Minerva Priory library
The library at the Minerva Priory, Rome, Italy.

訳:Hiroo Yamagata

最近、技術研究者、経済学者、ヨーロッパの哲学者や進学者たちとの会合に参加した。参加者は他に、アンドリュー・マカフィー、エリック・ブリニョルフソン、リード・ホフマン、サム・アルトマン、エリック・サロビル神父だ。ぼくにとってこの会合が特におもしろかったのは、会話に神学的(この場合キリスト教的)な視点があったことだった。話題の中に出てきたのが、人工知能と仕事の未来だった。

機械が人間にとってかわり、多くの人々を失業させるのではという問題は、何度も繰り返されてはいるけれど、未だに重要であり続けている。サム・アルトマンらは、生産性の激増は経済的な過剰を作り出して、失業者にはユニバーサルな「ベーシックインカム」を支払えるようになると論じた。ブリニョルフソンとマカフィーは「負の所得税」を提唱している――低所得労働者に課税ではなく補助金をあげて、仕事という実践が生み出す他の重要な影響を阻害することなく、金銭的な再分配を助けようというものだ。

負の所得税を支持する人々は、仕事の重要性が単にそこから得られる所得だけでなく、それが社会的にも心理的にも与えてくれる安定感なのだということを認識している。仕事は社会的な地位を得る方法だし、また目的意識も与えてくれる。職場は社交の機会でもあるし、多くの人々が生産的で幸せでいるための構造も提供してくれる。

するとAI などの技術がいつの日か生産性の過剰をもたらして、金銭的には働く必要がなくなったとしても、人は相変わらず社会的地位を獲得し、仕事から得ている意味ある目的を得るための方法を見つけなくてはならない。この社会では、働いているのに給与のない人もいる。その最大のグループは、在宅の男女で、家や子供の世話をするのが仕事だという人々だ。その労働は現在はGDPに計上されないし、そういう人々はあるべき社会的地位や価値も得られないことが多い。なんとか文化を変えて、お金を稼がない人にも尊厳と社会的地位を与えるような仕組みや制度を作り出せるだろうか?ある意味では学術界や宗教機関や非営利サービス組織がそうした構造をある程度は持っている。つまり、お金を主体とせずに動く社会的地位や尊厳が得られる。この価値構造をもっと広く拡張する方法はないものだろうか?

そうしてクリエイティブなコミュニティはどうだろう?どうしてアマチュア作家やダンサーや歌い手が、金銭的な収益以外の形で成功を定義できるような組織原理を構築できないんだろうか?それでマスメディアによる流通と消費で支えられない少数のプロ以外にも、社会の中でクリエイティブな役割を開放できるんじゃないだろうか?「食うに困るアーティスト」という表現を、過去の風変わりな比喩表現にできないか?仕事の概念を、これまで一般に理解され受け入れられてきた生産性概念と切り離せないだろうか? 活動性とユーダイモニアの観点からすると「内面の仕事」というのがもっと有意義なものと捕らえられないものだろうか?

ペリクレス時代のアテナイは、人々が活躍して生産的になるために働く必要がなかった道徳的社会の好例に思える*。自尊心と共有された社会的価値観が、金銭的な成功やいまのような仕事と関連していないような新しい時代を想像できるだろうか?エリック神父は「活動性というのはどういうことだろう?」と尋ねる。現代のユーダイモニアとは何だろう?わからない。でもそれがなんであれ、根本的な文化の変化を必要とするのはわかる。その変化はむずかしいけれど、不可能ではない。その第一歩としてふさわしいのは、技術や金融イノベーションと並行して、文化についての作業を始めることだ。それにより未来は何もすることがない無関心なガキどもの世界よりは、ペリクレス時代のアテナイと似たものになる。もしそれがペリクレス時代のアテナイを動かす道徳的価値と美徳だったとするなら、いまあるような形の仕事がなくなった世界に間に合うようにそれを開発するにはどうしたらいいだろうか?


* ペリクレス時代のアテナイには奴隷がたくさんいた。将来の機械時代には、機械の権利について心配する必要があるだろうか?ロボット奴隷の新しい階級を作り出すことになるだろうか?

Credits
  • Reid Hoffman - Ideas
  • Erik Brynjolfsson - Ideas
  • Andrew McAfee - Ideas
  • Tenzin Priyadarshi - Ideas
  • Father Eric Salobir - Ideas
  • Ellen Hoffman - Editing
  • Natalie Saltiel - Editing
  • Hiroo Yamagata - Translation

Leafy bubble
Photo by Martin Thomas via Flickr - CC-BY

訳:Shin'ichiro Matsuo

2015年のブログポストで、ビットコインがいろんな点でインターネットに似ていると思っている話を書いた。そこで使ったメタファーは、ビットコインは電子メール――最初のキラーアプリ――みたいなものであり、ビットコインに使われているブロックチェーンはインターネットのようなものだ――つまり電子メールをサポートするために普及したけれど、その他の実に多くの目的にも使えるインフラ――というものだった。ぼくは、インターネットがメディアや広告に対して果たしてきたものと同じ役割を、The Blockchain(訳注:ビットコインのブロックチェーン)が金融や法律に果たすのではないかと示唆した。

今でもぼくはこれが正しいと思っているけれども、産業界は舞い上がりすぎている。10億ドル以上のお金がビットコインとフィンテックのスタートアップにすでに投資されていて、これは1996年におけるインターネットへの投資額に追いつき追い越す勢いだ。現在のフィンテックビジネスの多くは、当時のスタートアップに似ていて、当時のpets.com(訳注:当時大失敗したドットコム企業)が、XXXのためのブロックチェーンになっただけだ。今のブロックチェーンは1996年のインターネットほどは成熟していないと思う――たぶん1990年か80年代末というところだろう――まだIPプロトコルについての合意もなく、CiscoもPSINetもなかった時代だ。多くのアプリケーションレイヤの企業が、安定性やスケーラビリティから見て準備ができていないインフラの上に構築されているし、その発想もダメなものか、良いアイデアにしても早すぎるかのどちらかだ。また、これらのシステムの設計に必要となる、暗号学、セキュリティ、金融、コンピュータ科学の組み合わせを本当に理解している人はとても少ない。理解している人々は、非常に小さなコミュニティの一部でしかなく、この未成熟なインフラの上に建てつつある10億ドルの大建築を支えられるほどたくさんはいない。最後に、インターネット上のコンテンツと違い、ブロックチェーン上で行き交う資産や、多くの要素の不可逆性のため、ブロックチェーン技術に、WebアプリやWebサービスでやっているのと同じレベルのソフトウエアのアジャイル開発――やってみて、成功したものだけ採用――は適用できない。

これらの基盤的なレイヤに取り組んでいるスタートアップや学者はいるけれど、まだまだ足りない。すでにちょっとバブルになりつつあるんじゃないかと思うし、そのバブルは弾けたり修正が入ったりするかもしれない。それでも長期的には、インフラをどうすべきか理解して、願わくは非中央集権的でオープンな何かを作れると思いたい。バブルが弾ければ、最初のドットコムバブルの崩壊でインターネットに起きたような、システムからのノイズ除去が起きて、みんな意識を集中できるようになるかもしれない。一方で、ダメなアーキテクチャしかできずに、多くのフィンテックアプリは既存のものをちょっと効率的にするくらいのもので終わることもあり得る。ぼくたちは、皆が本当に非中央集権的なシステムを信頼するか、無責任な導入が人々を遠ざけてしまうかを決めるような決定を下すべき重要な時期にいる。コミュニティとしてコラボレーションを増やし、イノベーションと研究開発をスローダウンさせることなく、たんねんにバグと悪いデザインを取り除く必要があるだろう。

アプリケーションを作るより、インフラを構築する必要がある。あるバージョンのビットコインが「インターネット」になるのか、Ethereumのような他のプロジェクトが単一標準になるのかはわからない。もしかしたら、いろいろちがったシステムが、何か互換運用性を持つ形になる可能性もある。最悪の事態は、アプリケーションばかりに気をとられてインフラを無視してしまい、真に非中央集権的なシステムの構築機会を見逃し、有線のインターネットよりモバイルインターネットに似たシステムにおちついてしまうことだ――有線のインターネットはおおむね定額制だしそんなに高価ではないのに対し、モバイルインターネットは独占企業にコントロールされて従量課金とありえないほど高額なローミング料金の世界だ。

インフラとしてデザインとテストが必要な部分はたくさんある。合意アルゴリズム――個別のブロックチェーンが公開台帳を改ざんできないようにしてセキュアにする方法――についてはいろいろなアイデアがある。また、ブロックチェーン本体をどの程度スクリプト記述可能にするか、それともその上のレイヤで実装すべきかについての議論もある――どっちの主張にも一理ある。また、「プライバシと匿名性」対「アイデンティティと規制」をめぐる問題もある。

Bitcoin Coreデベロッパチームは、Segregated Witnessについて実績をあげつつあるようで、これはみんなのスケーラビリティに関する懸念の一部など多くの懸念を解決できるはずだ。一方で、歴史が浅いがパワフルで、もっと使いやすいスクリプティングやプログラミングの仕組みを持つEthereumは、ブロックチェーン上で新しい用途を設計しようとする人々からかなりの勢いと関心を集めている。他にHyperledgerなどのプロジェクトは、独自のブロックチェーンシステムとブロックチェーンにとらわれないコードをデザインしている。

インターネットは、オープンな標準に基づく明確なレイヤを持っていたからこそうまく行った。実際、TCP/IPがATM(訳注:Asynchronous Transfer Mode 非同期転送モード)――標準としての対抗馬――に勝てた理由は、ネットワークのコアが非常にシンプルで「バカ」だったエンド・ツー・エンド原則のおかげで、ネットワークの末端が非常にイノベーティブになれたからだ。この二つの標準がしばらくしのぎを削ったあげくに、TCP/IPが明白な勝者だと判明した。ATMを核とした技術への投資の多くは無駄になった。ブロックチェーンでの問題は、そもそもレイヤがどこにあるかすらわからないし、標準への合意のプロセスをどう仕切るべきかさえわかっていないということだ。

(Ethereum) Decentralized Autonomous Organizationプロジェクト、「The DAO」は、現在ぼくが見ている中でも心配しているプロジェクトだ。発想としては、Ethereum上に、コードとして書かれた「エンティティ」を作るというものだ。そのエンティティは会社の株に似たユニットを売り、投資したりお金を使ったりもできて、ファンドや会社とまったく同じように活動できる。投資家はそのコードを見て、そのエンティティが納得できるものかを判断して、トークンを買ってその投資の収益を期待する。なんだかSF小説みたいで、90年代前半のサイファーパンクだったぼくたちは、メーリングリストやハッカー集会で途方もないことを夢見ようとしていた頃に、みんなこの手の妄想は抱いたものだ。問題は、The DAO*がすでに2億ドルを投資家から集めていて、「リアル」なのに、それがビットコインほど検証されていないEthereumの上に構築されていることだ。そしていまだに合意プロトコルも固まっておらず、次期バージョンではまったく新しい合意アルゴリズムへの切り替えすら考えているという。

どうやらThe DAOはまだ法的に完全に記述されておらず、投資家たちにパートナーシップ上のパートナーとして損害賠償責任を負わせかねない。英語を使って弁護士たちが書いた契約とはちがい、DAOのコードでヘマをしたら、どこまで簡単にそれを変えられるかははっきりしない。契約書の言葉上のミスなら、裁判所がその意図を見極めようとすることで対応できるけれど、分散した合意ルールにより強制されるコードには、そんな仕組みが存在しない。また、コード自体が悪意を持ったコードで攻撃されかねないし、バグが脆弱性を引きおこす可能性もある。最近、 Dino Mark, Vlad Zamfir, Emin Gün Sirer――中核開発者と研究者たち――が、「The DAOに一時的なモラトリアムを」 (A Call for a Temporary Moratorium on The DAO) という、The DAOの脆弱性を指摘した論文を公開した。それにThe DAOは多分、この時点ではまだあれこれ口を出してほしくない様々な規制当局の人に対し、危険信号を発してしまうんじゃないだろうか。The DAOはEthereumにおけるMt. Gox――つまり、プロジェクトの失敗が多くの人に損をさせ、一般の人や規制当局がブロックチェーンの発展に急ブレーキをかけるきっかけ――になりかねない。

ぼくがこんな冷や水を浴びせたところで、この分野のスタートアップと投資家は猪突猛進を続けるのはまちがいないだろう。でもぼくは、できるだけ多くの人が専念すべきなのはインフラであり、構築しようとしているスタックのいちばん低いレイヤに存在する機会だと思っている。合意プロトコルをきちんと構築し、物事を非中央集権的なかたちにとどめ、過剰な規制を避けつつプライバシ問題を扱い、お金と会計を根底から再発明する方法を見つること――これこそがぼくにとってはエキサイティングで大事のことだ。

企業が研究を始め、実用的なアプリケーションを見つけるべきエキサイティングな分野はいくつかあると思う――発展途上国のソーラーパネルなど市場の失敗に直面している分野の証券化や、貿易金融など信頼の欠如がとても非効率的な市場を作り出すために標準化された仕組みが存在するような部分のアプリケーションなどだ。

中央銀行や政府も、すでにイノベーションを探し始めている。シンガポール政府はブロックチェーン上での国債発行を考えている。幾つかの論文では、中央銀行が個人の預金を直接受け入れて、デジタルキャッシュを発行する可能性が検討されている。一部の規制当局も、人々がイノベーションとアイデアのテストを規制上の安全領域で行えるようなSand Boxの構築を計画しはじめた。もともとのビットコインのデザインが政府を避けよう、というところから始まっているのに、面白いイノベーションの一部は政府の実験から登場するという皮肉な可能性もあり得る。そうは言っても、政府は、堅牢な非中央集権的アーキテクチャの開発を助けるよりも、その邪魔をする可能性の方が高いだろうけれど。


* このポストのわずか3日後に、The DAOはぼくが恐れていた通りに「攻撃」された。ここに、攻撃者を名乗る人物からの興味深いポストがある。Reddit上ではすぐに、このポストにつけられた電子署名は無効であると判断された。そして、その自称攻撃者からの別のポストでは、彼らは(Ethereumの)マイナーたちに、フォーク(訳注:攻撃によって得た利益を無効にするEthereumのブロックチェーンの変更)に賛同しないように賄賂を送ろうとしている。これが本当の攻撃者なのか、あるいは壮大な釣りなのかはわからないが、非常に興味を惹く主張だ。

Credits

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写真:Daderot(パブリックドメイン、Wikimedia Commonsより)

僕がMITメディアラボの所長に着任した当初、ニューヨークタイムズはこれを変わった人選と評したが、その通りだった。最終学歴は高校卒業だったし、タフツ大学とシカゴ大学の学部課程および東京の一橋大学の博士課程からいずれもドロップアウトしていたからだ。

最初に同ポストの打診が来た時は、学位がないから応募すべきじゃないだろう、との助言をもらった。数ヵ月後、選考委員だった Nicholas Negroponte(ニコラス・ネグロポンテ)から再び連絡があり、面接を受けにMITに来てみないかと誘われた。初回の候補者リストからは最終候補が出なかったそうだ。

教授陣、学生陣、スタッフとの面接は好感触だった。僕の人生でも最も刺激的な類の2日間であり、同時に、間の夜に日本で大地震が発生したため、かなり辛くもあった。あの2日間は様々な意味で僕の記憶に刻み込まれている。

委員会からの連絡はすぐに来た。僕が第一候補らしく、異例の候補であるため、再訪して Architecture and Planning(建築と計画)学部長である Adele Santos(アデル・サントス)氏、加えて、もしかすると学長(現在はMIT総長)の Rafael Reif(ラファエル・ライフ)氏とも面接されたし、とのことだった。ラファエルとの面接で豪華なオフィスに座ると、彼はどこか問い詰めるような目つきで、「何の話をしようか」と聞いてきた。そして僕が自分が候補になった展開の特殊性を説明すると笑顔になり、彼が誰に対してもしているように、「MITへようこそ!」と温かい歓迎の言葉をくれたのだった。

メディアラボの所長としての僕の仕事はラボの運営および研究を監督することだ。MITでは研究室と学術プログラムとが政教分離のごとく分けられているのが普通だけど、メディアラボは Architecture and Planning学部の中に「独自の」学術的な Program in Media Arts and Sciences(情報科学芸術プログラム)を構えていて、それが研究側と強固に連繋している点がユニークだ。

創設以来、メディアラボは常に研究の実践面、すなわち論文を発表するだけではなく、実施し、実績を展示し、投入することで学ぶという方針を重視してきた。学術プログラムは教授(現在は Pattie Maes(パティー・マース))が担当しており、僕自身も密接に関わっている。

僕の前任者、およびメディアラボ創設時に所長を務めた Nicholas(ニコラス・ネグロポンテ)はどちらも教授職を兼ねていた。しかし僕の場合、僕自身がそうと知らなかったことと、僕に学生を指導したり十分に学術的な働きができたりするかMITが判断しあぐねた結果、着任時点では教授にはならなかった。

そのことはほとんどの局面では重要ではなかった。僕は教授陣の会合にはすべて出たし、ごく稀な例を除くと権限と支持を得られている実感があった。気まずい空気となったのは「伊藤教授」と誤認されたり、他の大学の学者さんたちに自分の立場を説明したところ「なるほど、教授かと思ってましたが経営側の方なんですね」と返されたりした時くらいだ。

...なので教授である"必要性"は特に感じなかったし、教授となるための申請をしてはどうかと声がかかった時には、どのような利点があるかよくわからなかった。メンターの方々数名に相談したところ、(教授になれば)メディアラボの所長を退任した後でもMITに居続けることが可能になるだろう、と言われた。正直、ラボ所長の役を退く自分など想像すらできないけど、有用な選択肢に思えた。加えて、教授になることでMITの正式な構成員としての色合いが強まることもある。評議会の承認が必要なので、通ればそれがお墨付きとなるわけだ。

僕は自分の研究グループを立ち上げようとは思わないし、これまでもメディアラボ全体を僕が担当する「研究グループ」、かつ、僕のこだわりどころと見なしてきた。ただし、時々新たな試みの立ち上げを手伝ったり、教授陣の支援をしたりしていく中で、より学術的なマインドセットを要する思考や行動に関与することが増えてきた。さらに、メディアラボおよびMIT全体の学術プログラムについて、僕は以前よりも色々と意見をもつようになってきている。教授陣の一員となることでこれらの意見を表明する土台を固められるだろう。

このような考えを胸に、そして賢明なるメンターの方々からの助言に後押しされ、僕は申請を行い、本日付けで Media Arts and Sciences(情報科学芸術)実務教授としてMIT教授陣の一員になることを承認された。

昔よく妹とケンカをしたものだ。妹は博士号を2つもっていて、研究者で大学教授だったので、揶揄の意味を込めて学者呼ばわりしていた。僕がメディアラボ所長に就任した時、馴染めないだろうとか、うんざりするだろうと警告する声が多かったのをおぼえている。僕はもうMITに5年ほど勤めているけど、これまでのどんな仕事より長続きしている。(そして妹は今や起業家となっている。)僕はようやく自分のすべきことを探し当てた手ごたえを感じていて、この仕事、このコミュニティ、そして僕自身と僕が仕えるコミュニティに発展をもたらし、インパクトを与えられる可能性に対し、かつてないほど嬉しく思っている。

これまで僕を支えてきてくれたMIT、僕の数多いメンター、同僚、学生、スタッフ、友人の皆さんに心から感謝している。この旅路を歩み続け、その先にあるものを目にするのが楽しみでしかたない。

教授になります、2016年7月1日付けで。

会計は金融、ビジネスの根底にあり、軍隊を作ったり都市を建設したり、大規模なリソース管理したりといった活動を可能にする。実際、会計こそまさに世界が価値あるもののほとんどを追跡管理する手法だ。

会計はお金より昔からあり、もともと古代コミュニティが限られたリソースの追跡と管理に使っていた。7,000年以上も前のメソポタミアに会計記録があって、物々交換を記録している。時代とともに、会計は取引の言語となり、情報インフラとなった。会計と監査は、エジプトやローマのような大帝国の建設も可能にした。

会計が拡大するにつれて、羊だの穀物の山だの材木の束だのを数えるだけでなく、リソースの計算と管理にあたって、その交換価値を使いお金という抽象的な単位に基づいて計算するほうが、筋が通るようになった。交換だけでなく、お金は支払い義務の記録や管理も可能にした。だから初期の簿記は、個人同士の約束や取引を記録しただけだったけれど(アリスはボブに某月某日に羊を貸しました)、お金はアカウントの管理を大幅に簡略化し、市場、企業、政府のスケーリングを可能にすることで、新しい会計の世界を切り拓いたのだった。でも、何世紀も経るうちに、かつては強力だったこの簡略化が、驚くような欠点をもたらすことになった----そしてこの欠点は、現代のデジタル接続世界で拍車がかかっている。

価値を定義する

今日の企業は、ERPシステム(企業リソース計画システム)を使って、各種のモノや契約や従業員を追跡する。でも会計システム----そしてそれを要求する法律----は、とにかくあらゆるものを金銭価値に変換するように要求し、それを700年前の複式簿記手法 (日本語版)に基づく簿記システムに入力させる。これは13世紀のフィレンツェ商人たちが使ったのとまったく同じ方式で、「会計学の父」ルカ・パチョーリが1494年の著書 Summa de Arithmetica, Geometria, Proportioni et Proportionalità (算術・幾何・比及び比例全書) で説明したものでもある。

たとえば、明日雨が降ったら100万ドルもらう契約を結んで、それを帳簿につけるとする。この場合、明日雨が降る確率を推測する----まあ50パーセントとでもしようか----そしてこの資産の価額を、50万ドルとかで評価する。この契約は、実際には50万ドルを支払ったりすることは絶対にない。最終的には、それは価値ゼロ(雨が降らない)か、100万ドルか(雨が降る)のどっちかだ。でもこの契約をどうしても今日売ることになったら、たぶん50万ドルに近い金額で売るだろう。だから課税と管理のために、この契約の価値を50万ドルで「評価」することになる。一方、買い手がいなくてこれを売れない場合、規制当局はこれを価値ゼロと評価することもある。でも、明日雨が降れば、それがいきなり100万ドルの評価額となってしまう。

基本的に、企業の会計は各種帳簿のセルの総和で、そのセルには何らかの通貨----円、ドル、ユーロ等----をもとにした何らかの数値が入っている。そしてその数字が足し上げられ、まとめられ、それがバランスシート(貸借対照表)とPL(損益計算書)に入り、それが経営陣や投資家に対してその企業の健全性を示す。また利潤の計算と、政府に支払うべき税額の計算にも使われる。このバランスシートは資産と負債の一覧だ。資産側を見ると、印刷機や各種ソフトのコード、知的財産、他人への貸し(その人たちがきちんと払ってくれるかどうかは神のみぞ知る)、各国通貨建ての現金、商品の将来価値だの別の会社の価値だのに関する精一杯の推測なあど、価値があるとされる報告対象が、一覧になっている。

監査人、投資家、取引相手としては、いろいろ突っ込みを入れて、その企業がどんな想定をしているのか、その想定が計上時点でまちがっていたらどうなるか、あるいは将来のどこかで想定がずれてきたらどうなるかを調べたいこともある。また他の会社を買ったら、自分の支払い義務や賭けが、買おうとしている会社の支払い義務や賭けとどういう具合に相互作用するかを理解したいだろう。あれやこれやの想定の「根っこにたどりつく」ためには、監査人に何百万ドルも支払うはめになるかもしれない。その方法は、各種の法的契約を手で調べ、あらゆるスプレッドシートのあらゆるセルに入っている想定を見直すというこのだ。というのも標準的な会計は、とても「ロスの多い」やり方で、複雑で文脈に依存する関数を還元し、あらゆる段階ごとに静的な数字に変えてしまうからだ。その根底にある情報はどこかにはある。でもそれを掘り出すには、手作業が大量にかかる。

現代の複雑な金融システムは、投資家や当の企業が、まちがった想定をやったのを推測する方法を考案した企業だらけだ。こうした企業は、不正確な値づけをされた企業の逆張りをしたり、情報ギャップを利用して、それを自分たちの金銭的な儲けに変える。こうしたまちがいがシステムの至るところで繰り返されると、それは変動の増幅を引き起こし、市場が上がるときだけでなく下がる時にも、そうした変動をうまく予想できれば企業が儲けられるようになる。実際、このシステムがすべて崩壊しなければ、賢いトレーダーたちは安定性よりは変動で大儲けするわけだ。

ネズミ駆除業者たちは、ネズミが完全に根絶されるのをありがたいとは思わない。そうなったら自分たちが失業してしまうからだ。それと同じで、「システムをもっと効率的にして無駄をなくす」ことで儲けている金融機関は、本当は無駄のない安定したシステムなんか求めていない。

いまの金融システムの技術は、紙とペンしかなかった時代に設計された、お金と価値に関する考え方に基づいている。その時代には、システムを機能的に効率の高いものとするためには、依存関係や約束の網の目が持つ複雑性を還元するしか方法がなかった。複雑製を還元する方法は、共通の値づけ手法を使い、要素を分類して、それを足し上げることだ。これは700年前の材料をもとにしたもので、システムを「改善」というのもパターンや情報についての高度な分析をしつつ、その根っこにあるロスの多い、単純化しすぎた世界観という問題には手をつけようとしない。その世界観では、「価値」あるものはすべて、即座に数字として計上されるべきだとされる。

「価値」の標準的な発想は、還元主義的な世界の見方だ。これは、多くの人々にとってだいたい同じ価値を持つ、商品取引のスケーリングには有益な見方だ。でも実は、ほとんどのものは人と場合によって、価値が大きく変動する。ぼくとしては、価値あるものの多く----いやほとんど----はスプレッドシートの数字には還元できないし、また還元すべきでもないと言いたい。金融的な「価値」はとても限られた意味を持つ。家は、人がそこに住めるし、役に立つので、明らかに「価値」を持つ。でも、だれもその家を買いたがらず、市場に出ている似たような家をだれも買っていないなら、それに値段をつけられない。流動性がなうその「公正な市場価値」を決めるのは不可能だ。一部の契約や金融商品は譲渡禁止で、「公正な市場価値」など持たず、今すぐお金 (またはリンゴ)が必要になったときにはまったく無価値かもしれない。混乱の一部は、法的・数学的な考え方を日常言語で説明するのがむずかしいせいもあるし、また文脈とタイミングの果たす役割もある。

その一例が為替レートだ。妻は日本からボストンに引っ越してもう数年たつけれど、いまでも値段を円に換算して考える。ときどき、円の価値が下落したせいで何かがずいぶん値上がりした、と述べる。我が家の収入も支出もほとんどがドル建てだから、もう円建ての「価値」は関係ないんだよ、というのをぼくはしょっちゅう忠告するはめになる。もちろんそれは、日本にいる義理の母にとっては関係なくはないけれど。

人々は、物事には「値段」があってその「値段」は「価値」と同じだという発想に慣れてしまった。でもぼくたちの会話についてどう感じたかをあなたがメールで送ってくれたら、それはある時点ではぼくにとって価値があるだろうけれど、おそらく他の人には無価値だ。リンゴ1つは、リンゴの果樹園の持ち主よりはお腹の空いた人にとってずっと大きな価値を持つ。すべては文脈次第だ。

"Can't Buy Me Love" - The Beatles

消費者たちが金融判断をするとき、幸福の一種の代理指標として「効用」を最大化するという経済学的な発想も、普遍的な「価値」の仕組みがその複雑性を単純化しすぎる例だ----それがあまりにひどいので、人間が市場で「経済的に合理的な」アクターだと想定するモデルはまるで機能しない。このモデルのいちばん単純なバージョンでは、持っているお金が多ければ多いほど幸せになるはずだ。ダニエル・カーネマンとアンガス・ディートンによれば、これは年収7,500ドルくらいまでしか当てはまらないそうだ[1]。

今日では、現在のシステムが回避するように設計された多くの複雑性を維持し、扱えるような会計システムを構築するだけの技術と計算力がある。たとえば、帳簿に計上されるのがすべて数字でなくてもいいはずだ。それぞれのセルは、それが表す支払い義務や依存関係のアルゴリズム的な表現であってもいい。実際、機械学習を使えば、アカウントは周辺の状況が変わるにつれて起こることに関する、高度な確率モデルにもできるはずだ。するとあらゆるシステムの「価値」は、だれが尋ねているのか、その居場所、時間パラメータ次第で変わることになる。

いまだと銀行規制当局がストレステストを実施するとき、銀行に対して債券市場の変化や一部のものの価格変動といった、シナリオを渡す。すると銀行は、そのシナリオで破綻するか、支払い能力が維持できるかについて報告を出すことになっている。アカウントをあれこれ調べてシミュレーションをするので、これはずいぶん人手がかかる。でももしアカウントがすべてアルゴリズム的になっていたらどうだろう。即座にプログラムを走らせて、この問題への答が得られる。もっと重要な問題、つまり「この銀行を本当に破綻させるには、どんな市場の変化群が必要だろうか、そしてその理由は?」というものに答えられる学習モデルがあったらどうだろう。ぼくたちが本当に知りたいのはそういうことだ。これを1つの銀行についてだけでなく、銀行システムすべて、投資家も含め、相互作用するすべてについて知りたい。

どこかの会社から何かを買うとき----たとえば あなたの会社AIGからクレジット・デフォルト・スワップを買うなら----知りたいのは、その支払い義務額を支払う期日がやってきたとき、ぼくが逆張りしていたAA格の住宅ローン債券がデフォルトしたとして、あなたの会社がちゃんと支払えるか、ということだ。現時点では、これを調べるのは容易なことではない。でも、もしすべての支払い義務や契約が、紙に書かれて数字として記録される代わりに、実際に計算できて「目に見える」ものだったらどうだろう?あなたがぼくに支払わなければならないこのシナリオの場合、実はあなたは似たような契約をあまりに多くの人を相手にかわしているので、破産して支払い能力なんかなくなることがわかる。現時点では、当の銀行自身ですら内部監査人が事前に探ろうと思わない限り、これが自分でわかっていないのだ。

会計の根本を考え直す

ゼロ知識証明やセキュアマルチパーティ計算といった最新の暗号学を使えば、事業や個人のプライバシーを犠牲にしなくてもこうしたアカウントを公開しておける。巨大なアカウントの集合で、あらゆる契約をセルにしておいて、だれかが何かを尋ねたらそれを全部計算しなおすというのは、今日の計算能力さえ超えてしまうかもしれない。でも機械学習とモデル構築で、変動のすさまじい増幅は、安定化はできなくても、それを抑えることはできるかもしれない。こうしたバブルとその崩壊が今日起きるのは、ぼくたちがシステム全体を単純化しすぎた砂上の楼閣の上に構築しているからで、しかもそれを扱う人々は、後で利用して私腹を肥やすために非効率性を導入するため、不安定で不透明にしておくインセンティブがある。

現在のビットコインや分散帳簿に関する興奮は、その柔軟性を再プログラミング可能な性質の活用につながる大きな機会を作り出していると思う。これにより、会計の根本的な仕組みを見直せる。ぼくは、銀行向けアプリだの、金融の新しい考え方だのよりは、おこっちのほうにずっと興味がある。銀行や金融向けの応用は、いくつかの症状に対処はしても、13世紀フィレンツェ商人たちが使っていたのとまったく同じ、700年前の複式簿記手法の上に構築した、とんでもなく複雑で古くさい仕組みという根本原因の一つを解消する試みはまったく行わないからだ。虚数を使うべきところで整数しか使っていないような感じだ。会計の再発明は、アルゴリズムのちょっとしたテコ入れ(過去数百年にぼくたちがやってきたのはそれだと思う)なんかではなく、新しい数論の発見のようであるべきだと思うのだ。

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[1]Daniel Kahneman and Angus Deaton. "High Income Improves Evaluation of Life But Not Emotional Well-Being". Proceedings of the National Academy of Sciences. (2010)

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Originally posted on PubPub.ito.com. Please read and post comments there.

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1996年当時の本サイト

ブログのアップグレードと整理にご協力いただいた、Boris AnthonyDaiji Hirata のお二方に感謝!

プラットホームを Movable Type Pro 6.2.4 にアップグレードした。(そう、いまだに Movable Type を使っていたりする。) Daiji と Boris が Facebook の Instant Articles を使えるようにしてくれた。きっかけになった Dave Winer の投稿 と、協力してくれた Facebook の皆さんに感謝したい。Boris がブログのデザインをクリーンアップしてくれたし、レスポンスも改善してくれたため、モバイルフレンドリー度が上がった。

感心するのは、長年経つのにこのサイトのデザインが古くなっていない点だ。

僕ら(Eccosys の旗揚げメンバー)がウェブサーバーをセットアップしたのは1993年のことだった。1993年7月1日付けのこれが、僕がインターネットに投稿した最初の日記的なものだった気がする: 「Howard が Wired で僕のことを書いてる!」 2002年には Justin Hall の協力のもと、固定型だったウェブサイトを「ブログ」に変換した。固定型ウェブサイト時代も日記を載せていたが、この「ブログ」という新しい仕組みのおかげで更新がはるかに楽になった。

Boris が2003年の夏に僕のブログのデザイン担当を引き継いでくれて、2003年の7月にサイトを再ローンチした。2008年には Susan Kare が作ってくれた真新しいロゴも含む大幅なリデザインを行なった。

技術面で様々な変化が起きたにもかかわらず、このウェブサイトのコンテンツのほとんどが上記の度重なるアップグレードを経つつ今も存在しているのはかなりすごいことだと思う。また、Archive.org が大もとのデザイン版のこのサイトその前のeccosys.com のアーカイブを残してくれているのも嬉しく思う。1993年の一番最初のバージョンは、僕のわかる限りでは失われてしまっているようだけど。ウェブもその水準もとても強固なものだし、ずっとそうであってほしいと思う。

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Photo by: Oli Scarff

(Getty Images から利用制限つきでライセンスを受けたもの/コピー禁止)

訳:山形浩生

昨晩、Free Software Foundationのリチャード・ストールマンやWorld Wide Web Consortiumのハリー・パルピンと一緒にDRMについてのパネルに出た。これはDRMに反対するFree Software Foundationのデモ行進に続いて行われたものだ。DRMについてFree Software Foundationは「デジタル制約管理」と定義しているけれど、一般には「デジタル権利管理」のことだ。

質疑応答の際に、だれかが不服従についてどう思うか尋ねた。ぼくは、それが重要だと思うと述べて、理由を説明しようとした。どこまでうまく説明できたか自信がないので、ここにもう少し完全なものを挙げておこう。

ぼくの9つの原則は、遵守よりも不服従というものだ。ある日、MITの総弁護士マーク・ヂヴィンセンゾとの会合中に、ぼくのオフィスのディスプレイにこの標語が表示されていて、かれがそれを問題視した。だから説明するはめになった。

言われた通りのことをしているだけじゃノーベル賞は取れない。アメリカ市民権運動は、市民的不服従なしには起こり得なかった。インドはガンジーとその支持者たちによる、平和的ながらも決然とした不服従なしには独立できなかっただろう。ここニューイングランド地方ではボストン茶会事件を祝うけれど、これもかなりの不服従行為だ。

社会の役にたつ不服従と、そうでないものとの間の一線はむずかしい――ときには、後になって振り返るまでそれが判断つかないこともある。ぼくは別に、法を破れとか、単に反抗的であるために不服従しろと薦めるわけじゃない。でもときには、自分の第一原則に立ち戻って、法やルールが公平かどうかを考え、それを疑問視すべきかどうかを検討しなくてはならない。

社会や制度は一般に、秩序に傾きカオスから遠ざかろうとする。その過程で、これは不服従を押し潰そうとする。それはまた、創造性、柔軟性、生産的な変化も押し潰す――そして長期的には、社会の健全性と持続可能性も。これは学術界だろうと企業だろうと、政府だろうとぼくたちのコミュニティだろうと、どこでも言える。

ぼくとしてはメディアラボが「堅牢な不服従」だと思いたい。メディアラボのモデルがもつ堅牢性の一部は、不服従と意見のちがいが存在し、それが健全で創造的で敬意を持ったやり方で表明されているおかげだ。「堅牢な不服従」であることは、自己修正を続けて革新を続けるあらゆる健全な民主主義と、あらゆるオープンな社会の本質的な要素だと思うのだ。

訳:松尾真一郎

以前のポストで書いたように、ブロックチェーンはインターネット並の破壊力を持ち、多くの機会とイノベーションを解き放つポテンシャルを持つと思うし、各種トランザクションのための、普遍的で、互換性を持ち、信頼できる低コストなネットワークになる可能性があると思う。しかしブロックチェーンは巨大なポテンシャルを持つ一方で、インターネットとOpen Webで過去も現在も経験したものと、似てはいるが多くの点でとてもちがう課題にこの技術は直面している。

私は、ビットコインとブロックチェーンの現状を心配している。

一部にはこの業界への過大投資、また一部にはビットコインがインターネットなどよりはるかにお金がらみであるため、この技術はインターネット初期ではまったく類似例がなかった危機を経験している。それでもインターネットの形成過程は、いくつか重要な教訓を与えてくれる――特に重要な点として人材の問題と知識の蓄積という問題についてだ。インターネットの初期において、そして一部のレイヤでは今でも、インターネットを動かすために必要な中核要素を正しく理解できるだけの技術的なバックグラウンド、能力、そしてパーソナリティを持つ人は非常に限られた少数の人だった。かつてはBorder Gateway Protocol (BGP)を本当に理解している人が世界中に五指に満たないほどだったから、日本でPSINetを作る時にはその人々を探し出して、「競合他者」と共有しなくてはならなかったものだ。

今日、ビットコインとブロックチェーンにも同じような状況がある。暗号技術、システム、ネットワーク、コードを理解し、ビットコイン自体のソフトウェアコードを理解出来る人は少数だ。そのうちの何人かは、Ethereumや他の「関連」システムに従事し、さらに数人は世界中の他の場所に散在しているけれど、その大多数はビットコインに従事している。これはコミュニティであり、このコミュニティにいたのは、1990年代のWebが普及する前の時代に、Financial Cryptography会議のようなイカレた会議に参加していた連中だ。インターネットの各種フリーなオープンソースソフトウェアのコミュニティと同様に、これはお互いを知っていて、おおむね(ただし常にではないが)お互いをリスペクトしていて、でも基本的には才能をほぼ独占しているような人の集まりだ。

残念ながら、ビットコインと今日の「ブロックチェーン」の急激な成長は、ガバナンスという観点からこのコミュニティに不意打ちを食らわせてしまい、おかげでビットコインのコア開発者は、この技術をスケーリングさせることがビジネス上の肝となっている、商業的利害関係者とうまくインターフェースが取れずにいる。「ビットコインのスケーラビリティを向上させられるか?」と問われた時に、「精一杯頑張るけど」とコア開発者は答える。多くの人、とりわけビットコインのアーキテクチャやビットコインの内部で何が起きているのかを理解していない人にとって、こんな回答では不十分だった。

もっと単純なシステム――Webサイト構築や、企業向けのERPシステムの購入運用――での意志決定に慣れた多くの企業は、顧客のニーズをもっときちんと聞いてくれる他のエンジニアをあっさり雇えると思い込んでいたり、「約束はできないけど、頑張ってみるよ」というコア開発者の態度に苛立つあまり、システム導入の基準を下げて、自分たちの要求を満足させると約束させる相手ならだれでも採用したりするようになっている。

ビットコイン、分散化台帳などのブロックチェーン関連のプロジェクトの将来は、このコミュニティに依存している。多くの人たちは彼らのことを「Bitcoin Core」と呼び、まるですぐにでも契約を切れる企業の一種のように扱ったり、いい加減な開発者の寄せ集めで、そいつらの技能なんか他の人を訓練すればすぐ身につくものと思ったりしている。でもそうではない。彼らはアーティストや科学者や精密エンジニアのようなものであり、共通の文化と言語を作り出すことができる。彼らがやっていることができる他の人たちの集団を見つけようとするなんて、Webデザイナーたちにスペースシャトルを発射するように依頼するようなものだ。コミュニティはクビにはできないし、統計的に言えば、ビットコインに従事している人たちこそがそのコミュニティなのだ。

もし「ビットコインのようだけれどもっと良いもの!」を作ろうとしても、それはおそらくセキュアではなく、面白くもないだろう。そして、インターネットがメディア、コミュニケーション、そして商取引に与えたのと同じように、銀行、法律、そして社会に大きな影響を与えるポテンシャルをビットコインに与えている「基本的な本質」には反したものになるだろう。

ビットコインはオープンなプロジェクトで、常に分散化、堅牢性、イノベーションの原則を推し進める、非効率的なこともあるがオープンなコミュニティプロセスだ。ビットコインは単一のシステムじゃない。これを破れば65億ドルの懸賞金が得られる、実動システムだ。この高い評価額のおかげで、そのネットワーク上に何かが実際に展開されるときには非常に多くの注意が払われ、テストが行われる。でも非常に多くの人がビットコインを破る方法を考えているが、それが失敗しているということにはかなり自信が持てる。

EthereumとRippleはおそらくビットコインの次に大きく、1億ドルレベルのシステムだ(Ethereumは今は4億ドル以上である)。Rippleは基本的はビットコインとは根本的にちがう合意アルゴリズムを採用しているし、Ethereumは面白く有用な特徴を持っている。もしビットコイン上であるトランザクションができなかったり、アプリケーションを開発できなかったりする場合、RippleやEthereumが注目されるのも当然だろう。もしセキュリティや安定性を真剣に考えるのであれば――是非そうあってほしい――ビットコインは、最高額の取扱い高と最大のコミュニティを持つほぼ唯一の選択肢であり、実世界の広範囲な実稼働ネットワークに展開している、もっとも実用的な近年の実績を持っている。

多くの人々はアプリケーションの可能性に興奮するあまり、そのアプリケーションが稼働するシステムのアーキテクチャを全く考えていない。多くのインターネット企業が、インターネットがひとりでに動作していると思い込んでいるように、そうした人々はどのブロックチェーンもまったく同じで当然動作するものだと思い込んでいる。でもインターネットは、そういう発想でもほとんどやっていける程度には成熟してきたが、ブロックチェーンはとてもそこまできていない。そういう人たちは、ビットコインに取り組む連中のことを、イカレたリバータリアンの烏合の衆だと思っていることも多く、そいつらがクールなアイディアを思いついたのは事実だけれど、雇われエンジニアを集めれば、お金次第で同じものが作れるはずだと思い込みがちだ。各国政府や銀行は、セキュアな台帳を実際にどう構築するか十分に考えないまま、あらゆる種類の計画を進めようとしている。

こわいのは、アプリケーション層ではビットコインやブロックチェーンが目指していたものに見えるものができても、その中身は相互運用性がなく、分散システムではなく、信頼なしのネットワークもなく、拡張性がなく、オープンイノベーションでもなく、新技術でちょっとばかり効率が向上したぐらいの古いトランザクションシステムとなってしまうことだ。

これには良い前例がある。インターネットがもたらす重要な便益の1つは、インターネットを構成するそれぞれの技術レイヤが、コミュニティで開発された技術標準で正しくサンドイッチされ、すべてのレイヤでオープンなプロトコルについてイノベーションと競争が許されていることだ。これこそが、コストダウンとイノベーションを加速した。モバイルWebができる頃には、こうした原則を見失い(またはコントロールを失い)携帯電話会社にネットワークを任せてしまった。だからこそ、有線インターネットではデータコストなんか気にしないのに、国境を超えたらモバイル環境における「通常の」インターネット体験が、たぶん家賃よりも高いなんてことになってしまう。モバイルインターネットはインターネットのように感じられるが、実は多くのレイヤで独占的なシステムが存在する、インターネットの醜くて歪んだコピーだ。これこそまさに、アプリケーションレイヤがアーキテクチャをずさんで無原則な形で引きずったときに起きることだ。

最後に、だが最も重要なこととして、コードとアーキテクチャの設計に最も集中してほしい開発者たちを消耗させすぎている。多くの人がすでに脱落し、脱落を匂わせている。多くの人が世間での議論のおかげで完全にやる気をなくし、精根尽き果てている。いずれ新世代の金融暗号学者が登場すると信じるにしても、このコミュニティなしにはそういう人々を訓練できない。多くの賢明な人たちがこの論争のあらゆる方面にいるし、そのほとんどは善意でやっているとは思う。でも外野から対立を煽り、無知で挑発的な発言をしてみたり、この世界を一変させる可能性を持つイノベーションに対してビットコインコミュニティが過去、現在、未来にわたり行ってきた貢献について、根本的に軽視して価値を貶めてりする人たちは、有害でしかない。

これまで、私は事態が自然に沈静化することを願って静観していたし、今後本当に沈静化してくれるのかもしれない。でも目に入るのはますます多くの誤報と大風呂敷ばかりで、「ブロックチェーン」は「IoT」や「クラウド」と同じ役立たずのなんでも用語になり果てている。それを見ると、悲しくなるし、ちょっと怒りも感じてしまう。

これからまとまった時間をかけて、未来に影響の大きい分野で見かける、最も見当ちがいの代物については対抗措置をとったり議論にバランスを持たせたりすることにした。ビットコインコア開発者コミュニティは堅牢だが、ステークホルダーのエコシステム、意志決定や情報共有の方法に関する理解は、未だに壊れやすく脆弱だ。幾つかの中核グループや個人の間にあるコミュニケーションと感情の亀裂は、今現在ではかなり広いのではと恐れている。でもこのコミュニティをまとめあげ、技術と実用の両面で広くコンセンサスが最も得られそうな、共有された技術プランの実施がとても重要だと思うのだ。もっと堅牢で、将来起こるであろう避けられない不一致に対しても、冷静で技術的で、実現可能な方法で運営できるようなコミュニティ構築ができればと願う。

Kevin Esvelt(ケヴィン・エスベルト)氏がメディアラボのオファーを受け、1月に助教として新設の「Sculpting Evolution」(進化形成)研究グループの舵取りをしてくれることになった。

Kevin はハーバード出身の生物学者で、分子生物学の最先端の技術のいくつかを生態工学と組み合わせる仕事をしていて、CRISPR/Cas9遺伝子編集技術の開発に貢献し、CRISPRを用いたジーンドライブの可能性を明らかにした立役者でもある。CRISPRジーンドライブを用いれば、既存の生物のゲノムを編集して以後の子孫に強制的に変更内容を受け継がせることが可能になる。これにより、例えば、蚊を野生に放って時間をかけて野生の蚊がマラリア、デング熱その他の病気を媒介できなくすることができうるのだ。それ以外にも、ライム病をマダニに媒介するネズミに恒久的な免疫をもたせることで根絶を図ったり、住血吸虫症の原因である住血吸虫症を一掃したり、害虫・害獣が作物を食べたがらないようにプログラミングすることで有害な農薬の必要性を軽減できるかもしれない。

ご想像いただけるかと思うが、利点が多々見込まれる一方で、かなりの懸念と、いくつかの現実的リスクも伴うものだ。これらの技術をどのように実用化するかという点に加え、Kevinが取り組んでいる要素のひとつに、研究段階での事故が環境に影響するのを防ぐ安全技術、および、編集内容の効果を解除したい場合に投入できる「取り消し」版の開発が挙げられる。

KevinとGeorge Church(ジョージ・チャーチ)は実験を始める前の段階で既にCRISPRジーンドライブに関する最初の論文を発表しているが、これは彼らが責任ある利用に関する議論を早期に開始するという前例を作ろうと考えたからだ。CRISPRの特徴のひとつとなっているのがコストの低さだ。CRISPRジーンドライブが加われば世界を変えうる変化を世に出すことのできるバイオ系施設の数は確実に増えていくだろう。

本年10月に開催したメディアラボの30周年記念イベントにて、Kevinは聴衆に「誰が決めるべきなのか?」と問いかけた。生態系に不可逆な変化を起こしうると知りつつ、マラリア根絶ないし大量に使われている農薬の軽減を見込んで蚊を野生に放つ判断を責任もってできるのは誰なのだろうか。国民の過半数が進化論を信じておらず、気候変動が重大案件であることを連邦議会が認識できていないこの国においては、大変な命題と言えるだろう。

J・J・エイブラムスとの秘密のミーティングにて、KevinはCRISPRやジーンドライブのような世界を変えうる新科学技術の扱いかたを決めるだけではなく、このような世界を革新しうる技術が発見される頻度が上がり続ける世界に向け用意を進めるべきなのだと説明した。社会としても科学者としても、どうすれば責任ある決断ができるのかを理解するのは非常に重要なのだ。

メディアラボがこれらの新技術の発見、その影響に関する議論、そして責任あるデザインと展開において重要な役割を果たせるよう、ラボ一同願っている。科学という文脈にのっとってデザインを行うことで、根本的なレベルでの省察や倫理的配慮が得られうると考えている。どの領域も世界を見つめる他の多数のレンズから隔離された状態で開発されるべきではない、という指針をメディアラボではこの30年間遵守してきた。遺伝子編集まわりの新たな科学の発信が、科学がデザインと切っては切れない場であるラボにおいて実現しつつあるのを嬉しく思う。そしてKevinはその原則を体現する人物なのである。
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MITニュースでの発表MediumのMITブログにも投稿

シリアにおけるオープンソースソフトウェア・コミュニティの中心人物の一人、Bassel Khartabil (バセル・ハルタビル)が「国家の安全保障を脅かした」として2012年3月以来シリア政府によって収監されている。国連の恣意的拘禁に関する作業部会はその拘束を恣意的なものと宣言し、即時放免を求めてきた。

Bassel

アサド政権内の人物たちからKhartabil氏の妻、人権弁護士の Noura Ghazi (ノウラ・ガジ)氏に接触があり、Bassel に対して死刑判決が下された旨が伝えられた。Noura 氏の Facebook への投稿(アラビア語)に英文の翻訳とコメントがついている。)このうわさの真偽を確認することは不可能だが、Bassel の友人、ならびに表現の自由を守るすべての人々にとって非常に憂慮すべき報告だ。

ブラジルのジョアンペソアにあるインターネット・ガバナンス・フォーラムはシリア政府に対して、 Bassel の家族に彼の居場所を伝え、寛容な処置をするよう求める声明を出している。我々MITメディアラボもこの呼びかけに賛同し、Bassel の居場所を開示して拘束から解放するようシリア政府に対しできる限りの働きかけをするよう、インターネットコミュニティの皆様にお願いしたい。

MITメディアラボでは10月22日付けで Bassel Khartabil を市民メディアセンターの研究員として招き入れ、ISISによって破壊された古代都市パルミラの遺跡を3Dモデル化するプロジェクトを継続してもらいたいと呼びかけている。我々は Bassel がメディアラボの同職に就任できることを願い続けるとともに、彼に死刑判決が下されたという話が事実ではないことを切に祈っている。

Bassel への恣意的拘禁を広く世に知らせ、その居場所に関する情報の開示と即時解放を求める活動に、皆様にもぜひ、ご協力いただきたい。

MITメディアラボ所長 Joi Ito(伊藤穰一)
MIT市民メディアセンター主任科学研究員 Ethan Zuckerman(イーサン・ザッカーマン)

この度、MITメディアラボからBassel Khartabil(バセル・ハルタビル)に市民メディアセンターでの科学研究員の職をオファーすると発表できることを誇りに思う。就任してもらえれば責任者である主任科学研究員Ethan Zuckerman(イーサン・ザッカーマン)の直属となる。メディアラボの科学研究員として、オンラインでの表現の場を守る彼の長年の仕事を続けることができるようになる。その仕事は同センターの中心的な研究使命に調和するものである。特筆すべきは、彼は今、ISISが襲撃、破壊した場所のひとつである古代都市パルミラの遺跡を3Dで再建しようとしている。
Bassel Safadi
Bassel Khartabilは大切な友人であり、クリエイティブ・コモンズでの元同僚でもある。インターネットの自由なカルチャーのために声を挙げ、尽力している優秀な人物である。2009年には僕をダマスカスに招待してくれて、シリアの学生、芸術家そして文化に接する機会を設けてくれた。同地域へのこれまでの旅の中で、最も感銘を受けた旅となった。現地では、複数の古代ローマの遺跡に連れていってくれたり技術系の起業家たちとの素晴らしいディナーをセッティングしてくれたりした。ダマスカスの歴史、芸術、技術の関係性はとても素晴らしかった。どんな街よりも優雅にそれらを結びつけていたのだ。(※こちらにその時の写真をいくつかまとめてある

Basselは2012年3月15日、シリアの憲兵によって逮捕され、やがて弁護士不在のまま野戦法廷で裁判にかけられた。世界中で彼を擁護する声が沸き起こり、彼の仕事はシリア内外のいかなる者にも脅威になり得ず、むしろオープンソフトウェア・ムーブメントの理想を示すベストな例であると、世界中で彼の逮捕と拘束に抗議する声が沸き起こった。

僕が今この記事を書くのは、Basselの家族や友人、世界各地の仲間共々、彼の安否をとても心配しているからだ。最近まではアドラー刑務所に収監されていたようだが、現在の居場所は不明のままで、シリア政府は依然、彼が今どこにいて、なぜ移動されたかの理由を開示していない。

Basselはシリアの豊かな文化、そしてその文化の保護をライフワークとしてきた。オープンなインターネット、そして国際的にオープンな文化への貢献、そして彼の研究と創造性はすべての我々に恩恵をもたらしてきた。Basselのような人々がいなければ、インターネットも、我々の多くが今や当たり前だと感じている今のような活力あるオープンな場にはなっていなかったであろう。

Stéphanie Vidal(ステファニー・ヴィダル)がBasselの状況に関する詳しく示唆に富む記事をSlate.frに書いている。クリエイティブ・コモンズではブログにPhilippe Aigrain(フィリップ・エグラン)、Melanie Dulong de Rosnay(メラニー・デュロン・デ・ロスネー)そしてJean-Christophe Peyssard(ジャン=クリストフ・ペサール)による翻訳版を載せている。ぜひ読んでいただき、Basselの置かれた複雑な状況を理解してほしい。特にStéphanieの記事の一節が印象的だった。以下に引用する。

人権が尊重されなくなってしまったときには、公的な呼びかけでは人々の希望を表明するくらいしかできなくなってしまいます。そこで我々は2つめの視点を持ちます。我々の希望の主張がウェブ上、ソーシャルメディア上で共有され、プレゼンスが高まれば、その実現の可能性も高まるのです。自由なインターネットを支持したBasselの活動が、彼の収監の原因となったのかもしれません。しかし、我々インターネット市民が本件に注ぐ注意こそが、多かれ少なかれ、彼を闇から救う一助となり得るのです。

全世界の学界人を代表して、Bassel Khartabilに大統領恩赦を認めていただけるよう、アサド大統領に願いたい。Basselは重要な世界市民であり、シリアの遺産を守ろうとしている真のシリア人です。恩赦を認めれば、それは大いなる善意の現れであり、シリアの文化を守り伝える大きな一助となることでしょう。

この投稿をできるだけ広く共有し、Basselのことを気にかけていただければと思う。

Links:
Petition Online: http://bit.ly/freebassel-petition

Freebassel Campaign: http://www.freebassel.org
Facebook: https://www.facebook.com/FreeBasselSafadi
Twitter: @freebassel
Youtube: https://www.youtube.com/FreeBassel2013
Vimeo: https://vimeo.com/freebassel
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