今週は、歴史社会学者の池上英子先生をお迎えして、ニューロダイバーシティと日本社会についてお話いただきました。
池上先生はニューヨークを拠点とする歴史社会学者で、日本社会を比較文化の視点からネットワーク論的に見直す研究を行っています。近年は、仮想空間「セカンドライフ」での自閉スペクトラム症(ASD)の方々と交流を行い、そこから日本の歴史や社会における自閉症スペクトラムの考察などを著書「ハイパーワールド:共感し合う自閉症アバターたち」(NTT出版)、「自閉症という知性」(NHK出版)などで発表し話題となりました。
今回は、発達障害や自閉症など脳神経の多様性を持つ「ニューロダイバーシティ」な人々が、日本社会でこれまでどのような位置付けにあったのか、そして今後、イノベーションを生み出す上でどんな存在であるのか等さまざまなお話を伺いました。
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今週のポッドキャスト配信について
Podcast Transcript
伊藤穰一: こんにちは。伊藤穰一です。今日は池上英子先生、歴史社会学の先生で、実はアメリカでずっと研究を行っていて、で、たまたま今日本に戻ってきてるんですけども、英子さんでいいですか。英子さん今日はよろしくお願いいたします。あの、英子さんとは多分2019年に初めてお会いしましたよね。で、そのときはメディアラボにNeurodiversityの話で来ていただいて、そのときはちょっとだけ話したんですけども、ちょっとその、その時やってたNeurodiversityの研究の話を少ししていただいてもいいですか。
池上英子: はい。私がNeurodiversityというコンセプトに興味を持ったのは、もともと仮想世界、メタバースの中だったんですね。で、その中でたまたまASD、自閉スペクトラム症の方たちの当事者会をもう長いこと、何年か座らせてもらってて、その中でそのメタバースの中だと普段コミュニケーションに障害があると言われてる人達が、実は支えあってすごく上手に話しているし、で、その中で生き生きと活動してるっていう。そういうことで、特にテクノロジーとそのコミュニケーションの問題に興味を持つようになって、それでメディアラボをお話したいと思ったんですね。
伊藤穰一: なるほど。僕も多分ちょうどその頃からNeurodiversityと教育についてWiredとかに書いていて、実はメディアラボでもすごい大きな課題で、MIT自体も全体的にいうと、これはオフィシャルの数字じゃないんですけども、MITのメンタルヘルスの人が6割7割、MITの学生は自閉症だという風にあって、一時期それを全部Measurementしようとしたら、その当時の確か、Chuck VestというMITの学長が、そのプロジェクトを止めちゃったんですよね。多分数字出したくなかったのかも、その時代には。でもそのNeurodiversityの自閉症的な人達にあった文化が多分MITの特徴で、そういうこうちょっと自閉症気味でもすごく数学とかサイエンスが強い子たちがやっぱり文化的にもすごく過ごしやすい文化で、MITはずっとやってきたと思うんですけれども、Neurodiversityっていうのは日本語でいうと発達障害とか自閉症とか結構ネガティブな言葉ですよね。で、アメリカでもネガティブなイメージを持っている人たちがほとんどかもしれないですけども、特に僕らのMITなんかだともうNeurodiversityはもう誇りになって、プライドになってて。でもそもそもそのNeurodiversityっていう言葉は日本であんまりみんな使わないんですよね。
池上英子: うん。ニューロ、つまり神経でDiversityという意味なんですけれども、その自閉症の方とか、またはその日本語でいうと非定型Intelligenceって非定型って言葉を使うんですね。マジョリティかマイノリティかっていうだけなんですけれども、そのそういう方たちはその一つの個性であるっていう考え方がそのバックにあるわけですよね。Neurodiversityの考え方が出てきたのは1999年のAtlanticという雑誌の中で、Harvey Blumeという人が書いたのが初めだって言われてます。彼もギークカルチャーと、どう関係あるかっていうことを書いたし、それからもうひとつは脳神経科学。あの頃とにかくヒトゲノムのあれすればすべて解決できるというような、そういう幻想があってその両方が背景にあって出てきた言葉。もともとがものすごくそのインターネットやデジタルと関係することではあったんですけれども、その仮想空間の中で本当に生き生きと働いてる、仕事してるっていうのもおかしいですけれども、ファンクションをしている方たちに会うことによって私もずいぶん目が開かれたんでっていう部分があったんですよね。
伊藤穰一: 私もやっぱり周りにはそういう自閉症の人達がずっと昔からコンピューターとかインターネットやってると多かったのと、あとアメリカだともう最近かなりもうみんなオープンになって、イーロン・マスクもテレビで自分が自閉症だっていってるし、彼は子供が3人とも自閉症で自閉症の学校を作っていて、で、私も今4歳半の娘もアメリカで自閉症のダイアグノーシスをもらったんだけれども、すごくよくできてて、パブリックスクールの方から、学校から4人ぐらいの先生がいて、で、すごくアナリシスして、そしてアメリカの法律だとやっぱり自閉症の子たちにはちゃんとその子に合った特別の何ていうの、デザインされた教育プログラムを作ってそれを提供しなきゃいけないっていう義務がもう学校にあって、その学校でできなければ補助金で、補助金というかその国のサポートで特殊な学校に行けるっていう権利がもうあって。で、僕らがいたケンブリッジは特にハーバードの教育学部があるからよく発達していると聞いたんですけれども、でも全国でそういうサービスがあって。で、僕も親としていろいろ調べてたら何年だか覚えてないんですけども、やっぱりアメリカの親たちが団体を作ってすごい政治的に圧力かけて、そして自閉症の子たちの教育システムをちゃんとしなきゃいけないっていうのでアメリカはがらっと変わったんですけども、日本の学校も僕らも日本に引っ越してきてほとんどやっぱり何か障害のところだけを見てなるべく普通にこう何かこう病気として直さなきゃいけない、っていうような発想で、これはだいぶ昔のアメリカの考え方だったんだけど、今はもうどっちかっていうと直すっていうよりもその子の特徴に合わせた教育でもっともっとのびのびと、そのNeurodiversityという言葉に定義されているようにやってるんですけど、日本そこはまだちょっと遅れてますよね。
池上英子: そうですね。全体に教育自体が子どもがどういうふうに世界を見ていて、で、どういうことを得意に思ってるかっていう、その子どもにとってのインプットのメカニズムよりもどうしてもその社会と合わせたアウトプットのところで評価する、というふうになりがちなので。それもアメリカは昔はそうだったと思うんですけれども、そのそこら辺がちょっともったいない、自閉症の方もそれ以外の典型から外れた方たちの才能だとか、ヒューマンリソースを社会が十分に使ってないっていうのが残念だなと思うんですよね。
伊藤穰一: よく言われるのは、こう目を見るのがいやな自閉症の子って結構いて。で、今でもあるんですけども、無理やりこう目線を合わせてしゃべらせるトレーニングをするっていうのがあるんですけども、MITなんかだともう僕らは目を合わせたくない人とは無理やり会わせないんだよね。で、隣に座って外向きベンチみたいに座って外を見ながら別に喋ってもいいじゃん、ってわざわざ目線を合わせる必要はなくて。で、よくMITのジョークで、いやあの学部の人達は絶対相手は見ないけれども、この学部は相手の靴までは見れるよ、とかね。それもあまりにも普通になってて、そういう意味で言うとそのわざわざその人達をこう具合悪くするようなことを無理矢理こう普通にしなきゃいけないっていうのって、アメリカでもまだあるんですけども、やっぱり日本の社会のこの何だろうね、しきたりだとかルールとか、日本だと空気の読めない人はダメだとかね。そういうこう典型的な自閉症にあるような特徴って、結構社会的にはあんまりこう逆に軽蔑される部分もあって、何か日本だとだからオタクだとか引きこもりとかそういうこうネガティブなインプレッションで、アメリカだとビル・ゲイツだとかスティーブ・ジョブスとかイーロン・マスク、典型的な自閉症っぽいパターンの人達ってあれはあれでかっこいいと思ってる人たちたくさんいるのに、何か日本だとそういう人たちをかっこいいとなかなか思わないのは、これは文化の、文化が違うんですかね。根本的に。
池上英子: 中世の日本なんていうのはかなりそのそこら辺のコントロールがそれほど効いてない社会だったので、もっと逆に自由があったと思いますね。だから日本に昔から独特にあるというよりも、歴史、何世紀千年の歴史の中でだんだんだんだん、特に明治以降出てきた部分があると思う。それに特に戦後になってますますかなり強くなって、会社社会が出来てくると思うんですね。で、Neurodiversityの根底にはその生物にとって種のDiversityが、多様性が大事で、多様性がないと生物の今のバイオスフェアが保てない、進化しないというのと同じように、その神経回路の多様性が人類にとって一番大切だという考え方が根底にあると思うんですよね。で、その場合にどんな神経回路が文明の発達にとっていいかなんて誰もわからない。最初から。だからその日本の場合は少しそういうふうにどんどんどんどんコントロールがその効くようになってきて、特に戦後この中で同調圧力が強くなってきたってことが、その勿体無い、その部分がずいぶんあると思います。
伊藤穰一: そうですよね。確かTemple Grandinが言ってたのかな、たぶん自閉症の人がいなければ未だにCaveの中にCavemanみたいに住んでいて、道具も火もないだろう、みたいなことを言っていて、たぶんそういうこうイノベーションとかインベンションをやる人って案外自閉症気味な人が多いんじゃないかな。Diversityとかインベンションって社会的に価値がある、というのでまあ自閉症、Neurodiversityを認めるっていうのもあるんだけど、とは言いながらやっぱり苦労するやっぱり障害の部分もあるので、そこのインクルージョンもちゃんとフェアネスとして入れてあげないと、社会的なバランスも取れないっていう、この両方ソーシャルジャスティスと社会的価値って両面見ないと、価値がある人たちだけ助けるっていうのもあんまり良くないなって思いますよね。
池上英子: おっしゃる通りだと思いますよね。どんな人の頭脳の中にもちょっと一般的な価値には当てはまらないような部分があって、で、そういうものが何か普通のやり方では収まらない。自分の中にもダイバーシティがある。で、そのそれが生まれついてのものの場合もあるしカルチャーの場合もあるし、いろいろだけれども、何かそういうことにも目が開かれるから自分の中のダイバーシティ、文化やジェンダーやいろんなものをダイバーシティに広がってくっていう入り口になるってことでもあると思うんですよね。
伊藤穰一: だからノーマルの人ってほとんどいないんですよ。全部普通の人っていなくて、みんな何かズレている。で、多分そういう意味でいうとまあ自閉症って定義される人がたぶん3パーセントとか4パーセント。これでもみんなが持ってるより多いと思うんですけども、でもほとんどの人はどこかのスペクトラムで変なところがあって。で、そういうやっぱり自閉症向けのサービスとか教育を考えていくと、多分実は一般的な教育もそこでまたいろんな改革もできるんじゃないかなと。
池上英子: そうだと思いますね。で、どういう子供が問題があるかということにもだんだん少し気をつけるようになってくことによって、一般のカテゴリーに一応当てはまるけれども何か特殊な考え方やものの見方、感性で、しゃべるのは得意だけど書けない、いわゆる学習障害みたいな人たくさんいますよね。そういう人たちにも当てはまる場合があるし、何か絵で描くならものすごく得意だけどどうもその書いたものだけで点数付けられるとダメだっていう子どもや大人もたくさんいますから。そこらへんのものにそのインプットのやり方まで気をつけながらやる教育のシステムみたいなものをこうに向かうきっかけにもなると思うんですよね。
伊藤穰一: だからそういう意味で言うと、その産業革命と大量生産の時には同じような人達が並んで工場で同じ取手を曲げて同じものをしなきゃいけないから、結構そのノーマルじゃなくてもみんなノーマルにして、その工場の職員として使ったけども、今の情報化社会だとみんなが違うことをすることによって新しい価値って生まれてくるので。
池上英子: そうですね。昔の1990年ぐらいですか、アメリカで障害法ができて、いわゆるレインマンが89年に大ヒットして、その格好いいムービーだったのでみんながそのそういう考え方をすると、Neurodiversityというものにちょっと広がってきたとこで障害者法ができて、随分エレベーターまで来たりいろいろ便利になったじゃないですか。それで結局プラスになったのはそのいわゆるその時の障害のイメージってのは車椅子に乗ってるっていうものだったと思うんですけれども、結局私たちがガラガラとスーツケースを引いて旅行するときだとか、そのお母さんが子供を抱えた人だとか、いろんな人がその役に立つようになったと思うんですね。だから何がどういうふうに役立つってホントわからないので。偶発性とかね、そういうことを考えるとそのこれは一つのNeurodiversityにフォーカスするっていうのは一つの何か突破口になるかなという考え方もある。
伊藤穰一: レインマンの映画が出たときの自閉症のコミュニティの反応を見ると面白いのは、レインマンによって自閉症の人でもかっこいいねっていうのですごく自閉症のムーブメントにプラスになったんだけども、あんまりリアリスティックがないっていう指摘もあったんです。多分アメリカでもいろいろ苦労していると思うんですけども、そういうダイバーズの人達、特に結構障害も含めている人達をどうやって社会として支えていくか。で、さっき最初にちょっと戻るんですけれども、オンラインだとかゲームとか、そういうメタバースみたいなので本当にコミュニティーでピアトゥピア、お互いで助け合うコミュニティってすごくやっぱり今までと違う環境が出来てきているような気がしていて。で、たぶんなんか最初に会ったときよりもさらに最近メタバースの話とかたくさん出てきてそうなんですけどね。そういう、英子さんがアメリカで見てたああいうコミュニティっていうのは日本でもあるんですか。
池上英子: うーん、少しずつ興味を持ってる人たちは出てきて、逆に言うとそのいわゆる当事者会っていうのはとても盛んです。つまり大人になった自閉症やさまざまな難しいことを抱えてる人達が、いろいろなネットを使ってやろうという動きも出て出てきているし、非常に興味は盛り上がってくると思いますね。ただそのもう少しインターネットをやるその技術者や何かがそのいろいろなニーズがある方たちが自分たちの力で使いこなせるような、次の世代のメタバースというか、そういうコミュニケーションの方法を開発するっていうことにまだ十分に気持ちが向いてない部分があって。で、特に日本のお母さんたちはそのゲームは悪だというのがかなりあるので、ゲームの中で非常にクリエーティブなことをやってる子どもたちがたくさんいるんだけれども、そのもちろんマイナス面はたくさんあるにしても、プラスの面にも目を向けるところにはなかなかまだ行ってないような気がしますね。
伊藤穰一: そうですね。それはうちの妹の研究テーマの一つで、今ぼくも理事をやってるんですけど、Minecraftっていうゲームの中で子どもたちのサマーキャンプをして、そしてコンピューターの学びとかやって、そして大学生、コンピューターの大学生をコーチにして、で、もっと中学生みたいな小さい子たちがそこでキャンプをして。で、そこで親にちゃんと報告するっていう仕組みを作ったらものすごい今流行っていて。そういうムーブメントを日本に持ってこようと思ってるんですけども。で、あとはあともうひとつ面白いのは、いつ頃だったっけな、インターネット本当に初期の頃90年代だと思うんですけども、やっぱりひきこもりの人がうちのプロジェクトに参加していて、そしてその結構生産性が高かったけれども、部屋から出ない本当のひきこもりで。そして支払いしたんですよお金をね。そしたら、親がびっくりしちゃって、何か悪いことでもしたんじゃないかと。なんか部屋でゲームをやってたと思ったら実は働いていて、そういう周りの人にもわからないけれども実はすごく勉強していたり働いたりしてる、働いてるって子もいるので、そこで何か悪いことしているからコンピューターの時間を制限するとか取り上げるっていうのは、結構ある意味悲劇かなと思いますね。
池上英子: そうですね私はもともとはセカンドライフというものの中の当事者会、またいろいろな障害を持ってる方たちのそのお互いに助け合うという活動の研究をしてたんですけれども、そのときにいくつか面白かったとこがあって。で、セカンドライフっていうのは今も続いてるし、で、かなり当時でいうと今のメタバースの考え方に近いようなファンクション、お金のもありましたしね。あと非常に面白かった。でその中で例えば目を見ないっていうお話があったじゃないですか。もともとアバターの目が見られないんですよ、Second Lifeの中で。それはそのリミテーションなんだけれども、そのリミテーションの引き算がこの使ってる人達にはかなりプラスになる。かえって不必要な情報を遮断することによって、その彼らの強い部分にフォーカスできたりする。だからすべてが例えばその次のメタバースがリアルに近くなればなるほどその心地良いものになるかどうかってのはわからないので。そういう人もいるかもしれない。自閉症の方であってもOculusを続けてやるのが得意な人もいます。だけどあれはたまらないっていう人もたくさんいて。そこら辺がその個人のその情報の取り方にその合わせたような次のコミュニケーションメタバースを作れるかどうか、っていうのもそのインクルーシブな社会を作ってくってすごく大事なことじゃないかなと思ったんですよね。
伊藤穰一: でもさっきのあの中世の日本のサークルの話にちょっと戻るんですけども、今でもそういう文化って日本はあるんですか。もっとフラットな。なんとなくこうある意味ではこう社会主義っぽくこうなんか結果平等みたいになのはあるけれども、でもやっぱり年功序列だとかこの上流社会だとか、何かヒエラルキーなところもたくさんあるような感じなんですけど、これって昔とどう変わってきているんですか。
池上英子: 中世っていうとだいたい12世紀から戦国時代の前ぐらいをよく言うんですけれども、あの時代が結構面白くて。そのかなりコントロールがまだ緩いわけじゃないですか、自分のことは自分で守らないとどうしようもない時代だったので、隙間が多い世界だったんですね。だから重構造の間に隙間というかそのそれをつなぐような形でフリーエージェントみたいな人達がたくさんいて。その人達は無縁の人達っていうふうに(呼ばれていて)。無縁っていうのはその縁がないって。今の現代の日本語では無縁っていうと無縁仏とかいうんで、ほとんどネガティブな言葉ですけれども、実はポジティブな意味があって、社会学的にあれすると、非常にその強い絆じゃなくて弱い絆で動き回っている人達のこと。旅行する職人、商人、旅の行商人的な人。中世だったらほとんど商業の中心はそういう旅する商人たちです。それから遊女、芸能者、要するに社会、いわゆるヒエラルキーにハマらないような、または農民でもないっていうんで非農業民の人達。で、彼らが実際にはそのかなりその社会の中を動き回っていて、実際そこから見ると非常に面白い日本社会の伝統が見えてくる。で、セカンドライフにしたときには一番最初にああこれはかなり無縁的な世界だなと思ったんですね。まぁそういう人たちが日本の社会のかなり身分制とかかたい中に風穴を開けてたことは事実だと思うし、で、非常に日本の今の伝統だと思われてる能だとかお茶だとかそれからいろいろな舞踏、そういったものはほとんどそういった人達にもともと中世で作られた訳ですよね。能の世阿弥なんていうのもその中のもともとはそういう土壌から出てきたわけだし。
伊藤穰一: 無縁のあのお茶とか能とかそういうのが無縁の人たちが出てきてると思うんですけども、その社会の変革だとか、何だろう、もっと根本的な構造を変える、変わる時にそういう無縁のネットワークっていうのって何か活躍したことってあるんですか。
池上英子: それは簡単には言えないと思うんですけれども、そのまず無縁的なもの、つまり弱いネットワークで飛び回る人たちと定義するとすると、そういう人達の行い自体は何かを社会を変えようとかそういうことではないわけですね。よく社会学で言うのはUnintended Consequencesっていう、つまり元々計画してないインパクトみたいなのがものすごくあるわけで、でその人たちがいなかったら今のほとんど言われている日本の伝統芸能、伝統文化みたいなものは今と全く違ってたと思うんですよね。で、もしかしたら特に江戸時代の中では絵を描くっていうのがかなり挿し絵を入れるってのがものすごく面白い文化だったので、それが何かもしなかったとしたらば、その漫画もなかったかもしれないんですね。だからいろんな意味でその変革するためにその集団で行動したというエージェントではないんだけれども、その飛び回りながら自分のMarginalも、特にその何か深い聖なるものにその宗教的なものに結びついていくっていうようなこととか。そういう人たちの中にはかなり実はNeurodiversityの人も実際にはいたと思うんですよね。で、そのよく出てくるのはその、日本でも海外でも同じだと思うですけど宗教的な天才みたいな人でいろいろな普通の人が見るようなものに惑わされないで、何か本質的なものにコネクトするような人。宗教的な天才ってものすごくいたと思う。何かそういう人たちがもしいなかったら、と逆に考えると、今の人間の文化、文明、日本の文化も当然ですけれども、ひどい薄っぺらいものになたと。
伊藤穰一: そういう意味で言うと、さっき天才って言ってましたけど、宗教的リーダーっていうのってたぶんそういうNeurodiversityの人多いですよね。あのこないだ論文一つ見てたら、特徴としてはあんまりみんなが思ってるからっていうことにこう影響されないで本質を見れるっていうのが特徴で、で、やっぱり普通の人、Neurotypical、ノーマルの人たちというのはどっちかというとみんなが何を考えてるかがメーンで、で、みんなと同じことを考えるっていうグループシンクが一番落ち着くステートで、で、そういう意味でいうとこう社会、環境が変わったけれどもみんなの考え方が変わんなくて、それで本質を見てそれを伝えるっていうのがもしかしたらこのNeurodiversityの人達のこの社会の位置づけなのかもしれないですよね。だから今多分あの学者っていうのはたぶんそういう人達結構いて、昔は宗教とかArtsとかその伝統芸能とかにいたんでしょうね。で、そういう人たちがどこでサポートされてどうやって表現するかっていうのがまたその歴史によって変わってきたのかもしれないですね。
伊藤穰一: 今度は我々が今向かってるこのデジタルも含めて、あと環境問題とかいろいろ出ていく中で、そういう人達をどうやって支えていって役に立つっていうと変ですけども、社会に貢献させるか。何かアイデアとかありますか。
池上英子: どこから出てくっていうのは難しいと思うんですけれども、例えばNeurodiversityのコンセプト一つ一つにしても、その種の多様性が必要なのと同じくらい環境問題にも通じることだけれども、そのそういうものが大切だというまずコンセプト自体を広めていくっていうのが大事なことじゃないかと思うんですね。
伊藤穰一: そうですよね。やっぱり親が重要ですよね。そういう恥ずかしいと思う気持ちだとか、何か隠さなきゃいけない、直さなきゃいけない、心配しなきゃいけない、だからそのそれは変えられますよね。例えば私の4歳半の娘も自閉症で困ることもあるけれども、すごいハッピーだし、すごい面白いし、普通の子ができないことをいっぱいできるし、やっぱりでも普通の日本人に話すとみんな何かこうかわいそうな顔で見てきて、僕も自閉症の人達と一緒に仕事もしてきたし、教え子もいっぱいいるので、結構慣れているので今楽しみながら一生懸命育ててるんですけども、そういう意味でラッキーだったなと。僕、僕だったら多分逆に自閉症の子の方がその育てがいがある。で、今までの経験がちゃんとこうて役に立つっていう。
池上英子: それは素晴らしいですね、うん。
伊藤穰一: きよちゃんを育てることによって僕もいろんな日本のいいところ·悪いところを見て、自閉症の子どもの目線から日本を見えてるので、そうするとこういうところを直していったらいいかなっていうので、うちの子だけじゃなくてみんなの子どもたちにも獲得できるかなっていうのがちょっと自分の今最近のこう視点の一つなんですけども、でもやっぱりこれからあとネットワークですよね。そのアメリカのやっぱり大きな変化は親同士が集まって国にやっぱり政治的なプレッシャーをかけて、で、やっぱり研究者はあるとこまでしか行かないけども、やっぱり当事者意識を持ってある程度力を持ってる人達が集まるっていうのもアメリカでは重要だったので、それは日本も必要かもしれないですよね。
池上英子: 親の団体っていうのはアメリカでものすごい力を持ってますものね。Autism Speaksとかいろいろなの。今はもう一つはやっぱり大人になった人達を、それの当事者の方たちの運動、または当事者がお互い支え合える、その視点がもうものすごく大切になってきた。で、だんだんそういうダイバーシティみたいなものが進んでいくことはただ単に寛容ということだけでなくて、実際に社会に役立つし、それは本当に大事なことだなと思います。私がもともとこの問題に興味あったのは、ひとつはそのあんまり英語できない中ハーバードに入ってしまって、その中でほとんど喋れないしそれからまあ書けないし、その上縦書きで慣れてたのでタイプもできなかった。 で、その経験があって、で、仮想世界の中でそういう自分と違う人達にあって本当に何か目がもうひとつ、こう一皮、自分の中で一皮むけたっていうかね、そんな感じがあったんです。知らない人たちのことを知るってのは一般的にいってすごい一番の勉強だと思うんですよね。で、それができるように、お互いができるようになっていく。で、無理に合わせてしまう必要もないけれども、そのいろいろ障害ある方たちも逆にNeurotypicalと言われてる人達の考え方も読めるようになっていく。それでどちらに合わせるかという力の問題を議論するんじゃなくて、お互いにもう少し面白がりながら、あんたはそうなの、ということで会話が進んでくじゃないかなそうと思うんですよね。