この記事は以前発表したものの別バージョン。以前のバージョンは WIRED Ideas: The Educational Tyranny of the Neurotypicals on September 6, 2018.

固い学び方は僕には合わなかった。幼稚園では逃げてばかりで退園になったし、大学を2回も中退しただけでなく、経営学の博士課程も辞めた経歴は頼りないことは否めない。診断を受けたことはないけど、自分は何らかの"非定型発達"だと思うようになった。

"定型発達"はオーティズム社会が使っている言葉で、一般社会が"普通"と呼ぶ状態を指す。疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention、略してCDC)によると、小児の59人にひとり、そして男児の34人にひとりがオーティズム(自閉スペクトラム症)、つまり非定型発達だ。男性人口の3%にあたる。注意欠如・多動症(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder、略してADHD)と識字障害も含めると、全人口の4人にひとりが"定型発達"しないことになる。

オーティズムを含めた非定型発達の歴史はNeuroTribesに掲載されている(Steve Silberman(スティーブ・シルバーマン)著)。オーティズムは、ウィーン出身の医師ハンス・アスペルガーと、ボルチモアを拠点としたレオ・カナーが1930年代と1940年代に提唱した状態。施設に入れられた小児を安楽死させていたナチス占領下のウィーンで、アスペルガーは人付き合いがぎこちない子供たちにみられる様々な違いを包括する範囲を定義した。中には並外れた能力を持ち、Silbermanの言い方を借りれば「規則と法律、そしてスケジュール(日程、時刻表、予定表、時間割など)に強い魅力を持つ」子供もいた。一方、カナーはより重い障害のある子供に関する記録を書き残した。この状態は親の躾が悪いことに起因すると仮定したカナーの提言により、オーティズムの子を授かった親はこの状態を恥すべきことと考えるようになり、オーティズムを"なおす"ことを目指した活動が何十年も続いた。なおすのではなく、家族や教育制度、そして社会がオーティズムに適合できる方法を作っていく。そういうやり方もあるのに。

脳に多様性のある生徒の役に立てなかった制度といえば、まず学校。その理由として、教育制度の組み立て方が、産業革命から生まれた大量生産型の、頭脳労働と肉体労働に分けられた環境における典型的な仕事をするために子供たちを育てる、という考えに基づいていることが挙げられる。生徒たちは標準的な能力と、従順さ、理路整然な様、そして信頼性を身に着けた。これはかつての社会にとって有益だったけど、今はそれほどでもない。何らかの非定型発達と診断される人口の4分の1に加えて、その他大勢の人も現代教育の構造と方法に悪戦苦闘してると思う。

教育は他人から受けるもので学習は自分からやるものだと普段から言ってるけど、広い意味での"教育"は時代遅れだと思うし、学習をもっと力強いものにするには全く新しいやり方が必要。"教育"という概念を改良し、僕たちが規模とモノの大量生産を重視していた過去の社会で使われてた直線的で秩序だった指標を振り払わないといけない。脳の多様性を受け止めて尊重することは、インターネットとAIが推し進めている変革を生き残るための鍵であり、この変革は過去の予測可能なNewton(ニュートン)的な世界を打ち砕き、複雑さと不確実性を特徴とするHeisenberg(ハイゼンベルク)的な世界に置き換えている。

Life, Animated(ライフ・アニメイテッド、邦題『ディズニー・セラピー 自閉症のわが子が教えてくれたこと』)でRon Suskind(ロン・サスキンド)は3歳になる頃に喋れなくなった息子のOwen(オーウェン)のことを紹介している。話せなくなる前はディズニーのアニメーション映画が大好きだったOwen。沈黙してから数年経った時、何十ものディズニーの名作を最初から最後まで記憶していたことが明らかになった。時間が経つにつれ、大好きなキャラクターを演じ、その声を真似することで家族と意思疎通できるようになり、タイトルバックを見て練習し、読めるようにもなった。最近、Owenは家族と共にSidekicks(サイドキックス、仲間とか助手とかを意味する)という新しいタイプの画面共有アプリを作り、他の家族が同じ方法を試せるようにした。

Owenのことから分かるのは、オーティズムが様々な形で存在することと、介護を提供する人が子供を"普通"な状態になおすのではなく、介護者の適合さえあれば、オーティズムのある大勢の子供たちが生き生きし続けることが可能だということ。しかし、僕たちの教育機関は、この子供たちに教育を与えることができる適応的プログラムを個別に提供するように設計されていない。

非定型発達に役立つ設計がされていない学校に加えて、僕たちの社会は昔から、人付き合いが下手な人や"普通"じゃないと思われてる人に対して寛容や思いやりがほんの少ししかなかった。動物福祉を推奨するTemple Grandin(テンプル・グランディン)は、Albert Einstein(アルバート・アインシュタイン)、Wolfgang Mozart(ヴォルフガング・モーツァルト)、Nikola Tesla(ニコラ・テスラ)が今生きていれば「自閉症スペクトラム」と診断されると主張する。彼女はオーティズムが昔から人類の躍進に貢献してきたと主張し、「オーティズムの特徴がなければ、私たちはまだ石器時代を抜け出せていなかったかもしれない」と言う。彼女はニューロダイバーシティ(脳の多様性)運動の著名な代弁者だ。この運動は、性別、民族、性的指向の多様性と同じように、神経学的な違いも尊重されるべきだと主張している。

オーティズムのある人(アスペルガー症候群も含まれる)は、定型発達した人にとって簡単なことができなかったり難しく感じたりする場合もあるけど、並外れた能力を持ってることもしばしば。例えば、イスラエル参謀本部諜報局で航空写真と衛星画像の分析を担当する9900部隊では、模様を視認する能力がズバ抜けているオーティズム・スペクトラムの人もスタッフとして加わっている。シリコンバレーの驚異的な成功は、その文化が、社会全体と東海岸の機関のほとんどを支配している、年齢に基づく経験と、適合性を重んじる従来の社会的および企業的価値感をあまり重視しない文化なのが要因だと思う。オタクっぽくてぎこちない若者を歓迎し、彼らの超人的で"異常な"能力を使って金儲け装置を作ることに成功し、世界の羨望の的となっている。(この新しい文化は、ニューロダイバーシティについては素晴らしく包括的だけど、性別や人種の観点から言うと、白人の兄ちゃんたちばかりが中心となってる文化なのが問題。)

前述の模様の視認をはじめとしたオーティズムの様々な珍しい特性は、科学や工学に凄く良く適してて、プログラミングを行うことや複雑な概念を理解すること、数学の難しい問題を綺麗に解くことを超人的に行うことを可能にし、そういったことをオーティズムの学生たちは頻繁に実行してる。

残念ながら、ほとんどの学校は非定型学習者を組み入れる際に困難に直面する。いま判明してる脳の多様性は昔に比べて種類が増えていて、それらには、関心主導型学習やプロジェクト型学習、そして無教師学習のほうが適してそうなことがますます明らかになってきてるのに。

Macomber Center for Self Directed Learning(メイコンバー自主学習センター)を運営するBen Draper(ベン・ドレイパー)は同センターについて、「子供なら誰でも受け入れられる」とし、オーティズム・スペクトラムだと親に分かってもらった子は、一般的な学校でうまくいかなくても、この施設ではよく活躍すると言う。Benはいわゆる脱学校運動に加わってて、この運動の信義は、学習は自主的に行うものであり、そもそも学習を導くべきではない、というもの。子供たちは情熱を感じるコトを追求する過程で学習するわけだから、大人たちはその邪魔さえしなければよくて、必要な時に子供を支えてあげればいい、という考え方。

もちろん、そんなのは形が無さ過ぎて無責任なやり方になりそう、と反論する人は大勢いる。でも、振り返ってみると、僕は"脱学校"な育ち方をしてたら、のびのびと成功してたと確信してる。Benと、僕の同僚で脱学校のことを紹介してくれたAndre Uhl(アンドレ・ウール)は、最近の論文でこのやり方は、使い方次第で誰でも成功できるし、現行の教育制度は粗末な学習成果を出しているだけでなく、子供の、個人としての権利を侵害していると主張した。

MITは、インターネット前の時代から、並外れた能力を持つ非定型発達の学生が集まってコミュニティと文化を形成する場を提供した数少ない機関の1つ。そんなMITでさえ、この学生たちが必要としてる多様性と柔軟性を与えるために、今も改善を試みてる。僕たちの学部課程では特にそうだ。

診断を受けたらどういう結果になるか分からないけど、僕は従来の教育を受けることに完全に失敗した。学ぶのは大好きだけど、僕の学び方は会話しながら、そしてプロジェクトに取り組みながら、が主体。いろんなものをつなぎ合わせながら、何とか世界観と生活を手に入れることができた。苦しみながらだったけど、いろんな恩恵もあった。僕なりの世界論とそれに至った経緯について、最近博士論文を書いた。僕の経験を何かしらの傾向として見てほしくない。論文を読んで、僕があまりにも特異な人物なので"人間の亜種"と見なされるべきだと言った人がいる。褒め言葉だと受け止めてるけど、僕みたいに幸運に恵まれてるわけでもなく、従来の教育制度を体験し、本来は生き生きとして当たり前なのに、喜びよりも苦労の方が多い人もいると思う。実際、ほとんどの子供たちは僕ほど幸運に恵まれてるわけではない。現在の社会の在り方の中で成功するのに適しているタイプの人もいるけど、現行の制度で成功しない子供たちのうち、凄く高い割合の子供たちが、とてつもない貢献をする潜在能力があるのに、僕たちはそれを活用できてない。

産業時代の学校は、子供たちに基本的な識字能力と社会生活をする能力を身に着けさせて、工場で働くか、繰り返すだけの頭脳労働の仕事をするか、どっちかをできるようにすることが主な目的だった。子供たちを(頭のいい)ロボット的な人、さらに言えば、標準的な試験に出てくる問題を一人で、そしてスマートフォンやインターネットを使わずに、鉛筆だけで解ける人に育て上げよう、というのは、以前なら当然だったかもしれない。非定型発達の人たちを篩い落としたり、薬物療法や施設への入所によって矯正することは、人類の産業的競走力の観点から見て大事なことに思えたのかもしれない。また、指導用の器具は当時の技術で作れるものしかなかったわけで。前述の諸作業がどんどん実世界のロボットによって行われるようになってる今、僕たちがしなきゃいけないのは、脳の多様性を受け入れ、情熱、遊び、そしてプロジェクトによる共学習をするんだよ、と子供たちに言って励ますことなのかもしれない。つまり、機械にはできない方法で学習することを子供たちに教え始めなければいけないのかもしれない。また、現代のテクノロジーのおかげで僕たちはつながりの学習ができる。この学習は、いろんな興味の対象や能力の発展に役立っているし、僕たちの生活や、いろんな関心事から生まれるそれぞれの小社会の一部となっている。

メディアラボにはLifelong Kindergarten(ライフロング・キンダーガーデン、生涯幼稚園)という研究グループがあり、グループの責任者Mitchel Resnick(ミッチェル・レズニック)は最近、同じ題名の本を書いた。この本は、クリエイティブな学習と4P(情熱、仲間、プロジェクト、遊び)(passion、peers、project、play)に関する研究について書かれている。この研究を行ってるグループは、情熱を感じるコトを追求し、遊び心のあるアプローチで、プロジェクトベースの環境で仲間と協力しているときこそが、学習が最もうまくいく時だと信じてる。その通りだと思う。僕が学校に通ってた頃の記憶といえば「カンニングをしない」、「宿題は自分でやる」、「大事なのは教科書で、趣味やプロジェクトは二の次」、「休み時間になれば遊べるんだから、真剣に勉強しなさい。そうしないのは恥」といったこと。4Pの真逆だ。

精神衛生上の問題の多くは、脳の多様性のうちのいくつかを"修正"する試み、または単に当人に対して無神経あるいは不適切な言動があったことが原因だと僕は信じてる。精神的な"疾患"の多くは、4Pに重点を置き、学習、生活、そして人とのやりとりをするための適切な窓口を当人に提供することによって"癒す"ことができる。教育制度に関しては、まずは教育を受ける側、そして今ではその一員として体験してきたけれど、僕の体験はそれほど珍しくない。何らかの非定型発達だと診断された人々(少なくとも人口の4分の1)は、現代の教育の構造と方法に悪戦苦闘してると思う。脳の働きが一般的じゃない人は、自分のことを例外ではなく、ひとりの人間、それ以上でもそれ以下でもない、と考えて生きていけるようになるべき。

Credits

訳:永田 医