今週は、前週に引き続き、霊長類学者で総合地球環境学研究所の所長山極壽一先生と、惑星科学者で千葉工業大学の学長の松井孝典先生のお二人との鼎談をお届けしました。
この鼎談はいくつかトピックを立て、そのテーマに沿って議論を展開いただいたもの。シンギュラリティ、ダイバーシティー、教育、コモンズなどさまざまなトピックを議論いただいたのですが、今回は「シンギュラリティ」と「教育」についてお届けしています。
山極先生は京都大学の総長を6年間務め、松井先生も現在、千葉工大の学長を務めています。Joiさんも日米で研究所を運営していました。それぞれ、大学の運営に深く関わった経験から「教育」については並々ならぬ思いがあるようで議論は白熱していました。
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Podcast Transcript
山極寿一: 物理科学的にその脳の構造·機能を再現しようというのにはものすごいエネルギーがかかるんですよ。で、人の脳の一番重要な利点というのはほとんどエネルギーを使ってないですよね。もちろん他の身体の部分 と比べて数倍のコストをかけてますけども、その物理化学的なエネルギーを使って脳を再現するときに比べてすごく低コストなんですよね。だから進化したんだと思うんですけどね。だからAIだとか···
松井孝典: そこがポイントでね、要するにAIとかシンギュラリティっていう問題がこれから起こるかっていったら、それはエネルギーっていう意味で僕は起こらないと思ってるわけ。だって同じことをやろうと思ったら1万倍のエネルギーが例えば必要だとするでしょ、で、今より1万倍のエネルギーをどうやって生み出すんですか。だから今言ってるように人間のものすごい特徴は何かというと、情報処理をさ、ものすごい少ないエネルギーでできるわけですよ。人間が取り込んだエネルギーの20%から30%でやってるわけ。で、それはだけど他の動物に比べたらすごいよ、これは。で、これはもともとの歴史をたどればそれは狩猟を始めて、これは長距離総が人間ができるようになったことが原因でしょうけれど、肉食ができるようになって腸が短くなって脳が拡大するっていうようなことから始まっているんだけど、僕は最近興味があるのはだからさっき言ったように、脳の配線が変わる。それは言語と関係してるんですよ、たぶんね。言語、言語能力の獲得とこの脳の配線が変わるってのは関係しているんだけど、それを証明しようがないわけね。だけどそういうそななんということが可能になるためには、肉食だけで可能なのかってことなんですよ。実はさ、ヨウ素ね、ヨウ素とかDHA っていうのが脳の認知能力の上で欠かせないということなのがわかってるわけ。ってことはあるときから人類はさ、海藻だとか魚を食べ始めたはずなんですよ。それがその単に脳の容量が増えるっていうだけじゃなくて、脳の質的構造を変えているはずであって、だからそういうことまで含めて考えると、やっぱり食事の仕方とかさ、文化性というのはすごく面白い問題だと思うんだけど、やっぱり脳の中の質的転換ってものすごい重要なわけです。で、その時からやっぱり情報っていうかそれが決定的に意味を持つようになったんですよね。だから今情報っていう観点から生命をみんな見直そうと。それはDNAにしても何しても同じことだけど、新しい分野でものすごく発展していますよね。これは一つの方向性だと思いますね。
伊藤穰一: 確かに。で、多分僕も実は松井さんと多分似ていて、シリコンバレーで言ってるシンギュラリティは ないと思うんですよね。で、今までのやっぱりコンピューターのスピードだけ上げれば多分無限のエネルギーが必要になるので、そこでブロックされると思うんですけど…
松井孝典: いや、というかもうそもそも限界に達してるじゃん、発熱量ですよね。
山極寿一: ただね、そのAIの持っている魅力というのはね、そのAI同士がつながれるわけですよ。ひとつのAIの分析では情報量が限られているとしても、他のAIが持っている情報とその分析するメソッドというものをこうつなげて使えるというのがあって、人間の脳はつながらないんですよね。ただAIにつなぐと、つなぐことができるかもしれない。
伊藤穰一: 僕も、拡張ですよね。だから人間の脳をコンピューターを使って拡張して、人間の脳でしかできない、一番適用されてるものにはやって、でもインターネットを含めてこうつなぐところは通信とかは絶対。
松井孝典: だからそれをね、まさにこの前ね、今山極さんと一緒に フォーラム地球学の世紀っていうのをやってんだけど、そこでね、この前話して聞いたのはまさにそういうとこですよ。人間の脳とAIをどうつないで、我々さ、例えば4回転半なんてさ、ぱっと見たときわからないじゃない。で、あんなのAIが見りゃすぐでしょう。で、その中でそういう新たなこうのなんていうのか、認知能力をAIを通して人間が獲得することによって、人間の能力って無限に広がって可能性があるわけですよね。
山極寿一: 識別能力でもね、色彩·音声あるいは顔の表情の個性の違いとか、もうあらゆる細かいところを 認識できるから、人間というのは実は曖昧なものを許す能力を持ってるんですよ。僕はそっちの方が重要だと実は思ってるんだけどね。
松井孝典: まさにそうよ、曖昧さを人間は特徴にしてる。だって我々はさ、時間感覚だってせいぜい十、二十分の一以下ですよ。秒以下ね。だけど連続だと思ってるわけですよ。だからさあ、時間って分割可能かって議論が昔からあるわけよ。うだからその曖昧だっていうところが我々の最大の特徴で、その曖昧だから実はすごい想像力を持っていると思っているわけ。で、AIはそうじゃないからさ、逆に僕は創造性はないと思っているわけ。
伊藤穰一: 僕が一番興味を持ってるAIは、やっぱり脳のあいまいさですね。Probabilistic Computingといって、その曖昧の中で少ないデータで判断する脳のところを真似して、新しいもっとデータが少ない効率がいい人工知能ってのも生まれてきているので、そこと脳のこの接続でたぶん今までAIでできなかったようなこともだんだん見えてきていて、さっきおっしゃったそのやっぱりTheory of Mindっていう研究をRebecca Saxeという人がMITでやってるんですけども、やっぱりそのほかの人がどういうふうに考えているだろうっていうモデルを、今の子供が例えば物理のエンジン、よくPhysics Engineというんだけど、これなんか、お米のバッグがあって、倒れそうな気分になるとそれって曖昧じゃないですか。倒れそうっていう気持ちでモデルがあるんです。で、その世の中の物理学のルールが入ってるんじゃなくて、感覚的にパターンとして、これは ボール投げるとこうなるっていうのは、あれゲームエンジンみたいなものが走ってるんですね。それで実は彼女の仮説っていうのは人間の気持ちもそうだと。だから僕は二人の今どんな気持ちだろうかっていうのが物理学のエンジンと同じで、同じようなマインドのモデルがあって、そこの中でどういう気持ちだろうかっていうのもモデリングして、それも不確実だけども統計学的に 話をしながらアジャストしていくっていうのが、こうパターンなんじゃないかなっていうのを、それを今AIでやっています。
松井孝典: 今の問題っていうのは、ものすごく本質を突いてんんだけど、一方で物理学の問題としてあり一方でさ、 今言っている人間のAIとかシンギュラリティって問題ともつながってる。だから意識というのが今ね、ものすごい重要な問題なんだけど、これはなかなかやっかいだよね。私はだから、そんな何でもそうだけど、技術革新っていうのはさ、もともとはやっぱり自然をまねるわけだ。だけど誰もさ、鳥が飛んでいるっていうのをそのまま応用して飛行機飛ばしているわけじゃないでしょう。
山極寿一: うんうんと違いますよね。ただある意味でのモデルにはなっている。
松井孝典: ある意味でのモデルにはなってるけど、同じようにさ、AIをいくらさ、脳の、脳を解明してそれを応用しようと思っているのは僕はダメじゃないかと思ってるだよ。私個人は。やっぱり何かどこかでさ、それを超える何かを我々が生み出さない限りその本当の意味のシンギュラリティとかね、そんなことは起こらないんじゃないかと思っていて。
山極寿一: うんうんそれともう一つ言うと、その理解ということと正確さということと、それから予測ということ。これは人間の中ではミスマッチを起こしているんだけど、AIコンピューターではミスマッチは起こっちゃいけないんですよね。どうしてもそれは収斂していく。でも何て言うのかな、例えば我々100年後·200年後というのを予想しながら建築物を建てるとする。で、スペインのナントカ聖堂というのはそういうもんですよね。100年後ぐらいにって完成するなんて言ってるわけ でしょ。でも、そういうことをやるというのは確信を持ってやってるわけじゃないですよね。あの予想して夢として描きながら何かを作っている、共同作業をしている、あるいは今というあの時の価値をそこから逆算して判断してるわけですよねでもそれは正確でもなければ、何て言うんですかね、要するに 確信でもない。でもそれによって人間が動くんですよね。夢みたいなもんでね。だから騙されるし、で騙されなければ面白くないわけですよ。でもその今みたいに確実さというものが価値を持っていて、で、それに期待という将来予測が合致するような方向にどんどん誘導されていくと面白くなくなるんですよね。つまり社会の原点って、そのミスマッチじゃないかと思うんですよね。そうしないと社会は進んでいかない。だって価値観からすればそのもし予測が外れたら失敗になるわけだからね、失敗しないような予測というのを立てていかなくちゃね、それには情報をどんどん集めていかなくちゃいけないけど、情報をいくらたくさん集めたって確実な将来予測ができるわけではない。気候変動みたいなものですよ。複雑系だから。
松井孝典: そこすごく重要でね、今年ほら、眞鍋さんがノーベル物理学賞をもらったでしょう。だからシミュレーションって何なのかということなんですよ。で、今山極さん指摘したようにさ、確実だとか正確だとかなんとかなんて言ってたらシミュレーションできないわけ。実はシミュレーションってさ、曖昧さがあるからシミュレーションになっているわけ。
山極寿一: 前提条件がありますからね。
松井孝典: ある条件を与えたときにこうなる、なりそうだ、ということを言っているだけに過ぎなくて、確実にそうなるなんて話はないんだよね。そこは世の中的に間違っているわけ。 そこはね。で、僕はだから真鍋さんと私の先輩だしさ、地球物理でね、地球物理がノーベル賞を取ったのは非常にうれしいと思ってんんだけどさ、そのものすごいノーベル物理学賞の基準が変わったと思ってるわけ。 やっぱりシミュレーションっていうものを評価したんだよね。
山極寿一: そうですね。
松井孝典: それと今いっていうような気候変動、人類が抱えている問題の中でシミュレーションというのがやっぱり役に立つんだと。それを開拓したっていうところにノーベル物理学賞を与えたんだと思うんだけどさ、でもそれはまったく今山極さんが言ったように、確実だとか正確だとかさ、そういうものとは全く関係ないわけ。だけど世の中はみんなそこんとこなんです。数値計算ね、シミュレーションというと確実で正確だと思ってるわけ。 ここがね、非常に落とし穴だね。 だから気候変動·温暖化·地球温暖化予測っていうでしょ、予測なんて予測なんだから外れるんだよね。 伊藤穰一: 特に日本っていうのはその何か一つのシナリオが、でみんなで準備するという感じで、でやっぱりこうベイジアンの考え方だと、まずまずシナリオがまずいっぱいあると。で、情報が入るたびにそのシナリオの可能性っていうのは変わっているので、だから僕なんか常に5つぐらいのシナリオを心の準備をしながら新しい情報が入るたびに新しいシナリオを想像していくっていう、もう少しこう多様な、それにシミュレーションって重要で、やっぱりシナリオプランニングみたいな形で何か心と社会を準備しなきゃいけないような気がするんですけど、それって、文化的に合ってないっていうところもあるんじゃないですかね。
山極寿一: だからね、統合知ではなくて総合知なんですよ。あえて統合しない、統合知というのは一つのシナリオにしちゃうということでしょ、そうじゃなくていろんなシナリオがある、いろいろな分野で予測を立てればね、だから文化もそれぞれ混じり合って統合しないわけですよ。文化ってもともとそういう性質を持っているから、隣り合う文化同士は対立するんですよ。だけどそれが対立し合ってぶつかるからこそ新たな文化もそこで生まれるわけだし、それを統合しちゃったら何もならないわけです。でね、面白いことにね、その世界の歴史を見てみたらその巨大文明っていうのは決して統合していないんですよ。文明というのはそれぞれの文化をもちろん政治的には統合しますよ、しかし文化というものを何かひとつのものにまとめるということはしてこなかった。これは面白いところなんですよ。だから文化·文明っていうのは共存できるわけですよね。
ところが今その文明と呼ばれるものがなくなったわけですよ、つまりプラットフォーマー達が経済的にひとつの経済圏を作ってしまって、そこでいうならば文化も文明も無色化したわけですね。で、それがある意味人類を弱くしている可能性があるわけですよね。
伊藤穰一: でも学界もそうですよね。だから例えばさっきのシナリオで例えば宇宙人が来て何か攻撃してくる可能性ってすごい少ない、けれどもゼロではない。で、そういうのばっかり研究している奴が一人ぐらいいてもいいのに、そんなのじゃ全然国からお金もらえない、やっぱり本当だったらさっきのダイバーシティ、多様性にも繋がってくるんだけども、文化もそうだし学会も変なことを平気でこう育てていかないと、そういうアイデアって生まれてこないんだけどもどうしてもだんだんだんだんこう標準語もみんな統一していくのと同じで、何かアメリカの視点から今まで見てきたですけど日本ももっとそうなような気がするんですよね。何か、なんとなく標準化されていくので、そうすると一個のシナリオ、そうすると確実じゃないとダメでそれに何か変なことはあれは本当はあってはならなかった、みたいな。全然こう統計学的に意味がない 発言をよく聞くような気がするんですよね。
松井孝典: そりゃあさ、教育っていうものがそうなんだよ。教育ってやっぱり画一的にやるわけでしょう。だって国民を育てるという。だからそこがもう根本的に変わってきているわけだけど、教育っていうものに対する概念が変わっていないからね。
山極寿一: うん。だからあれなんですよ、ちょっと教育の話になったから 言うんだけど、初等·中等教育、初等教育は画一的な教育でいいはずなんです。っていうのは覚えなくちゃならないことはあるわけで、それを効率的に段階的に教えることが初等教育になるわけだから。でも、子供というのはどんどん個性的に育っていくわけで、大学に入ったらはその個性を伸ばすような教育になるわけだし、その画一的な教育なんか絶対してはいけない、いけないわけだよね。それぞれが自分の学問分野の中で好きなことをこう広げながら能力を伸ばしていけばいいし、その能力に寄り添うような環境を与えることが大学教育だと思うんですよね。だけど日本の政治家って初等·中等教育しか頭にないから、大学も画一的な教育をしようと思って一生懸命規則を定めるわけですよ。しかも成果を求めるわけだよね。あれが間違いだと僕は思うんですよね。
松井孝典: 政治家というより文部省だよ。文科省が初等·中等教育しか頭にないってことだよね、基本的に。
山極寿一: そうなんですよね。
伊藤穰一: うーん、それは変えられないんですか。何か必要、必要な。それこそさっきおっしゃったような···
松井孝典: 本当にだから、文部省が必要かということですよね。それは明治政府ができたときにやっぱり近代国家になるためにはさ、みんな等しい国民をたくさん作らなきゃいけないから必要があったんですよ、国家が教育にかかわる。だけど今こういう時代にさ、ほんとにそんな画一的に教育を考える必要があるのかということですよ。別にみんながバラバラであったってかまわないわけでしょ。だからそういうふうにもう教育そのものを考え直さなきゃいけないわけ。だから僕は初等·中等教育はね、そもそもさ、子供に自我がいつ芽生えるのかね、そういうことにも関係してきて、それからある程度考え方の基本みたいなものを教えなきゃいけないけれども、例えば我々だってそうだけどさ、私たちの頃の物理学とかさ、化学とか生物学なんて今から50年も前の話でしょ。で、それを大学で習っているときたいした分量じゃないよ。今ね、例えばですよ、高校でも大学でも物理学·化学·地学·生物学で教えようと思ったらさ、こんなの 教え切れるわけないでしょう。だからそこから取捨選択してそういう必要最低限のものは教える必要があるけどさ、それは国家がこうだなんて決める問題じゃないよね、教科書こうだとかってんじゃ。各その教えるところで考えればいいことじゃないですか。
伊藤穰一: 一昨日、小学校を設計してる人と話したんですけど、彼が言ってたのは実は文部省が別に文科省を守るわけじゃないですけども、実はかなり自由なんで、それ逆にそれを応用してる学校が今まで通りやっているので、学校が勝手に例えば彼はもう学年をなくしてプロジェクトベースででテストもなくしても、今の文科省のそのやり方の中ではできるっていうふうに言っていて、で、それはできるのにやらないっていうふうには彼は説明してたけどね。だから···
松井孝典: それだけどさ、私立学校はできる思うよ。
伊藤穰一: あ、そうですよね。
松井孝典: 公立学校ができるかといったら、それはかなり難しいと思うね。だからこれからは僕はだから私立の時代だと思ってるよ大学でも。
山極寿一: だってさ、その国定教科書っていうのがもう決められていて、教科書以外のことは教えられないわけですよね、公立学校ではね。もちろん副読本って使うことができるけど。
松井孝典: いやだって、大学の入試だってそうだよ、教科書に書いてないことを問題として出せないんだから。だから、それほど自由じゃないんだよ。教科書だってなくすという方向へ行かない限りは今言っていることは成り立たない。
山極寿一: なるほど。でもね、学問と違う分野ではかなり自由なことが支えられてるわけですよ。スポーツ、芸術、音楽家になるためにはね、早くから留学してもう3歳ぐらいからバイオリンひかなくちゃいけないとかね、そういう能力を育ててちゃんと世界的なバイオリニストになる人もいるし、ピアニストになる人もいる、スポーツだってそうですよね。
山極寿一: ですよね。で、それに秀でる人はどんどんその能力を伸ばすということをやってるわけじゃないですか。で、ところが学問の世界ってなかなかそう、そうなってないんですよね。で、やっぱり小さい時から能力に目覚めてすぐくらいですかね、やれるっていうのはね。
松井孝典: なんか数学と、それから物理学はちょっと違うからね。 同じじゃないからさ。。数学はできる可能性があるよね。
山極寿一: うんうんうんうん。
伊藤穰一: あとは研究と教育。千葉工大の僕研究所の方なんですけども、研究ではまあ色々できるかもしれないけど、それを教育とつないでいくことによってまた改革を起こせるんじゃないかなと思うんですけど。
伊藤穰一: 難しいんですかね、それは。
松井孝典: いや、だからあなたがやろうとしているような変革、変革センターというのはさ、世の中の仕組みとそういう学問的な領域構成だとか、そういうものをどうつなげるかというのをやっているわけだから、それはできると思いますよ。だけど我々みたいにさ、理学ね。理学の世界でやってるのがさ、そういうことが可能かといったらこれはほとんどできないよね。やっぱり。
山極寿一: 僕はね、その日本の研究と教育が結びつかないのは研究者の数が足りないんですよ。あるいは研究支援者の数が足りない。これはずっと言っていることなんだけど、ドイツは日本の3倍の研究支援者がいるんです。ね、だから研究者は研究に専念できるわけよ。で、研究支援者が教育の材料を作ったり実際に教育を代替したりして助けてくれてる。だから先端的な研究者は研究だけしていればいい、という環境が作られてるわけですよ。でも日本の学者っていうのは研究も教育も雑用も全部やらなくちゃいけない。それだけもう仕事が山積していて、で、何が一番できなくなっているかというと個人指導ができなくなってるわけですよ。それで能力がある学生を見つけたときにそいつを個人的に教える、あるいは自分の手元に引き寄せていろんなことを与える、という天賦の才能を見抜いてそれに環境を与えるってことができなくなってるわけですよ。だから部分的に条件を与えて勝手にやらせる、あるいはカリキュラムで縛ってテストをしてその試験の成績を見るしかなくなってるわけだよね。本当ならばやっぱり個人的な付き合いの中で自由にやらせてその才能を伸ばす、ということが大学やって然るべきなんだけど、それができなくなってる。これが一番問題じゃないかと思うんですね。中国は日本の5倍もの研究支援者がいるわけですよ。
松井孝典: いやそれは私もまったく同感だけどね、だけどそれがだけれども昔は日本も研究支援者の方今よりは多かったね。
山極寿一: うんうん。
松井孝典: というのは例えば東大を例にとると、東大の場合はユニットが何かっていうと普通の大学でいう学科なんだよ。学科を教室と呼んでその教室がその実は工場みたいなのを持ってたわけ。で、要するに必要なものは全部自分たちで作る。で、そのための技官というのがいてね。
山極寿一: いや、京大だってありますよ。いまだにね、工場はありますね。
松井孝典: だからそれがね、いやいや言いたいのはなにかっていうと、各研究室、ね、それは何かというと実は講座制っていうものはさ、俺は実は反対してそれを潰す方のやってたんですけど。今にして思うとやっぱりね、講座制とかある数が必要なんですよ、それを構成するだから研究支援者を含めて。その仕組みを変えちゃったわけね、みんな各個人にしたんだよ。
山極寿一: いやだから講座制ってね、もちろん拘束しているという問題はあったけれども、教授・助教授・助手2人って必ずいて、そのほかに技官がいたわけだよね。そうするとそういう人たちが団体で分担しあいながら学生を教えられた。だから結構自分の研究もできたし自由に海外でもまわれたわけですよ。それが今講座制は残りながら教授一・助手一・とかさ、教授1人とか、これは何もできませんよこんなのはね、ひどいもんですわ。
松井孝典: だからあの、そこのところをどう変えるかっていうときに国立は大変だと思いますよ、公立とかは。私立はわりと自由にできてね、千葉工大なんかさ、だから研究センターはもうご勝手にお入りくださいだよ。うん極端なことを言ったらさ、 自分たちのところが工場を持ったっていいんだよ。っていうか千葉工大ってさ、今も工場があるんだよ。だからほとんどね、うちなんかでもさその工場に発注していろいろ惑星探査関係の機器ね、でも作ってるよ。で、その工場を持ってるかどうかって大きいんであって、うちはやっぱりそういう意味でいくと実学だからね、やっぱり手を動かせる学生を育てなきゃいけないからまだそういうのを維持してるけどさ、東大なんかさ、もう今ないよ。そういう自分、自前で作るものは、どこか外の企業と組まない限りはできないですよね。
伊藤穰一: 僕メディアラボでずっと見てたのは、物を作ると関係ない学問も集まっても結局最後できちゃうから、コミュニケーションできなくてもコラボレーションできちゃうんだよね。ロボット、教育ロボット作ると教育学者と心理学者とメカの人が一緒になって動くんですよ。で、それがだから建築がそれなら最後建築物建つから、うんそこでそのエンジニアとかデザイナーとか一緒になっていやでも何かできちゃうので、だからそういう意味で言うとその完全にジャーナルだけの世界だとどんどん学問と離れていっちゃうけれども、モノを作ると結構融合していくので、それがたぶん僕らのAntidiciplinaryなりのそのリゴラスのところは最後モノを作らないと集まってこないんだと思う。
山極寿一: そう、おっしゃる通りなんですよ。だから最初に僕は画文化も社会も目に見えないもの、目に見えるものを作るという作業は人間が昔からやってきたことなんですよ。ホモ属ってのができたのは、これはホモ属の定義というのは道具を作るって話です。ホモハビリスってのは器用な手なんですよそれが最初の石器を作ったからこそ発展しはじめたわけですよね。道具は、その残る道具は機能とその人を伝えるわけですよね。考えを伝えるわけですよ。だから言葉がない時代でもそれがどのように作られたか、どういう人たちがそこに関わったかってことがその頭の中にすっと入ってくるわけですよね。それがひとつの情報として伝わっていく。それによって社会がまたさらに変化する、ということが起こっていったんだと思うんですよね。いまだにそうなんです。だから境界の見えるもの・形のあるものっていうのが人々を集め、そこに集約されているさまざまな知識をおぼろげながら伝えてくれる、それはすごく大きいし、しかもその上さらにホモサピエンスはそれを改善しようという統一的な意識が生まれるわけですよ。それがさまざまな分野を引き寄せるわけでね、おっしゃるように建築物ってそうなんですよね。ある建築物を作ろうと思ったときにその工学の人もいれば心理学の人もいれば、しかもその社会学の人もいれば、町並みというのを考えれば都市学の人もいれば、さまざまな人が建築っていうのを考えながら、それがどういうふうに位置づけられていくものかってことを見ていくわけでしょう。で、そこがすごく大きな人々の知の集合体になるんだと思います。