1999年9月 Archives

差出人: マイケル・ウィルソン
宛先: 伊藤穰一様
***ジョーイ、君のノートブックは公開されているから僕がコメントしてもかまわ
ないと思っていいね。いま君はとても忙しいか、時期が悪いかわからないが、時間が
あったら連絡してくれ。アメリカに来る予定はあるんだろうか。僕はこっちにいるか
ら会えるのを楽しみにしているよ。
「NPOの買収と持続可能なコミュニティー 草案0.1 9/21/99」最近私は、妹と、
「伊藤桃子財団」と、いま手がけている二文化間のコミュニティーの企画をどうする
かという話をした。近頃コミュニティーについて考えることが多い。天野氏と私は、
日本人側は違った角度から企画をみていて、個別のコミュニケーションが重要になる
ということを確認した。ヘクターと私は多文化間、多言語間のコミュニティーのサイ
トについて話し合った。先日、ハワード・ラインゴールド、ジェフ・シャパード、リ
サ・キンボールらとも最近のコミュニティーのサイトについて意見を交わした。
***財団についてもっと話が聞きたいね。エコシスの詳細をしりたくてもリンクが
今つながってくれない。コミュニケーションという見地からの研究は重要なことは言
うまでもないことだ。生殖の過程では遺伝子は自然に引き継がれるが、習慣や考え方
(ミーム)を伝えていくには言語的土台が必要だ。そこに「地域性」の問題が加わっ
て問題はより複雑になる。A町とB町は隣接し、共通点も多く、B町とC町、C町と
D町についても同様とする。ところが、状況をA町から(任意の)M町ということに
すると、些細な相違点が積み重なって膨らむ。それが最も顕著なのが言葉だろう。こ
のことが、単一「文化」と文化間の関係といわれるものに甚大な影響を持つ。
妹は、最近のコミュニティーのサイトの多くは商業的過ぎると言う。ただ、コミュニ
ティーのサイトのビジネスモデルがいまだ見出されていないことは誰もが認めるとこ
ろだ。妹(ミミ)は、人類学的な見地から、小規模のコミュニティーとそこに所属す
る人々の連帯関係について研究しているが、とくに、ネットのコミュニティーに主眼
を置いている。教育用のソフトウェア市場には十分な評価基準がなく、母親たちは結
局、たまたま店にあるものを購入することになる、と妹は言う。最も価値が高いソフ
トウェアが店頭に並ぶとは限らず、広告と営業戦略で陳列がきまることが多い、と。
市場を評価し、発展させるコミュニティーを作ることは可能かもしれない。コミュニ
ティーは、営利主義の広告主導で必ずしも最上のサービスを提供できるわけではない
はずだ。
***まったく!現実世界のコミュニティーのビジネスモデルだってまだ発見されて
はいないんだ。アイデンティティーで繋がっているのは無論だが、それが個人間で異
なることもまた周知の事実だ。妹さんはかつてのPLATO(コンピューターを用い
た個人教育システム)は検索されたのかな。あの時代から、なぜネットを基盤にした
コミュニティーが機能するか、しないかについて興味深いデータがたくさんある。結
局、似たもの同士(因みに、どのような似たもの同士のグループでも言葉が共通の要
素であることに注目)が集まることになる。コンピューターのコミュニティー、カル
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ト、ゲーム人、おたく、などなど。言葉はグループのアイデンティティーを決定する
手段で、参加できるかできないかの条件をきめる。これが評判の蓄積とか信頼の問題
――どんなコミュニティーにあっても決定的な要素なんだが――にすりかわっていく
んだ。「自分の才能は何で、それがいったいどれほどのものか」ということを知らし
める第一関門だ。「すばらしい会社だろうが、一緒に仕事をしたことがない」とか、
「いい医者かもしれぬが、投資のこつはきいても無駄」というのと同じ。広告は評判
や信頼のよい指標とは言いがたい、という意見に私は賛成だね。ブランドの良し悪し
が本来その目安となるべきなんだが、いまこの技術の世界にはUL のように品質を客
観的に審査する評価機関がないからね。アメリカの電化製品ひとつをとってみても、
一定の基準と安全性を満たしているどうか疑わしいものだ。ソフトウェアにもハード
ウェアにも一定の規格というものはまだなく、だからこそ、粗悪な商品やシステムに
いまだに粗悪なものがあるだけでなく、危険や脅威が存在する。それはある意味、い
いことではある。定着した体系がないから業界のテンポが高いまま保たれるわけだか
ら。ただし、それが多くの問題を引き起こす欠陥だってことは確かだ。
慶応大学の渋谷氏に、ピーター・M・リヒテンシュタインによる『ポスト・ケインズ
学派とマルクス主義の価値と価格理論への入門』を勧められた。この本のなかで、リ
ヒテンシュタインは、新古典派の経済学者は市場と「需要」が価格と価値を決定する
と説明している。マルクスは生産に費やされる労働が価値をきめると主張した。価値
を決定するには、対象物の実利を吟味する方法もある。単一の市場が全てを決定する
という考え方は古典経済学派の社会観の産物だ。しかし、小規模のコミュニティーに
おいては、大規模な市場よりも新しい型の価値と交換が適当だという可能性もある。
***その通り。情報社会の到来間際、マルクスは重要な点を見落としていた。ケイ
ンズは死ぬ前に自説の誤りを訂正したが、彼の主張した経済過程は生きながらえてし
まった。(いまとなっては死んだも同然だけどね。特に、ブレトン・ウッズ体制が崩
壊してからは。)以前僕が書いた「新しい経済も古い経済も同じ」という論文を覚え
てくれているかな。いまも同じテーマを研究しているんだ。当然、価値も価格も内容
次第で、個別のニーズに特化した内容をコミュニティーという見地からとらえるとい
うのはひとつの考え方だ。人間関係が重要な要素となっているならなおさらだ。(エ
コロジーのモデルを使うことも簡単だが、政治色がついてしまうから微妙)僕たちは
コミュニティーを概念的にもっときちんと理解すべきときにきている。これまでは作
り上げていくというより自然に発生する有機体のようなものだったからね。方向性
(どこに向かうのか?いまの時点では何が良いともいえない……)を定めるにはある
程度軸をきめて、特定の要素を数値化したり相関関係をきめたりするのが第一だ。あ
る事象について、また事象同士の取引関係についての経済学は、君も知っているよう
にすでに存在する。だから関係そのものに注目して社会学的に議論していくのが有益
かもしれない。
最近、ケネス・E・ブールディングの『新しい経済に備えて』を慶応大学の國領二郎
教授にすすめられて読んだが、経済だけでは説明がつかず、社会学的考察が必要な分
野の議論も必要だという気がする。
***おっと。統計理論の知識を呼びさまさないといけないみたいだね。その本のこ
とはよく知らないが、社会学と経済学のはざまにある重要な要素のひとつが転換とい
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うこと。人間関係の微細な粒子を観察するのが社会学で、同じ事象を、少し距離を置
いて抽象的にとらえると経済学になる。それに測定基準(行動誘因)をあわせて考え
てみると実に面白い。
こうした意見交換と読書から、コミュニティーのユーザーがNPO(民間非営利組
織)を形成し、コミュニティーの基盤を買収するのが望ましいのではないかと考えは
じめた。NPOはそれぞれのコミュニティーに適した形で統治されればいい。
***面白いね。つまり、あのケルソーのやりかたに少し手を加えて、株式を分配し
て、コミュニティーの参加者を所有者かつ事実上の経営者にするってことだね。これ
は悲惨な結果まねくんじゃないか、と僕は思う。まず、人は序列をはっきりさせたい
と思う傾向があるから、そこで亀裂が生じるだろう。僕は今、slashdot とandover のサ
イトに注目している。slashdot は「karma」ポイントや「repcap」といわれる評価資産
を活用し、andover は自由参加型のオークションを手がけている。もしかすると、こう
いう動きから君も同じような刺激をうけてそう考えるようになったのかな。ラに対
「karma」ポイントを与
例えばAOLのように大規模なコミュニティーのユーザーがAOLを買収して非公開
にするような場合が考えられる。また、コミュニティーの様々なツールを集め、NP
Oを運営し、ユーザーと寄付金・税金が増えるに従い、NPOがより多くの技術と資
源をえることができるようになる場合もあるだろう。
***うーん。AOLはまずそんなことにはならないんじゃないかと思うな。あそこ
をネット・マーケティングの拠点にしているものが多いし、それで成り立ってもいる
わけだから、コミュニティーが引き受けるには諸経費の負担が重過ぎるだろう。もう
ひとつのモデルは公開情報やリナックスのモデルに似ているようだが、規約を維持し
ていくのは難しいだろう。(構想どおりに機能するかどうか。)うまく維持されるた
めのコミュニティーの大きさには(どれだけとはわからないが)限界があり、規模が
大きくなると維持コストもかさんで運営が難しくなる(関係の複雑化による規模の不
経済)のではないだろうか。
これについてはいくつか考えられることがある。中村隆夫氏によれば、官僚的な統治
機構をもつNPOは職場としては退屈かもしれない。オースティン・ヒルも、ISP
が協同組合によって運営される体制では、委員会は退屈な人の巣になり、決断は遅れ
るだろうと警告している。組織がヴィジョンあるリーダーに導かれて迅速に取引し行
動をおこせるような、活力と刺激にあふれた統治モデルを考案しなければならない。
***ほーっ。ここでグラノヴェッター風に。僕が特殊な階級組織の構造を速度、特
に運営の速度と関連づけることは知っていると思う。何かを実現させるには目的を明
確に定め、それにそって組織を編成しなければならず、「目的」が自由な組織の発展
を拒むほど大きくなり形骸化してしまうと、余計なものばかりが生まれていく。君が
説明していることは僕が個人的な経験からの必然としてはっきりさせてきたことだ。
少数精鋭で、現場で即座に決定をおこなうこと、過ちを恐れない(支えてくれるネッ
トワークも含め、失敗してもいい余裕、がある)こと、など。
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政治的には、このNPOは国家にも似ている。そこには強い信念、政治、思考、知性
ある人々と、ヴィジョンが存在しなければならない。現在の広告と市場を極上とする
消費者市場以外に興味のない人々は関わるべきではない。
***うーん。国家がそんな風に機能しているとは、僕には思えないが。まっとうな
人々を中心に据えることには賛成だが、階級組織構造はやはり地位を権力と結び付け
ずにはおかないだろうし、君が理想とする組織とは相容れないだろう。
寄付のほか、インフラと商品の直接購入で浮いたお金を資金源にすることもできる。
組織基盤を所有するのはユーザーとなる。ネットイヤーの磯崎氏は主要なインターネ
ット企業のほとんどはユーザーが所有しているとおっしゃっていた。私の考えでは、
大きな違いは株主が安易に退出することがなく、ただ投票権があるだけだというこ
と。このため、投機目的の資本家は締め出され、歳入の成長からユーザーの満足度に
経営の中心が移るだろう。
***うーん。古い共同組合のモデルというのは、バークリーではたくさんの商売を
潰したんだが。規模と領域と両方の問題でやられるだろう。新たに資金をあつめたり
組織を分解したりする機能をもたせないと困ったことになるんじゃないかな。
日本はそうした事業を始めるには面白い場所だと思う。アメリカのハイテク事業は
「成長」企業と分類されるには150%もの成長率が要求される。そうみられなけれ
ば、オプション価値もない。オプション価値がなければ、働きづくめで疲れ果てたハ
イテク企業の従業員をひきつける魅力はない。彼らにとっては、今シリコン・バレー
でお金を稼ぐのは実に容易なことであり、逆にそれなしに人々を惹きつけるのは不可
能に近い。日本は景気が低迷しているため、仕事が面白ければ何とかやっていける程
度の報酬でも喜んで仕事をする人材に乏しくないのだ。
***現実はもっとひどい。いい仕事をしたいと思う者ほど理解されにくいからだ。
みな金儲けに走っている。バブルに便乗し、紙の上で利益を得て、市場が暴落するま
えに逃げようってこと。一方で、二年、三年より先の状況は本当に見えないから計画
もたてられない。いろいろと技術的な方面では急激にスピードを上げて進歩している
んだが、見返りがないために誰もみむきもしない問題が未解決のまま残っている。
(そう、コミュニティー。だけど誰がその利益を代表するのだろう。)
いずれアメリカの成長にはブレーキがかかり、オプション価値も下がる、と私は考え
ている。そうした状況下では、成長モデルをもとに発展した経営機構と倫理では才能
を管理しきれないのではないだろうか。もしもNPOが明確なヴィジョンをうちだ
し、能力のある人材をオプションなしに確保することができれば、そうした組織は、
シリコン・バレーの市場で景気が後退した局面で幻滅した人材を活用することができ
るかもしれない。
***いずれシリコン・バレーの企業も統合され定着していく。そうした動きはすで
に始まっている。強大なプレーヤーが市場の影響力を強引に行使して、自社の効率が
落ちていくのにあわせたり、既存勢力に屈したりして業界の進歩の速度を鈍らせない
限り問題はない。因みに、軍隊では階級組織が頑固に保たれていて、君がめざしてい
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るような独自の文化がある。陸軍兵士はプラトーン部隊に属することでコミュニティ
ーへの帰属意識をもち、仲間に何かあったときに「報酬」を真剣に考える人間など絶
対にいないんだ。とはいっても同じ階級の仲間同士での話だが。
若く聡明な官僚と、説明責任の欠如に関する学会の論争に、私は耳を傾けてきた。彼
らの大勢が、社会変革のための具体的な政策は無視されるか実行されないかのどちら
かだと感じている。オプション価値のようなもののために仕事をすることに慣れてい
るからだ。的確に組織さえすれば、学会や政府の仕事に従事する人々のコミュニティ
ーから統治モデルを作ってゆく人材資源を確保することは可能かもしれないと私は感
じている。地球ネットワークの政策立案者がコミュニティーとネットを活用して、経
済的にも世界的な視点で見ても確実な技術研究と提案に行ったとすれば、そうした提
案は疑いもなく「正当な」ものとして、その政策との距離が、従順な政治家の政治力
につながる可能性もある。そうした団体は、「ヴィジョン」について世間的に高い評
価と世界的な認知を得ることができる。これは、共同購入と主要な資産の買収とあい
まって、コミュニティーが国家的な規模に成長することにつながるかもしれない。
***いやはや、説明責任か。権力は責任に比して与えられるべきだ。君の見地から
してもっと重要なことは、彼らがどれほど言質を与え、責務を果たす気があるかとい
うことだ。オプションのしくみをよくみてみると、計測可能な目標に対する責務の履
行に対して報酬を与えるようになっている。責務を履行する価値は何だろう? 金銭
的な見返りだ。君のコミュニティーのモデルを組み立てるには、どのような動機づけ
(見返り)を与えれば人をコミュニティーに目的にそって確実に導けるか、じっくり
考えたほうがいいね。それから、技術が必要条件、経済が見返り、試行錯誤が実現へ
の道、「政府」が制限となる。社会的契約はもう展開されているから、実りのない取
り組みはだいたい消えていく。とりわけネットは、君のいうようなレベルの力を持ち
始めてきている。(無論、力を、依存関係を自由に操作する能力と定義するとし
て。)
一方、コミュニティーは威圧的であってはならず、主体的にヴィジョンをもって一体
となったユーザーの利益に貢献しなければならない。企業、政府やそのほかの外郭団
体などは、このコミュニティーと伝統的な市場その他の両方のニーズにこたえること
が可能だ。このコミュニティーは持続可能な、或は、市場の孤島といっていい程度の
ものだろう。
***ふむ、最終的に君はスターリンに傾倒していってるようだが、僕は彼は読まな
いんでね。生態系を考えればいい。生態系そのものが大きくなれば、それだけ余分な
ものが入り込む隙間ができるし、組織の中で役割も増える。ミクロの生態系はそれぞ
れ別に存在し、折を見て競い合えばいい。生態系の中で平衡を保てなくなれば、ミク
ロの生態系の連鎖に必要な関係がおかしくなり、何もかもが破滅する。
***マイケル

Translated by Yuki Watanabe

宛先: 伊藤穰一様
差出人: 伊藤瑞子
題名: Re: Bcc: NPO 買収
いただいたエッセイに対するコメントです:
「……教育用のソフトウェア市場には十分な評価基準がなく、母親たちは結局、た
またま店にあるものを購入することになる、と妹は言う。最も価値が高いソフトウ
ェアが店頭に並ぶとは限らず、広告と営業戦略で陳列がきまることが多い、と。市
場を評価し、発展させるコミュニティーを作ることは可能かもしれない。コミュニ
ティーは、営利主義の広告主導で必ずしも最上のサービスを提供できるわけではな
いはずだ……」
消費者が十分なサービスを受けていないというだけではありません。開発者もまた
不利益を被っています。実際、業界の資源の大部分を囲い込み、コンテンツを一定
の仕様にしむけようとする流通と営業の密な層があるのです。例えば現在、ディズ
ニー、ルーカス、バービーやシンプソンのようにライセンスされるブランドの力な
しには子供向けのソフトは売れないという業界の不文律があります。それではそう
したブランドに属さない開発者がやっていくことも、新たなキャラクターを開発す
ることもできない。教育用のソフトウェア産業が「成熟している」ということは、
利害規模がより大きくなり、影響力をもち続けていくには強力な後ろ盾が必要だと
いうことです。さらに、近頃の予算の大方は営業と流通にまわされるため、質のい
い製品を開発し、創造していくお金はそれだけ少なくなります。
「単一の市場が全てを決定するという考え方は古典経済学派の社会観の産物だ。し
かし、小規模のコミュニティーにおいては、大規模な市場よりも新しい型の価値と
交換が適当であるという可能性もある。」
おっしゃるとおりです。そして、全体論的な視点から、市場経済のみによらない交
換のしくみをみてみると、現実には狭義の経済的な意味での「実利主義」に基づく
需要と供給ではないあらゆる類の「経済」で人々が行動していることがわかりま
す。贈与に関わる経済がそのひとつですが、ほかにもあらゆる種類の「価値様式」
に基づいて人は日々行動しています。男女間の交渉、家族の「家庭」経済、専門職
のコミュニティーの地位経済、出版業界の引用経済、など、あらゆる種類の文化資
産は、つい最近になってから評価され始め、貨幣制度の支配下におさめられたもの
です。子供のソフトウェアに関して言えば、勿論、両親も子供もより「価値が高
い」ものを欲しがりますが、もっと気になるのは、よその子供が何で遊んでいるの
か、学校の履修科目と関係があるのはどれか、ということですし、十五分しか買物
の時間がないときウォルマートにたまたま並んでいるもので済ませてしまうという
こともあります。商品の選択は、そうした身の回りの状況に左右されてしまうのが
現状です。一方、開発に費やされた労力がそのまま製品の価格につながることはも
はやありません。価値も価格も、ものの交換を促すある種の集合的な社会制度が生
み出す結果で、投入された労働力や価値によって定められるものではないことのほ
うが多い。文化的な商品の価値は容易に還元できるものではなく、様々な要素が複
雑に絡み合っているのです。
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「中村隆夫氏によれば、官僚的な統治機構をもつNPOは職場としては退屈かもし
れない。オースティン・ヒルも、ISPが協同組合によって運営される体制では、
委員会は退屈な人の巣になり、決断は遅れるだろうと警告している。組織がヴィジ
ョンあるリーダーに導かれて迅速に取引し行動をおこせるような、活力と刺激にあ
ふれた統治モデルを考案しなければならない。」
この例はあるのでしょうか。これは統治モデルだけでなく、実際に関わる人たちの
人格の問題もあると思います。離れた場所から、何人でもプログラムにログインで
きるMUD(Multi-user Domain)などは、その縮図といえるかもしれません。
「政治的にはこのNPOは国家に似ている。そこには強い信念、政治、思考、知性
ある人々と、ヴィジョンが存在しなければならない。現在の広告と市場を極上とす
る消費者市場以外に興味のない人々は関わるべきではない」
おそらく、参加形態が異なるいくつかの層ができるでしょう。繰り返しますが、M
UDを見る限りでは、統括者、ウィザード、一般の参加者まで様々です。子育ての
支援組織、二文化間の交流を目的としたサイトなど身近な要求を満たしてくれる特
定のコミュニティーを通じてより広いコミュニティーに参加する人がほとんどじゃ
ないかと思います。より大きな枠組みや統治モデルはえてして一般のユーザーには
見えにくい不透明なこともあるかもしれませんが、参加を通じて組織は支持される
ことになります。当然、ウィザードは大儀を掲げ、コミュニティーがうまく機能す
るようにヴィジョンにそって仕事をしていかなければなりませんが、ユーザーにと
っては機能しさえすればいいのですから。そこをある特定のニーズを満たす最上の
場所とすることが第一です。大雑把な言い方をすれば、インターネットが全体とし
て機能するのは、様々な事柄について大勢の人間が大儀を掲げて活動しているけれ
ども、そうした活動家や彼らのミッションには無関心なユーザーもまた大勢存在す
るからなのです。ですから、文字通りの共同体モデルというよりも、ある種の中間
的なモデルを考えたほうがいいのかもしれません。
「寄付のほか、インフラと商品の直接購入で浮いたお金を資金源にすることもでき
る。組織基盤を所有するのはユーザーとなる。ネットイヤーの磯崎氏は主要なイン
ターネット企業のほとんどはユーザーが所有しているとおっしゃっていた。私の考
えでは、大きな違いは株主が安易に退出することがなく、ただ投票権があるだけだ
ということ。このため、投機目的の資本家は締め出され、歳入の成長からユーザー
の満足度に経営の中心が移るだろう」
ええ、市場競争ではなく、社会的な人気投票のようなものですね。下でおっしゃっ
ているように、政治経済的に雑多な立場が混在するということ。
「若く聡明な官僚と、説明責任の欠如に関する学会の論争に、私は耳を傾けてき
た。彼らの大勢が、社会変革のための具体的な政策は無視されるか実行されないか
のどちらかだと感じている。オプション価値のようなもののために仕事をすること
に慣れているからだ。的確に組織さえすれば、学会や政府の仕事に従事する人々の
コミュニティーから統治モデルを作ってゆく人材資源を確保することは可能かもし
れないと私は感じている。地球ネットワークの政策立案者がコミュニティーとネッ
トを活用して、経済的にも世界的な視点で見ても確実な技術研究と提案に行ったと
すれば、そうした提案は疑いもなく「正当な」ものとして、その政策との距離が、
従順な政治家の政治力につながる可能性もある。そうした団体は、「ヴィジョン」
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について世間的に高い評価と世界的な認知を得ることができる。これは、共同購入
と主要な資産の買収とあいまって、コミュニティーが国家的な規模に成長すること
につながるかもしれない」
いまの営業と流通システムは、ネットならば回避することのできる多くの物理的地
理的な制限を受けていた時代に形成されたものです。在庫の問題、書類の配布、店
頭のスペースの確保など。いまは、ネットが商業化されはじめたばかりでまともな
ネット上の流通システムが存在しませんが、私たちにとっては好機だと思います。
つまり、古いシステムはネット上でまだうまく再現されていないということ。そろ
そろ新しいモデルが必要になるでしょう。おっしゃるとおり、学界にはこういうこ
とを考えている輩が沢山います。社会的責任を考えるコンピュータ専門家が集まる
CPSRのように。

Translated by Yuki Watanabe

最近私は、妹と、「伊藤桃子財団」と、いま手がけている二文化間のコミュニティ ーの企画をどうするかという話をした。近頃コミュニティーについて考えることが 多い。天野氏と私は、日本人側は違った角度から企画をみていて、個別のコミュニ ケーションが重要になるということを確認した。ヘクターと私は多文化間、多言語 間のコミュニティーのサイトについて話し合った。先日、ハワード・ラインゴール ド、ジェフ・シャパード、リサ・キンボールらとも最近のコミュニティーのサイト について意見を交わした。

妹は、最近のコミュニティーのサイトの多くは商業的過ぎると言う。ただ、コミュ ニティーのサイトのビジネスモデルがいまだ見出されていないことは誰もが認める ところだ。妹(ミミ)は、人類学的な見地から、小規模のコミュニティーとそこに 所属する人々の連帯関係について研究しているが、とくに、ネットのコミュニティ ーに主眼を置いている。教育用のソフトウェア市場には十分な評価基準がなく、母 親たちは結局、たまたま店にあるものを購入することになる、と妹は言う。最も価 値が高いソフトウェアが店頭に並ぶとは限らず、広告と営業戦略で陳列がきまるこ とが多い、と。市場を評価し、発展させるコミュニティーを作ることは可能かもし れない。コミュニティーは、営利主義の広告主導で必ずしも最上のサービスを提供 できるわけではないはずだ。

慶応大学の渋谷氏に、ピーター・M・リヒテンシュタインによる『ポスト・ケイン ズ学派とマルクス主義の価値と価格理論への入門』を勧められた。この本のなか で、リヒテンシュタインは、新古典派の経済学者は市場と「需要」が価格と価値を 決定すると説明している。マルクスは生産に費やされる労働が価値をきめると主張 した。価値を決定するには、対象物の実利を吟味する方法もある。単一の市場が全 てを決定するという考え方は古典経済学派の社会観の産物だ。しかし、小規模のコ ミュニティーにおいては、大規模な市場よりも新しい型の価値と交換が適当だとい う可能性もある。

最近、ケネス・E・ブールディングの『新しい経済に備えて』を慶応大学の國領二 郎教授にすすめられて読んだが、経済だけでは説明がつかず、社会学的考察が必要 な分野の議論も必要だという気がする。

こうした意見交換と読書から、コミュニティーのユーザーがNPO(民間非営利組 織)を形成し、コミュニティーの基盤を買収するのが望ましいのではないかと考え はじめた。NPOはそれぞれのコミュニティーに適した形で統治されればいい。 例えばAOLのように大規模なコミュニティーのユーザーがAOLを買収して非公 開にするような場合が考えられる。また、コミュニティーの様々なツールを集め、 NPOを運営し、ユーザーと寄付金・税金が増えるに従い、NPOがより多くの技 術と資源をえることができるようになる場合もあるだろう。

これについてはいくつか考えられることがある。

中村隆夫氏によれば、官僚的な統治機構をもつNPOは職場としては退屈かもしれ ない。オースティン・ヒルも、ISPが協同組合によって運営される体制では、委 員会は退屈な人の巣になり、決断は遅れるだろうと警告している。組織がヴィジョ ンあるリーダーに導かれて迅速に取引し行動をおこせるような、活力と刺激にあふ れた統治モデルを考案しなければならない。

政治的には、このNPOは国家にも似ている。そこには強い信念、政治、思考、知 性ある人々と、ヴィジョンが存在しなければならない。現在の広告と市場を極上と する消費者市場以外に興味のない人々は関わるべきではない。

寄付のほか、インフラと商品の直接購入で浮いたお金を資金源にすることもでき る。組織基盤を所有するのはユーザーとなる。ネットイヤーの磯崎氏は主要なイン ターネット企業のほとんどはユーザーが所有しているとおっしゃっていた。私の考 えでは、大きな違いは株主が安易に退出することがなく、ただ投票権があるだけだ ということ。このため、投機目的の資本家は締め出され、歳入の成長からユーザー の満足度に経営の中心が移るだろう。

日本はそうした事業を始めるには面白い場所だと思う。アメリカのハイテク事業は 「成長」企業と分類されるには150%もの成長率が要求される。そうみられなけ れば、オプション価値もない。オプション価値がなければ、働きづくめで疲れ果て たハイテク企業の従業員をひきつける魅力はない。彼らにとっては、今シリコン・ バレーでお金を稼ぐのは実に容易なことであり、逆にそれなしに人々を惹きつける のは不可能に近い。日本は景気が低迷しているため、仕事が面白ければ何とかやっ ていける程度の報酬でも喜んで仕事をする人材に乏しくないのだ。 いずれアメリカの成長にはブレーキがかかり、オプション価値も下がる、と私は考 えている。そうした状況下では、成長モデルをもとに発展した経営機構と倫理では 才能を管理しきれないのではないだろうか。もしもNPOが明確なヴィジョンをう ちだし、能力のある人材をオプションなしに確保することができれば、そうした組 織は、シリコン・バレーの市場で景気が後退した局面で幻滅した人材を活用するこ とができるかもしれない。

若く聡明な官僚と、説明責任の欠如に関する学会の論争に、私は耳を傾けてきた。 彼らの大勢が、社会変革のための具体的な政策は無視されるか実行されないかのど ちらかだと感じている。オプション価値のようなもののために仕事をすることに慣 れているからだ。的確に組織さえすれば、学会や政府の仕事に従事する人々のコミ ュニティーから統治モデルを作ってゆく人材資源を確保することは可能かもしれな いと私は感じている。地球ネットワークの政策立案者がコミュニティーとネットを 活用して、経済的にも世界的な視点で見ても確実な技術研究と提案に行ったとすれ ば、そうした提案は疑いもなく「正当な」ものとして、その政策との距離が、従順 な政治家の政治力につながる可能性もある。そうした団体は、「ヴィジョン」につ いて世間的に高い評価と世界的な認知を得ることができる。これは、共同購入と主 要な資産の買収とあいまって、コミュニティーが国家的な規模に成長することにつ ながるかもしれない。

一方、コミュニティーは威圧的であってはならず、主体的にヴィジョンをもって一 体となったユーザーの利益に貢献しなければならない。企業、政府やそのほかの外 郭団体などは、このコミュニティーと伝統的な市場その他の両方のニーズにこたえ ることが可能だ。このコミュニティーは持続可能な、或は、市場の孤島といってい い程度のものだろう。

One Galaxy の高野氏に会ったが、彼は私の考えに概ね賛成してくれた。「退出のな い」ビジネス・モデルについて語り、私たちはよく似た考えをもっていることがわ かった。コミュニティーへの基盤の提供はビジネスにはなりえないだろうか。それ は「退出あり」のビジネスでもいいし、コミュニティーへのサービス提供を目的と した持続可能な程度のビジネスということもありうる。重要なのは規模の経済を実 現し、コミュニティーの乗り換えを防げる程度の妥当な価格を打ち出すということ だ。あらかじめ基盤の乗り換えコストを高く設定しておくという手もあるが、これ は特に必要ではない。

信頼について......e-bay を使い、國領先生に信頼とe-bay の価格設定について話した 後。コミュニティーにおける信頼の役割は技術やブランドによせる信頼のそれより も大きいかもしれないということだ。私自身、最近e-bay で万年筆を買ったが、小 切手が先方につく前にペンが送られてきた。「ペンの収集家は、信頼に値する人だ から」ということらしい。E-bay は評判を売り物にする。

基盤のプロバイダは、顧客層の維持に必ずしも価格や、技術や、ブランドに頼るの ではなく、政治的、人格的に、またはほかの面で信頼にたる存在になることができ る。これはむしろ「旧式」なビジネスに近いんじゃないか。伝統的な商社のよう に。時代に逆行しているのだろうか。

國領先生によると、e-bay では、同様の商品の価格がタイミングと売り手によって まったく異なる値段で取引されるということだ。ネットは、すべての価格が偉大な る市場によって均一化される完全な経済ではなく、一律ではないコミュニティーの 消費者同士の対話に大きく影響される価格メカニズムを形成しつつある。楽しみな ことだ!;-)

Translated by Yuki Watanabe