳では成人の2倍の数のシナプスが形成されている。そして脳が成熟するに従って神経同士のつながりは整理され、知覚の対象となる複雑なシステムの直観的理解力が養われる。階段、母親、父親、友達、クルマ、雪山といったものがわかるようになるのだ。

さらに成長すれば、波の細かな違いを見分けて大海原を航海できるようになるかもしれない。さまざまな種類の雪を研究する者もいるだろう。一方で、脳が重要でないとみなしたシナプスは淘汰されていく。

自然の声を聞けるシャーマンは「原始的」なのか

言葉を用いて何かを説明し、議論し、互いに理解する能力は非常に重要だ。ただ一方で、言語は単純化された表現手段であり、受け手によって違った意味合いをもつ場合があるということも理解しておく必要がある。わたしたちが知っていることや考えていることの多くは、言語化できない。何かを言葉で表すとき、それは実際の考えや理解の概要でしかないのだ。

どうやって滑っているのか説明できないスキー選手を否定するのが愚かであるのと同様に、事物のバランスが崩れているという自然の声を聞くことのできるシャーマンの直観をないがしろにすべきではない。先住民たちの鋭敏な感覚や彼らの自然との結び付きを「原始的」と見なす価値観の背後には、彼らはこういったものを言葉で説明できないし、わたしたちはそれを理解できないという現実がある。ただ実際のところは、彼らがもっているような自然を知覚する直観が、わたしたちには備わっていないだけかもしれないのだ。

わたしたちの脳は、自然の声を理解する神経細胞を退化させてしまったのかもしれない。そういったものは都市での生活には必要ないからだ。わたしたちは人生のほとんどを読書やコンピューターのスクリーンを見つめることに費やし、個室で座って世界を理解するための教育を受ける。

その結果として、世界を数学的あるいは経済的に説明する能力は身につくだろう。だとしても、その能力によって世界を正確に把握していると断言できるだろうか。わたしたちの脳は生態系のようなものについて、幼い頃から大自然に囲まれて育った脳、つまり自然を直感的に理解できる脳よりも、よくわかっているのだろうか。

機械が「直観モデル」を学習できる日

思い切って謙虚になってみてはどうだろう。わたしたちが「無知」とみなしている人たちの非直線的かつ直感的な思考を取り入れる努力をすれば、物事の仕組みを知り、解決は不可能と考えられている問題に対処するうえで、大きな進展があるかもしれない。彼らは教科書からではなく、実践し観察することで学習してきたのだ。

これは多様性をめぐる議論でもある。還元主義である数学や経済モデルは工学的観点からは便利だが、複雑適応系(CAS)をこうしたモデルで記述するには限界があることは覚えておくべきだ。そこには直感の入り込む余地がなく、人間の経験において感覚的なものが果たす役割を軽視してしまう危険がある。

テネンバウムと彼のチームが直観モデルを学習できる機械の開発に成功したら、いまは説明できないもの、もしくは複雑すぎて既存の理論やツールでは理解できないものについて、何らかの答えを出すことが可能になるかもしれない。機械学習やAIの説明可能性や、また先住民たちが自然とどのように関わっているかの研究において、わたしたちは「説明できること」の特異点に達するだろう。

それを超えたところに科学の未来がある。わたしたちはこれまでの世界認識を超越する何かを発見し、先へと進んで行くのだ。

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Translation by Chihiro OKA

音楽やアート作品を「eCash」というデジタル通貨で購入できるようにするために、1990年代にデジキャッシュ[日本語版記事]のサーヴァーを立てたことがある。それ以来ずっと、暗号通貨(暗号システムを使って発行や取引を行い、中央銀行から独立して運営されるデジタル通貨)が世界を変える日を待ちわびてきた。暗号通貨はここまで発展したわけだが、わたしが思い描いていたものとは少し違っている。

それゆえに昨年からは、泡のように頼りない暗号通貨の世界における最新トレンドについて、称賛ではなく危機感を表明してきた。ICO、すなわちイニシャル・コイン・オファリング[日本語版記事]のことだ。

元々のアイデアは、かなりよかったと思う。ブロックチェーン技術を使えば、暗号化により安全性を確保した新しい「トークン」(または「コイン」)を発行し、しかもピアツーピア(P2P)で容易に送金できるようになる。さらに、この通貨を販売することで、利便性が高くても従来のシステムでは資金を得ることが難しかったオープンソースのソフトウェアやサーヴィスなどが、資金を調達することもできる。

株式のようにも機能するため、スタートアップは仲介人に手数料や煩雑な手続きの時間をとられることなく、より幅広い出資者から効率的に資金を集められる。さらにこの“コイン”は、例えば1GB相当のストレージや特定のネットワークへのアクセス権など、何らかの効用の単位にもなる。

無責任な利用と、追いつかない法規制

わたしが最近のICOについて懸念しているのは、それが暗号通貨を取り囲むゴールドラッシュ的な空気にあおられたものであり、無責任な手法で実施されたことで個人に害を及ぼし、開発者と組織のエコシステムを損なっている点である。いまはまだ、法的にも技術的にも、規範的にも管理体制が確立できていない。そんな状況を利用する人間がたくさんいる。

すなわち、ICOと暗号通貨の関係は、トランプ大統領とアメリカの民主主義との関係に似ている。どちらも創設者が思い描いた姿からは、かけ離れているのだ。

こんなふうになるべきではなかった。

ICOを、暗号化された署名や規則、プログラムなどの属性からなる、ある種の電子証明を作成する手段だと考えてみてほしい。小切手や株券、手形、さらにはハンバーガーのギフトカードや石油1バレルの引換券といったもののデジタル版を発行できるのだ。これらは何らかの有価証券や商品と同じ価値をもち、さらにはシンプルな金融取引と同等であるとさえみなせる。

従来の形式では、それぞれに異なるリスクがあり、異なる規制機関の統制下にあった。証券取引委員会(SEC)や合衆国財務省などの機関は、金融リスクを軽減し、金融犯罪を抑止する責務をもつ。言い換えれば、既存のシステムの規則と規制(わたしたちに干渉してくるもの)は、投資家や顧客、ひいては社会を守るためにある。

しかし、現行の規制はICOという新たな手法に対応できていない。無知な投資家は価値が不明なトークンを購入し、その裏では発行者が潤っていく。

SECは昨年7月25日、特定の暗号通貨を有価証券とみなせると判断した場合、有価証券として同じ規制を適用することを明らかにした。これに続き、投資家を騙し証券取引法のグレーゾーンを悪用するICOの摘発を視野に入れ、タスクフォースも設置した。

投機筋を引き付けるシステム

しかし、最近のICOを通じて発行されたトークンの多くは株式ではない。むしろ何らかの製品やサーヴィス、資産を「トークン化」したもの、もしくは調達した資金を研究開発やインフラに投資するという「約束」だ。発行者は、投資家が購入するものが株式ではなく「商品」であることを明確にするため、トークンの販売を「資金調達」ではなく「クラウドセール」と呼ぶ。こうして意図的であるかどうかは別として、規制の網の目をくぐり抜けているのだ。

例えば、スイスのある求人プラットフォームは「Global Jobcoin」と呼ぶトークンのクラウドセールを実施した。購入者はこのトークンを使って、雇用サーヴィスの提供を受けることができる。一方、罪を赦し堕落と闘うことを誓う“教会”と称した「Jesus Coin」なるトークンを販売する輩(どこの誰かはまったく分からないが)もいる。

すべてのICOが怪しげなものだと言っているわけではない。例えば「Filecoin」のように、合法的な使い方をしているものもある。これはトークンの所有者になるとオンラインのストレージにアクセスできるもので、ホスティングすれば報酬を受け取れるという仕組みだ。

問題なのは、たいていのトークンは取引所で売買されているため、投資家はこれを取引所を通じて流通する商品または通貨とみなす点だ。ほとんどのトークンは現実世界の何かに「固定(ペッグ)」されておらず、レートは変動する。多くは価値が上昇しているため、雇用サーヴィスや罪の赦しといったことには関心のない投機筋を引き付ける。

そして彼らはトークンの原資産などには注意を払わず、「大馬鹿理論(Greater Fool Theory)」に従って金を張る。つまり、自分より愚かな誰かがトークンにさらなる高値をつけるだろうと考えるのだ。悪くない賭けに見えるだろう。しかし、その理論が成立すればの話だ。

許認可を受けた出資者だけにトークンを販売するよう企業に求めても、問題の解決にはならない。彼らがあとから投機筋や、下手をすれば「仮想通貨で儲けるには」といったオンライン広告を見ただけの人に売却するからだ。そしてウォール街では蓋が開いたら最後、どんちゃん騒ぎが止むことはない。

始まったばかりの規制当局による介入には、これまで以上に高度な知識と技術が求められる。そうしている間にも、ビットコイン(もしかしたらJesus Coin)の価格急騰というニュースを目にして、今後も続く無数のICOのどれかに参加する機会をうかがっている人が長い列をつくっているのだ。

価値が乱高下する不合理な市場

また、こうしたヴォラティリティ(変動性)は、新たにトークンを発行しようとするスタートアップにとっては重荷になる。というのも、基盤となるビジネスの運営に加えて、中央銀行に似たシステムや投資家向け広報活動といった機能も必要になるからだ。仮にスタートアップが失敗しても、投資家は投げ売りや清算によって何がしかの利益は回収できるだろう。単にトークンを買っただけの人は、通貨の廃止が決まって紙くずになったジンバブエ・ドルの所有者のようなことになってしまう。

だが、ヴォラティリティのないものは投機筋の興味をほとんど引かないし、設計するのも極めて簡単である。まず、トークンを何かと連動させて価値を決める。1ドルや、ハンバーガーの価格でもいい。こうすればトークンの「価値」の変動は、連動する資産の範囲内に収まる。価値が定まれば(もしくはハンバーガーしか食べないのであれば)、変動幅やヴォラティリティは、はるかに小さくなる。

手っ取り早い大儲けを狙う人々にしてみれば、ペッグ制によって価値上昇の可能性が排除されることになる。このため市場にとどまるのは、大半がトークンを実際に使ってサーヴィスを利用する人だけになるだろう。

もちろん原資産と価値が連動するシステムを採用しても、現在の不合理な市場では価値が乱高下する可能性はある。それに、もしトークンの発行者が原資産を所有していなかったり、その資産を生み出す能力がなかったりする場合には、トークンの所有者は無価値な代替品を抱える危険にさらされる可能性がある。

最近の例を挙げると、米ドルとの交換レートが固定されている暗号通貨「Tether(テザー)」に関して、トークンをすべてドルに換金できるだけの資産が確保されていないとの疑惑が生じている。もし発行量に相当するだけのドルを保有していないなら、何の保障もない銀行が金庫が空の状態で独自のドル紙幣を刷っているようなものだ。人々はドルの代替としてTetherを取引所で購入しており、何らかの問題が明らかになればビットコイン価格の急落を誘発するだけでなく、暗号通貨の市場全体に重大な損害を与える可能性がある。

どちらかといえば生産性の高い多くの開発者たちが、その専門能力とやる気とを、金儲けのための浅はかなICOにつぎ込んでいる。こうした世界に関わらなければ、学術的かつよりオープンな議論が展開される環境で、基盤となるインフラやプロトコルの開発に携わっていたことだろう。

ドットコムバブル、そして不動産バブルとの類似性

こうした現状は、90年代後半のドットコムバブルを思い起こさせる。いまはなきPets.comがスーパーボウルの広告枠を購入し、派手な宣伝のために投資家の金を浪費していたのだ。

ICOの基盤となるブロックチェーンやそのほかのテクノロジーを利用したいという、ヴェンチャーキャピタルの思惑は理解できる。そしてスタートアップが事業資金として、このほとんど「無償で手に入る金」を手に入れたいと思うのも当然だろう。

しかしわたしは、このような故意による搾取の構造には、倫理面での問題があると感じる。わたしも起業家や投資家、開発者と対峙した経験があるが、それは突進してくるバッファローの大群の前に立とうとするようなものだった。

ICOを巡る熱狂は間違いなく、この種の金融バブルと似たような末路をたどるだろう。しかし、それまでに痛手を被る人々がいて、ものごとは痛みを伴いながらも正しい方向に向かうはずだ。それによって期待できることがある。ドットコムバブル崩壊後に夜明けがやってきたときのように、心ある開発者や投資家が、ブロックチェーンと仮想通貨の未来のための強固なネットワークと組織づくりを続けてくれるだろう。

わたしの友人のビル・シェーンフェルドは、日本の不動産バブルがはじけたとき、ほかの少数の投資家とともにひと儲けした。日本のバブルはあまりに急速に進行したため、ある時点で土地の値段など誰も考えなくなっていたが、ビルは不動産の本来の評価額を調べていたのだ。

バブルが崩壊し、土地が恐ろしい勢いで急落したとき、彼は合理的な価格で多くの不動産を購入した。バブルにおいてものの値段は、非合理的に上昇も下落もする。おそらく現時点でやっておくべきは、それぞれのトークンの正しい価値を評価し、バブルが崩壊したときに本当に価値のあるものを購入する準備をしておくことだろう。

未来科学者のロイ・アマラが提唱した「アマラの法則」に、「われわれはテクノロジーの影響を短期的には過大評価し、長期的には過小評価する傾向がある」という言葉がある。インターネットの世界で最も成功した一連の巨大企業は、最初のバブルのあとにプロトコルやテクノロジーが成熟してから設立された。わたしはいま、鼻をつまんで目を細め、未来に思いを馳せている。そして、ICOの暴走が巻き起こしている砂嵐の向こう側にある山々に向かって、駆け出しているのだ。

利益相反に関するコメント:2015年にMITメディアラボに「デジタル通貨イニシアチヴ」を新設した際、ビットコインやブロックチェーン関連の企業の株式はすべて手放した。またそれ以来、暗号通貨を主要な事業とする企業には一切の投資をしていないし、いかなる仮想通貨も保有していない。いま携わっている仕事の現在の段階では、利益相反には特に厳格であることが重要だと考えている。わたしのウェブサイトで、利益相反について詳細な情報を公開している。

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