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Edge Question 2017:もっと広く知られるべきと思える科学的な語句もしくは概念を挙げよ -> 僕の答え:神経学的多様性 »

John Brockman率いるEdgeは毎年難題を提示している。2017年の問いは「What scientific term or concept ought to be more widely known?」(もっと広く知られるべきと思える科学的な語句もしくは概念を挙げよ)だった。僕の答えは: Neurodiversity(神経学的多様性) ヒトの神経学的な状態には多様性がある。自閉症など、その中の一部は障害と見なされているものの、ヒトゲノムの正常な差異の結果だと主張する声も多い。神経学的多様性ムーブメントは国際的な市民権運動であり、自閉症は「治療」されるべきではなく、人間の真の多様性の一環として守られるべきだとするものだ。 1900年台初期の頃は、優生学や、遺伝学的に劣ると見なされた人々の避妊手術は科学界に公認されており、セオドア・ルーズベルト、マーガレット・サンガー、ウィンストン・チャーチルおよび米最高裁判事オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアなどはこれを積極的に擁護していた。しかし優生学運動に端を発したホロコーストこそが、これらの計画を実践に移した時の危険および厄災のおぞましい実例に他ならない。 自閉症および神経学的多様性の精力的な代弁者であるテンプル・グランディンは、アルバート・アインシュタイン、ウォルフガング・モーツァルト、ニコラ・テスラが今生きていたら「自閉スペクトラム」と診断されていただろうと主張する。彼女の考えでは自閉症は長きにわたり人類の発展に貢献してきており、我々に自閉症的形質がなければ今でも洞窟に住んでいたかもしれないとしている。現在、神経学的な非健常児が伝統的な教育システム内の改善プログラムに入れられ、後から実は天才だったことが判明する事態がしばしば起きている。そしてそういった子供たちの多くがやがてMITその他の研究機関にたどり着いている。 CRISPRの発見によりヒトゲノムの大規模な編集が突如として実現可能になった。現在進められている初期応用例は消耗性疾患を起こす遺伝子変異の「修正」に関わるものだが、それと同時に我々の足を自閉症のみならず、人間社会を繁栄させている多様性の大部分を消してしまいかねない未来に向けさせてもいる。ヒトゲノムに関する我々の理解はまだ初歩的なものなので、知性や性格などにまつわる複雑な変更を適用できるのはしばらく先の話だが、滑りやすい坂道に思える。数年前に見た事業計画では、自閉症とはゲノムの「エラー」に過ぎず、粒子の粗い写真や音質の悪い録音の「ノイズを除去」するかのように「修正」可能だと主張されていた。 自閉症をもって生まれてきた子供たちの中には、確かに、消耗性の問題を抱えていて治療介入が必要な子もいる。しかし自閉症を「治療」しようとする試みは、それが対照的な解決であれ、いずれ行われるであろう遺伝子操作によるものであれ、学問、革新、芸術を含め、健全な社会に不可欠な要素の多くの原動力となっている神経学的な多様性を払拭する結果に繋がりかねない。 健全なエコシステムに多様性が不可欠であるということは、我々はすでに知っている。農業における単一栽培が脆弱で持続不可能なシステムを生み出してきたことも知られている。 僕が懸念するのは、仮に神経学的多様性が社会に不可欠であることを解明して理解できたとしても、標準から逸脱したリスキーな形質を意図的に排除する手段が開発されてしまい、選択肢を提示された時に人は神経学的に健常な子供を望みがちになるのではないかということだ。 障害や疾患を払拭するために我々が進むこの遺伝子操作という道は、科学的にはより洗練されているものなのかもしれない。しかしそれは人類が以前にもたどった道であり、その際には意図しない、不可逆ですらありうる結果や副作用をもたらしたことがあるのを、重々認識しておきたい。 EDGEではいろいろな人の回答が読める。...

フィンテック・バブル »

Photo by Martin Thomas via Flickr - CC-BY 訳:Shin'ichiro Matsuo 2015年のブログポストで、ビットコインがいろんな点でインターネットに似ていると思っている話を書いた。そこで使ったメタファーは、ビットコインは電子メール――最初のキラーアプリ――みたいなものであり、ビットコインに使われているブロックチェーンはインターネットのようなものだ――つまり電子メールをサポートするために普及したけれど、その他の実に多くの目的にも使えるインフラ――というものだった。ぼくは、インターネットがメディアや広告に対して果たしてきたものと同じ役割を、The Blockchain(訳注:ビットコインのブロックチェーン)が金融や法律に果たすのではないかと示唆した。 今でもぼくはこれが正しいと思っているけれども、産業界は舞い上がりすぎている。10億ドル以上のお金がビットコインとフィンテックのスタートアップにすでに投資されていて、これは1996年におけるインターネットへの投資額に追いつき追い越す勢いだ。現在のフィンテックビジネスの多くは、当時のスタートアップに似ていて、当時のpets.com(訳注:当時大失敗したドットコム企業)が、XXXのためのブロックチェーンになっただけだ。今のブロックチェーンは1996年のインターネットほどは成熟していないと思う――たぶん1990年か80年代末というところだろう――まだIPプロトコルについての合意もなく、CiscoもPSINetもなかった時代だ。多くのアプリケーションレイヤの企業が、安定性やスケーラビリティから見て準備ができていないインフラの上に構築されているし、その発想もダメなものか、良いアイデアにしても早すぎるかのどちらかだ。また、これらのシステムの設計に必要となる、暗号学、セキュリティ、金融、コンピュータ科学の組み合わせを本当に理解している人はとても少ない。理解している人々は、非常に小さなコミュニティの一部でしかなく、この未成熟なインフラの上に建てつつある10億ドルの大建築を支えられるほどたくさんはいない。最後に、インターネット上のコンテンツと違い、ブロックチェーン上で行き交う資産や、多くの要素の不可逆性のため、ブロックチェーン技術に、WebアプリやWebサービスでやっているのと同じレベルのソフトウエアのアジャイル開発――やってみて、成功したものだけ採用――は適用できない。 これらの基盤的なレイヤに取り組んでいるスタートアップや学者はいるけれど、まだまだ足りない。すでにちょっとバブルになりつつあるんじゃないかと思うし、そのバブルは弾けたり修正が入ったりするかもしれない。それでも長期的には、インフラをどうすべきか理解して、願わくは非中央集権的でオープンな何かを作れると思いたい。バブルが弾ければ、最初のドットコムバブルの崩壊でインターネットに起きたような、システムからのノイズ除去が起きて、みんな意識を集中できるようになるかもしれない。一方で、ダメなアーキテクチャしかできずに、多くのフィンテックアプリは既存のものをちょっと効率的にするくらいのもので終わることもあり得る。ぼくたちは、皆が本当に非中央集権的なシステムを信頼するか、無責任な導入が人々を遠ざけてしまうかを決めるような決定を下すべき重要な時期にいる。コミュニティとしてコラボレーションを増やし、イノベーションと研究開発をスローダウンさせることなく、たんねんにバグと悪いデザインを取り除く必要があるだろう。 アプリケーションを作るより、インフラを構築する必要がある。あるバージョンのビットコインが「インターネット」になるのか、Ethereumのような他のプロジェクトが単一標準になるのかはわからない。もしかしたら、いろいろちがったシステムが、何か互換運用性を持つ形になる可能性もある。最悪の事態は、アプリケーションばかりに気をとられてインフラを無視してしまい、真に非中央集権的なシステムの構築機会を見逃し、有線のインターネットよりモバイルインターネットに似たシステムにおちついてしまうことだ――有線のインターネットはおおむね定額制だしそんなに高価ではないのに対し、モバイルインターネットは独占企業にコントロールされて従量課金とありえないほど高額なローミング料金の世界だ。 インフラとしてデザインとテストが必要な部分はたくさんある。合意アルゴリズム――個別のブロックチェーンが公開台帳を改ざんできないようにしてセキュアにする方法――についてはいろいろなアイデアがある。また、ブロックチェーン本体をどの程度スクリプト記述可能にするか、それともその上のレイヤで実装すべきかについての議論もある――どっちの主張にも一理ある。また、「プライバシと匿名性」対「アイデンティティと規制」をめぐる問題もある。 Bitcoin Coreデベロッパチームは、Segregated Witnessについて実績をあげつつあるようで、これはみんなのスケーラビリティに関する懸念の一部など多くの懸念を解決できるはずだ。一方で、歴史が浅いがパワフルで、もっと使いやすいスクリプティングやプログラミングの仕組みを持つEthereumは、ブロックチェーン上で新しい用途を設計しようとする人々からかなりの勢いと関心を集めている。他にHyperledgerなどのプロジェクトは、独自のブロックチェーンシステムとブロックチェーンにとらわれないコードをデザインしている。 インターネットは、オープンな標準に基づく明確なレイヤを持っていたからこそうまく行った。実際、TCP/IPがATM(訳注:Asynchronous Transfer Mode 非同期転送モード)――標準としての対抗馬――に勝てた理由は、ネットワークのコアが非常にシンプルで「バカ」だったエンド・ツー・エンド原則のおかげで、ネットワークの末端が非常にイノベーティブになれたからだ。この二つの標準がしばらくしのぎを削ったあげくに、TCP/IPが明白な勝者だと判明した。ATMを核とした技術への投資の多くは無駄になった。ブロックチェーンでの問題は、そもそもレイヤがどこにあるかすらわからないし、標準への合意のプロセスをどう仕切るべきかさえわかっていないということだ。 (Ethereum) Decentralized Autonomous Organizationプロジェクト、「The DAO」は、現在ぼくが見ている中でも心配しているプロジェクトだ。発想としては、Ethereum上に、コードとして書かれた「エンティティ」を作るというものだ。そのエンティティは会社の株に似たユニットを売り、投資したりお金を使ったりもできて、ファンドや会社とまったく同じように活動できる。投資家はそのコードを見て、そのエンティティが納得できるものかを判断して、トークンを買ってその投資の収益を期待する。なんだかSF小説みたいで、90年代前半のサイファーパンクだったぼくたちは、メーリングリストやハッカー集会で途方もないことを夢見ようとしていた頃に、みんなこの手の妄想は抱いたものだ。問題は、The DAO*がすでに1.5億ドルを投資家から集めていて、「リアル」なのに、それがビットコインほど検証されていないEthereumの上に構築されていることだ。そしていまだに合意プロトコルも固まっておらず、次期バージョンではまったく新しい合意アルゴリズムへの切り替えすら考えているという。 どうやらThe DAOはまだ法的に完全に記述されておらず、投資家たちにパートナーシップ上のパートナーとして損害賠償責任を負わせかねない。英語を使って弁護士たちが書いた契約とはちがい、DAOのコードでヘマをしたら、どこまで簡単にそれを変えられるかははっきりしない。契約書の言葉上のミスなら、裁判所がその意図を見極めようとすることで対応できるけれど、分散した合意ルールにより強制されるコードには、そんな仕組みが存在しない。また、コード自体が悪意を持ったコードで攻撃されかねないし、バグが脆弱性を引きおこす可能性もある。最近、 Dino Mark, Vlad Zamfir, Emin Gün Sirer――中核開発者と研究者たち――が、「The DAOに一時的なモラトリアムを」 (A Call for a Temporary Moratorium on The DAO) という、The DAOの脆弱性を指摘した論文を公開した。それにThe DAOは多分、この時点ではまだあれこれ口を出してほしくない様々な規制当局の人に対し、危険信号を発してしまうんじゃないだろうか。The DAOはEthereumにおけるMt. Gox――つまり、プロジェクトの失敗が多くの人に損をさせ、一般の人や規制当局がブロックチェーンの発展に急ブレーキをかけるきっかけ――になりかねない。 ぼくがこんな冷や水を浴びせたところで、この分野のスタートアップと投資家は猪突猛進を続けるのはまちがいないだろう。でもぼくは、できるだけ多くの人が専念すべきなのはインフラであり、構築しようとしているスタックのいちばん低いレイヤに存在する機会だと思っている。合意プロトコルをきちんと構築し、物事を非中央集権的なかたちにとどめ、過剰な規制を避けつつプライバシ問題を扱い、お金と会計を根底から再発明する方法を見つること――これこそがぼくにとってはエキサイティングで大事のことだ。 企業が研究を始め、実用的なアプリケーションを見つけるべきエキサイティングな分野はいくつかあると思う――発展途上国のソーラーパネルなど市場の失敗に直面している分野の証券化や、貿易金融など信頼の欠如がとても非効率的な市場を作り出すために標準化された仕組みが存在するような部分のアプリケーションなどだ。 中央銀行や政府も、すでにイノベーションを探し始めている。シンガポール政府はブロックチェーン上での国債発行を考えている。幾つかの論文では、中央銀行が個人の預金を直接受け入れて、デジタルキャッシュを発行する可能性が検討されている。一部の規制当局も、人々がイノベーションとアイデアのテストを規制上の安全領域で行えるようなSand Boxの構築を計画しはじめた。もともとのビットコインのデザインが政府を避けよう、というところから始まっているのに、面白いイノベーションの一部は政府の実験から登場するという皮肉な可能性もあり得る。そうは言っても、政府は、堅牢な非中央集権的アーキテクチャの開発を助けるよりも、その邪魔をする可能性の方が高いだろうけれど。 * このポストのわずか3日後に、The DAOはぼくが恐れていた通りに「攻撃」された。ここに、攻撃者を名乗る人物からの興味深いポストがある。Reddit上ではすぐに、このポストにつけられた電子署名は無効であると判断された。そして、その自称攻撃者からの別のポストでは、彼らは(Ethereumの)マイナーたちに、フォーク(訳注:攻撃によって得た利益を無効にするEthereumのブロックチェーンの変更)に賛同しないように賄賂を送ろうとしている。これが本当の攻撃者なのか、あるいは壮大な釣りなのかはわからないが、非常に興味を惹く主張だ。...

ウェイン・シルビーからのmail 内容:Re: NPO 買収と持続可能なコミュニティーについて »

日付:1999 年10 月3 日 日曜日 15:37:04 -0400 差出人::「ウェイン・シルビー」 宛先:伊藤穰一 内容:Re: NPO 買収と持続可能なコミュニティーについて ジョウイチ、君の「NPO 買収と持続可能なコミュニティー」のエッセイはよかっ た。僕がネットついて懸念していることとも重なっているからね。基本的に、主だ ったプレーヤーはほとんどが、何らかの形で金を儲けようとしている。そして、こ のゴールド・ラッシュが続く間は、ストック・オプションにとりつかれた才能をひ きつけることは不可能だという君の論点も的を射ている。 無論、君と僕は似たような状況にあって、高いリスクにみあう大きな見返りを求め る投資家に囲まれているわけだが、僕には革新的な部分もあり、非営利市場にも注 目している。僕はアメリカのいくつかの財団にあたってみて、資金面の問題を克服 し、ツールを共有できる場で僕らの仕事を形にできればと思っているんだ。 ここに仕事をもってくることの価値は、非営利の世界では利益に焦点をあてるだけ でなく、よいことを成し遂げようという共通のミッションがあることだ。従って、 これには反対意見もでるかもしれないが、知識を共有する結果を恐れることなく、 異なる組織間に適用できるナレッジ・マネジメントのツールとしても使える時期に 来ているんじゃないかと思う。その概念にそって僕たちは、GroupDOT の土台を使 い、人が連絡をとりあえるようなアプリケーションを開発中だ。 だが、僕には「統治」管理機能がどこにあるかがわからない。投資信託産業ではフ ァンドは利用者のものだが、ファンド・マネージャーと契約を結ぶ。契約は毎年認 可されなければならない。同様に、君のいうコミュニティーでは、ある種のユーザ ー団体の委員会が結成され、経営側からの代表も含めて、「マネージャー」との契 約が認可されるのだろう。利益率の説明なんかも含めてね。勿論、投資信託業界に は標準モデルがあり、インターネット業界には適正にコミュニティーを運営してい くための基準はまだない。ユーザー団体は、掲載広告の種類や頻度、基本料金、特 別手数料、情報の完全な開示、機密に関わる問題の調査などについて認可するとい うことになるかもしれない。場合によっては、ユーザー団体は、グループへの新し いサービスに対する追加の手数料の請求を認めることもあるかもしれない。 そうすれば、運営側が非営利団体のメンタリティーに侵されることもないはずだ。 運営していく人間には勝負し、価値を創造し、責任をとる場が必要だ。そして、彼 らにとっての大きな「利点」は、コミュニティーがこうした管理体制を敷くことで 信頼されるようになり、いずれより多くの質のいいユーザーをひきつけ、ひきとめ ておくことができるようになるということだ。僕はカルバート信託の会長であると 同時にその運営会社の持株会社の役員でもある。面白い力学と平衡関係が働いてい るよ。でも3 兆ドルが、ある意味こうして信頼関係が築かれているからこそ、信託 に預けられているんだ。無論SEC に監視されてはいるが、一般的に言って自律機能 2 が働く産業だ。 僕も意見が分かち合えてうれしいし、よかったらこのコメントをほかで使ってくれ てもかまわないよ。重ねて、僕にとって一番重要なのは、ユーザー団体の監視委員 会が、コミュニティーから収入をうみだすためには何が適切なのかを決めていきな がら、一定のレベルの誠実さを維持できる「基準」に焦点をあてることだ。 ウェイン・シルビー Translated by Yuki Watanabe...

マイケル・ウィルソンmail »

差出人: マイケル・ウィルソン 宛先: 伊藤穰一様 ***ジョーイ、君のノートブックは公開されているから僕がコメントしてもかまわ ないと思っていいね。いま君はとても忙しいか、時期が悪いかわからないが、時間が あったら連絡してくれ。アメリカに来る予定はあるんだろうか。僕はこっちにいるか ら会えるのを楽しみにしているよ。 「NPOの買収と持続可能なコミュニティー 草案0.1 9/21/99」最近私は、妹と、 「伊藤桃子財団」と、いま手がけている二文化間のコミュニティーの企画をどうする かという話をした。近頃コミュニティーについて考えることが多い。天野氏と私は、 日本人側は違った角度から企画をみていて、個別のコミュニケーションが重要になる ということを確認した。ヘクターと私は多文化間、多言語間のコミュニティーのサイ トについて話し合った。先日、ハワード・ラインゴールド、ジェフ・シャパード、リ サ・キンボールらとも最近のコミュニティーのサイトについて意見を交わした。 ***財団についてもっと話が聞きたいね。エコシスの詳細をしりたくてもリンクが 今つながってくれない。コミュニケーションという見地からの研究は重要なことは言 うまでもないことだ。生殖の過程では遺伝子は自然に引き継がれるが、習慣や考え方 (ミーム)を伝えていくには言語的土台が必要だ。そこに「地域性」の問題が加わっ て問題はより複雑になる。A町とB町は隣接し、共通点も多く、B町とC町、C町と D町についても同様とする。ところが、状況をA町から(任意の)M町ということに すると、些細な相違点が積み重なって膨らむ。それが最も顕著なのが言葉だろう。こ のことが、単一「文化」と文化間の関係といわれるものに甚大な影響を持つ。 妹は、最近のコミュニティーのサイトの多くは商業的過ぎると言う。ただ、コミュニ ティーのサイトのビジネスモデルがいまだ見出されていないことは誰もが認めるとこ ろだ。妹(ミミ)は、人類学的な見地から、小規模のコミュニティーとそこに所属す る人々の連帯関係について研究しているが、とくに、ネットのコミュニティーに主眼 を置いている。教育用のソフトウェア市場には十分な評価基準がなく、母親たちは結 局、たまたま店にあるものを購入することになる、と妹は言う。最も価値が高いソフ トウェアが店頭に並ぶとは限らず、広告と営業戦略で陳列がきまることが多い、と。 市場を評価し、発展させるコミュニティーを作ることは可能かもしれない。コミュニ ティーは、営利主義の広告主導で必ずしも最上のサービスを提供できるわけではない はずだ。 ***まったく!現実世界のコミュニティーのビジネスモデルだってまだ発見されて はいないんだ。アイデンティティーで繋がっているのは無論だが、それが個人間で異 なることもまた周知の事実だ。妹さんはかつてのPLATO(コンピューターを用い た個人教育システム)は検索されたのかな。あの時代から、なぜネットを基盤にした コミュニティーが機能するか、しないかについて興味深いデータがたくさんある。結 局、似たもの同士(因みに、どのような似たもの同士のグループでも言葉が共通の要 素であることに注目)が集まることになる。コンピューターのコミュニティー、カル 2 ト、ゲーム人、おたく、などなど。言葉はグループのアイデンティティーを決定する 手段で、参加できるかできないかの条件をきめる。これが評判の蓄積とか信頼の問題 ――どんなコミュニティーにあっても決定的な要素なんだが――にすりかわっていく んだ。「自分の才能は何で、それがいったいどれほどのものか」ということを知らし める第一関門だ。「すばらしい会社だろうが、一緒に仕事をしたことがない」とか、 「いい医者かもしれぬが、投資のこつはきいても無駄」というのと同じ。広告は評判 や信頼のよい指標とは言いがたい、という意見に私は賛成だね。ブランドの良し悪し が本来その目安となるべきなんだが、いまこの技術の世界にはUL のように品質を客 観的に審査する評価機関がないからね。アメリカの電化製品ひとつをとってみても、 一定の基準と安全性を満たしているどうか疑わしいものだ。ソフトウェアにもハード ウェアにも一定の規格というものはまだなく、だからこそ、粗悪な商品やシステムに いまだに粗悪なものがあるだけでなく、危険や脅威が存在する。それはある意味、い いことではある。定着した体系がないから業界のテンポが高いまま保たれるわけだか ら。ただし、それが多くの問題を引き起こす欠陥だってことは確かだ。 慶応大学の渋谷氏に、ピーター・M・リヒテンシュタインによる『ポスト・ケインズ 学派とマルクス主義の価値と価格理論への入門』を勧められた。この本のなかで、リ ヒテンシュタインは、新古典派の経済学者は市場と「需要」が価格と価値を決定する と説明している。マルクスは生産に費やされる労働が価値をきめると主張した。価値 を決定するには、対象物の実利を吟味する方法もある。単一の市場が全てを決定する という考え方は古典経済学派の社会観の産物だ。しかし、小規模のコミュニティーに おいては、大規模な市場よりも新しい型の価値と交換が適当だという可能性もある。 ***その通り。情報社会の到来間際、マルクスは重要な点を見落としていた。ケイ ンズは死ぬ前に自説の誤りを訂正したが、彼の主張した経済過程は生きながらえてし まった。(いまとなっては死んだも同然だけどね。特に、ブレトン・ウッズ体制が崩 壊してからは。)以前僕が書いた「新しい経済も古い経済も同じ」という論文を覚え てくれているかな。いまも同じテーマを研究しているんだ。当然、価値も価格も内容 次第で、個別のニーズに特化した内容をコミュニティーという見地からとらえるとい うのはひとつの考え方だ。人間関係が重要な要素となっているならなおさらだ。(エ コロジーのモデルを使うことも簡単だが、政治色がついてしまうから微妙)僕たちは コミュニティーを概念的にもっときちんと理解すべきときにきている。これまでは作 り上げていくというより自然に発生する有機体のようなものだったからね。方向性 (どこに向かうのか?いまの時点では何が良いともいえない……)を定めるにはある 程度軸をきめて、特定の要素を数値化したり相関関係をきめたりするのが第一だ。あ る事象について、また事象同士の取引関係についての経済学は、君も知っているよう にすでに存在する。だから関係そのものに注目して社会学的に議論していくのが有益 かもしれない。 最近、ケネス・E・ブールディングの『新しい経済に備えて』を慶応大学の國領二郎 教授にすすめられて読んだが、経済だけでは説明がつかず、社会学的考察が必要な分 野の議論も必要だという気がする。 ***おっと。統計理論の知識を呼びさまさないといけないみたいだね。その本のこ とはよく知らないが、社会学と経済学のはざまにある重要な要素のひとつが転換とい 3 うこと。人間関係の微細な粒子を観察するのが社会学で、同じ事象を、少し距離を置 いて抽象的にとらえると経済学になる。それに測定基準(行動誘因)をあわせて考え てみると実に面白い。 こうした意見交換と読書から、コミュニティーのユーザーがNPO(民間非営利組 織)を形成し、コミュニティーの基盤を買収するのが望ましいのではないかと考えは じめた。NPOはそれぞれのコミュニティーに適した形で統治されればいい。 ***面白いね。つまり、あのケルソーのやりかたに少し手を加えて、株式を分配し て、コミュニティーの参加者を所有者かつ事実上の経営者にするってことだね。これ は悲惨な結果まねくんじゃないか、と僕は思う。まず、人は序列をはっきりさせたい と思う傾向があるから、そこで亀裂が生じるだろう。僕は今、slashdot とandover のサ イトに注目している。slashdot は「karma」ポイントや「repcap」といわれる評価資産...

伊藤瑞子へのmail 題名: Re: Bcc: NPO 買収 »

宛先: 伊藤穰一様 差出人: 伊藤瑞子 題名: Re: Bcc: NPO 買収 いただいたエッセイに対するコメントです: 「……教育用のソフトウェア市場には十分な評価基準がなく、母親たちは結局、た またま店にあるものを購入することになる、と妹は言う。最も価値が高いソフトウ ェアが店頭に並ぶとは限らず、広告と営業戦略で陳列がきまることが多い、と。市 場を評価し、発展させるコミュニティーを作ることは可能かもしれない。コミュニ ティーは、営利主義の広告主導で必ずしも最上のサービスを提供できるわけではな いはずだ……」 消費者が十分なサービスを受けていないというだけではありません。開発者もまた 不利益を被っています。実際、業界の資源の大部分を囲い込み、コンテンツを一定 の仕様にしむけようとする流通と営業の密な層があるのです。例えば現在、ディズ ニー、ルーカス、バービーやシンプソンのようにライセンスされるブランドの力な しには子供向けのソフトは売れないという業界の不文律があります。それではそう したブランドに属さない開発者がやっていくことも、新たなキャラクターを開発す ることもできない。教育用のソフトウェア産業が「成熟している」ということは、 利害規模がより大きくなり、影響力をもち続けていくには強力な後ろ盾が必要だと いうことです。さらに、近頃の予算の大方は営業と流通にまわされるため、質のい い製品を開発し、創造していくお金はそれだけ少なくなります。 「単一の市場が全てを決定するという考え方は古典経済学派の社会観の産物だ。し かし、小規模のコミュニティーにおいては、大規模な市場よりも新しい型の価値と 交換が適当であるという可能性もある。」 おっしゃるとおりです。そして、全体論的な視点から、市場経済のみによらない交 換のしくみをみてみると、現実には狭義の経済的な意味での「実利主義」に基づく 需要と供給ではないあらゆる類の「経済」で人々が行動していることがわかりま す。贈与に関わる経済がそのひとつですが、ほかにもあらゆる種類の「価値様式」 に基づいて人は日々行動しています。男女間の交渉、家族の「家庭」経済、専門職 のコミュニティーの地位経済、出版業界の引用経済、など、あらゆる種類の文化資 産は、つい最近になってから評価され始め、貨幣制度の支配下におさめられたもの です。子供のソフトウェアに関して言えば、勿論、両親も子供もより「価値が高 い」ものを欲しがりますが、もっと気になるのは、よその子供が何で遊んでいるの か、学校の履修科目と関係があるのはどれか、ということですし、十五分しか買物 の時間がないときウォルマートにたまたま並んでいるもので済ませてしまうという こともあります。商品の選択は、そうした身の回りの状況に左右されてしまうのが 現状です。一方、開発に費やされた労力がそのまま製品の価格につながることはも はやありません。価値も価格も、ものの交換を促すある種の集合的な社会制度が生 み出す結果で、投入された労働力や価値によって定められるものではないことのほ うが多い。文化的な商品の価値は容易に還元できるものではなく、様々な要素が複 雑に絡み合っているのです。 2 「中村隆夫氏によれば、官僚的な統治機構をもつNPOは職場としては退屈かもし れない。オースティン・ヒルも、ISPが協同組合によって運営される体制では、 委員会は退屈な人の巣になり、決断は遅れるだろうと警告している。組織がヴィジ ョンあるリーダーに導かれて迅速に取引し行動をおこせるような、活力と刺激にあ ふれた統治モデルを考案しなければならない。」 この例はあるのでしょうか。これは統治モデルだけでなく、実際に関わる人たちの 人格の問題もあると思います。離れた場所から、何人でもプログラムにログインで きるMUD(Multi-user Domain)などは、その縮図といえるかもしれません。 「政治的にはこのNPOは国家に似ている。そこには強い信念、政治、思考、知性 ある人々と、ヴィジョンが存在しなければならない。現在の広告と市場を極上とす る消費者市場以外に興味のない人々は関わるべきではない」 おそらく、参加形態が異なるいくつかの層ができるでしょう。繰り返しますが、M UDを見る限りでは、統括者、ウィザード、一般の参加者まで様々です。子育ての 支援組織、二文化間の交流を目的としたサイトなど身近な要求を満たしてくれる特 定のコミュニティーを通じてより広いコミュニティーに参加する人がほとんどじゃ ないかと思います。より大きな枠組みや統治モデルはえてして一般のユーザーには 見えにくい不透明なこともあるかもしれませんが、参加を通じて組織は支持される ことになります。当然、ウィザードは大儀を掲げ、コミュニティーがうまく機能す るようにヴィジョンにそって仕事をしていかなければなりませんが、ユーザーにと っては機能しさえすればいいのですから。そこをある特定のニーズを満たす最上の 場所とすることが第一です。大雑把な言い方をすれば、インターネットが全体とし て機能するのは、様々な事柄について大勢の人間が大儀を掲げて活動しているけれ ども、そうした活動家や彼らのミッションには無関心なユーザーもまた大勢存在す るからなのです。ですから、文字通りの共同体モデルというよりも、ある種の中間 的なモデルを考えたほうがいいのかもしれません。 「寄付のほか、インフラと商品の直接購入で浮いたお金を資金源にすることもでき る。組織基盤を所有するのはユーザーとなる。ネットイヤーの磯崎氏は主要なイン ターネット企業のほとんどはユーザーが所有しているとおっしゃっていた。私の考 えでは、大きな違いは株主が安易に退出することがなく、ただ投票権があるだけだ ということ。このため、投機目的の資本家は締め出され、歳入の成長からユーザー の満足度に経営の中心が移るだろう」 ええ、市場競争ではなく、社会的な人気投票のようなものですね。下でおっしゃっ ているように、政治経済的に雑多な立場が混在するということ。 「若く聡明な官僚と、説明責任の欠如に関する学会の論争に、私は耳を傾けてき た。彼らの大勢が、社会変革のための具体的な政策は無視されるか実行されないか のどちらかだと感じている。オプション価値のようなもののために仕事をすること に慣れているからだ。的確に組織さえすれば、学会や政府の仕事に従事する人々の コミュニティーから統治モデルを作ってゆく人材資源を確保することは可能かもし れないと私は感じている。地球ネットワークの政策立案者がコミュニティーとネッ トを活用して、経済的にも世界的な視点で見ても確実な技術研究と提案に行ったと すれば、そうした提案は疑いもなく「正当な」ものとして、その政策との距離が、 従順な政治家の政治力につながる可能性もある。そうした団体は、「ヴィジョン」 3 について世間的に高い評価と世界的な認知を得ることができる。これは、共同購入 と主要な資産の買収とあいまって、コミュニティーが国家的な規模に成長すること につながるかもしれない」 いまの営業と流通システムは、ネットならば回避することのできる多くの物理的地 理的な制限を受けていた時代に形成されたものです。在庫の問題、書類の配布、店 頭のスペースの確保など。いまは、ネットが商業化されはじめたばかりでまともな ネット上の流通システムが存在しませんが、私たちにとっては好機だと思います。 つまり、古いシステムはネット上でまだうまく再現されていないということ。そろ そろ新しいモデルが必要になるでしょう。おっしゃるとおり、学界にはこういうこ...

NPOの買収と持続可能なコミュニティー »

最近私は、妹と、「伊藤桃子財団」と、いま手がけている二文化間のコミュニティ ーの企画をどうするかという話をした。近頃コミュニティーについて考えることが 多い。天野氏と私は、日本人側は違った角度から企画をみていて、個別のコミュニ ケーションが重要になるということを確認した。ヘクターと私は多文化間、多言語 間のコミュニティーのサイトについて話し合った。先日、ハワード・ラインゴール ド、ジェフ・シャパード、リサ・キンボールらとも最近のコミュニティーのサイト について意見を交わした。 妹は、最近のコミュニティーのサイトの多くは商業的過ぎると言う。ただ、コミュ ニティーのサイトのビジネスモデルがいまだ見出されていないことは誰もが認める ところだ。妹(ミミ)は、人類学的な見地から、小規模のコミュニティーとそこに 所属する人々の連帯関係について研究しているが、とくに、ネットのコミュニティ ーに主眼を置いている。教育用のソフトウェア市場には十分な評価基準がなく、母 親たちは結局、たまたま店にあるものを購入することになる、と妹は言う。最も価 値が高いソフトウェアが店頭に並ぶとは限らず、広告と営業戦略で陳列がきまるこ とが多い、と。市場を評価し、発展させるコミュニティーを作ることは可能かもし れない。コミュニティーは、営利主義の広告主導で必ずしも最上のサービスを提供 できるわけではないはずだ。 慶応大学の渋谷氏に、ピーター・M・リヒテンシュタインによる『ポスト・ケイン ズ学派とマルクス主義の価値と価格理論への入門』を勧められた。この本のなか で、リヒテンシュタインは、新古典派の経済学者は市場と「需要」が価格と価値を 決定すると説明している。マルクスは生産に費やされる労働が価値をきめると主張 した。価値を決定するには、対象物の実利を吟味する方法もある。単一の市場が全 てを決定するという考え方は古典経済学派の社会観の産物だ。しかし、小規模のコ ミュニティーにおいては、大規模な市場よりも新しい型の価値と交換が適当だとい う可能性もある。 最近、ケネス・E・ブールディングの『新しい経済に備えて』を慶応大学の國領二 郎教授にすすめられて読んだが、経済だけでは説明がつかず、社会学的考察が必要 な分野の議論も必要だという気がする。 こうした意見交換と読書から、コミュニティーのユーザーがNPO(民間非営利組 織)を形成し、コミュニティーの基盤を買収するのが望ましいのではないかと考え はじめた。NPOはそれぞれのコミュニティーに適した形で統治されればいい。 例えばAOLのように大規模なコミュニティーのユーザーがAOLを買収して非公 開にするような場合が考えられる。また、コミュニティーの様々なツールを集め、 NPOを運営し、ユーザーと寄付金・税金が増えるに従い、NPOがより多くの技 術と資源をえることができるようになる場合もあるだろう。 これについてはいくつか考えられることがある。 中村隆夫氏によれば、官僚的な統治機構をもつNPOは職場としては退屈かもしれ ない。オースティン・ヒルも、ISPが協同組合によって運営される体制では、委 2 員会は退屈な人の巣になり、決断は遅れるだろうと警告している。組織がヴィジョ ンあるリーダーに導かれて迅速に取引し行動をおこせるような、活力と刺激にあふ れた統治モデルを考案しなければならない。 政治的には、このNPOは国家にも似ている。そこには強い信念、政治、思考、知 性ある人々と、ヴィジョンが存在しなければならない。現在の広告と市場を極上と する消費者市場以外に興味のない人々は関わるべきではない。 寄付のほか、インフラと商品の直接購入で浮いたお金を資金源にすることもでき る。組織基盤を所有するのはユーザーとなる。ネットイヤーの磯崎氏は主要なイン ターネット企業のほとんどはユーザーが所有しているとおっしゃっていた。私の考 えでは、大きな違いは株主が安易に退出することがなく、ただ投票権があるだけだ ということ。このため、投機目的の資本家は締め出され、歳入の成長からユーザー の満足度に経営の中心が移るだろう。 日本はそうした事業を始めるには面白い場所だと思う。アメリカのハイテク事業は 「成長」企業と分類されるには150%もの成長率が要求される。そうみられなけ れば、オプション価値もない。オプション価値がなければ、働きづくめで疲れ果て たハイテク企業の従業員をひきつける魅力はない。彼らにとっては、今シリコン・ バレーでお金を稼ぐのは実に容易なことであり、逆にそれなしに人々を惹きつける のは不可能に近い。日本は景気が低迷しているため、仕事が面白ければ何とかやっ ていける程度の報酬でも喜んで仕事をする人材に乏しくないのだ。 いずれアメリカの成長にはブレーキがかかり、オプション価値も下がる、と私は考 えている。そうした状況下では、成長モデルをもとに発展した経営機構と倫理では 才能を管理しきれないのではないだろうか。もしもNPOが明確なヴィジョンをう ちだし、能力のある人材をオプションなしに確保することができれば、そうした組 織は、シリコン・バレーの市場で景気が後退した局面で幻滅した人材を活用するこ とができるかもしれない。 若く聡明な官僚と、説明責任の欠如に関する学会の論争に、私は耳を傾けてきた。 彼らの大勢が、社会変革のための具体的な政策は無視されるか実行されないかのど ちらかだと感じている。オプション価値のようなもののために仕事をすることに慣 れているからだ。的確に組織さえすれば、学会や政府の仕事に従事する人々のコミ ュニティーから統治モデルを作ってゆく人材資源を確保することは可能かもしれな いと私は感じている。地球ネットワークの政策立案者がコミュニティーとネットを 活用して、経済的にも世界的な視点で見ても確実な技術研究と提案に行ったとすれ ば、そうした提案は疑いもなく「正当な」ものとして、その政策との距離が、従順 な政治家の政治力につながる可能性もある。そうした団体は、「ヴィジョン」につ いて世間的に高い評価と世界的な認知を得ることができる。これは、共同購入と主 要な資産の買収とあいまって、コミュニティーが国家的な規模に成長することにつ ながるかもしれない。 一方、コミュニティーは威圧的であってはならず、主体的にヴィジョンをもって一 体となったユーザーの利益に貢献しなければならない。企業、政府やそのほかの外 郭団体などは、このコミュニティーと伝統的な市場その他の両方のニーズにこたえ ることが可能だ。このコミュニティーは持続可能な、或は、市場の孤島といってい 3 い程度のものだろう。 -- 9/22/99 One Galaxy の高野氏に会ったが、彼は私の考えに概ね賛成してくれた。「退出のな い」ビジネス・モデルについて語り、私たちはよく似た考えをもっていることがわ かった。コミュニティーへの基盤の提供はビジネスにはなりえないだろうか。それ は「退出あり」のビジネスでもいいし、コミュニティーへのサービス提供を目的と した持続可能な程度のビジネスということもありうる。重要なのは規模の経済を実 現し、コミュニティーの乗り換えを防げる程度の妥当な価格を打ち出すということ だ。あらかじめ基盤の乗り換えコストを高く設定しておくという手もあるが、これ は特に必要ではない。 信頼について……e-bay を使い、國領先生に信頼とe-bay の価格設定について話した 後。コミュニティーにおける信頼の役割は技術やブランドによせる信頼のそれより も大きいかもしれないということだ。私自身、最近e-bay で万年筆を買ったが、小...

以前から気に入っているアレックス・ド・トクヴィルからの引用 »

『アメリカの民主主義』 1835 年執筆 大学時代に出会った文章だが、時をへた今も共感できる。 時折、抜きんでた向上心を持つばかりに、踏み固められた道をただ歩むことにあき たりぬ進取的で野心的な人物が、民主的な社会において決起行動をおこすことが実 際にある。そうした革命好きな輩は変革を叫ぶが、彼らの追い風となるよほどの大 事件でもおこらない限り、実際に変革をもたらすことは難しい。時代と国の精神に 逆らいながら有利に戦い続けられる者などいない。彼がどれほど強力な力をもつこ とになろうが、おおかたの感情や欲望とは相容れぬ感情や意見を、同時代の大衆と 共有できるようになることはまずない。 身分の平等が社会の規範として長らく一般に認められ、国の性格を決定づけるもの として定着したとしても、人々が、軽率な指導者や粗野な革新者がまねきうる危険 に簡単に運命をゆだねるようになると考えてはいけない。人々は、考え抜いた、或 いは、予め練りに練った策略をもってあからさまに抵抗するわけではない。真っ向 から精力的に戦いはせず、たまに賞賛さえするが、ついていきはしない。激しさに は惰性で、革命志向には保守的興味で、冒険への情熱には家庭嗜好で、天才のひら めきには良識で、詩情には散文的退屈さで抵抗するのだ。多大な努力をもって革新 家は大衆を高揚させるが、大衆はたちまち彼のもとを去り、その重さに従って再び 落ちていく。彼は無関心でばらばらな群集をたちあがらせようと躍起になり、つい には、征服されたためではなく、孤独であるために自分はもはや無力なのだという ことを思い知らされる。 Translated by Yuki Watanabe...

ジョン・ヴァスコンセロ氏との昼食 »

ジョン・ヴァスコンセロ氏と昼食をとったが、信頼するにたる人格、自信、そして リーダーシップなどについて、素晴らしい会話ができた。 ジョンは「アメリカの新しい信頼関係」と題する論文を執筆中で、彼が考えている ことは、私が信頼関係の重要性について考えていたこととつながることが多かっ た。私は経済同友会に書いている記事にこれらの着想を盛り込んで書き直した。 ジョンは、自信はきわめて重要な人間の感情だという。一方、彼の人間観とは相容 れないものでもあるらしい。「人間は性悪な怪物で、飼いならされなければならな い」と同時に、カール・ロジャースが言うように、「先天的に建設的で、生きるこ とに肯定的で、責任があり、信頼に値する」とも言える。ジョン曰く、「共和党の レッセフェールも民主党の管理統制も、我々人間にはあわない。ありのままの性質 を受けとめること。協調だけが賢明なやり方だ」 リーダーシップについて、ジョンは、「真の指導者とは、その人が存在することで 他の人間がそれぞれ自分自身のリーダーになる能力が自分には備わっているのだと 認識できるような人格をもつ人間のことだ」と言う。とりわけ、自尊心、権力とい った意味での彼のリーダーシップの考え方に、私は興味をそそられた。ジョンの定 義は実に的を得ているんじゃないだろうか。今の日本社会での私自身の立場によく あてはまるし、私が座右の銘としているティモシー・レアリーの「権威を疑い、自 分で考えて行動しろ」という有名な文句の姿勢とも一致している。 二人の山岸氏は、信頼するに足る人格がどういうものかについてはあえて触れず、 信頼そのものについて述べている。ジョンの話の後、私は、信頼するに足る人格を 持つこと、自分が信頼に値する人物であると思えるようになることは、信頼そのも のより重要であり、達成困難なことであると考えるようになった。 最後に、ジョンの自信についての考え方をきいて、私の犯罪に関する思考が深まっ た。警察庁のコンピュータ犯罪取締法がらみで最近犯罪について考えることが多い が、人間観によって、犯罪に対する政策は全く異なったものになる。恥と罪意識に 導かれ人は従順になり、自信に導かれて信頼にたる人間となる。 銃規制については、ジョンは明らかに銃の保持に反対だったが、支持者の議論にも 寛容で、実に複雑な問題だと考えているということだった。 Translated by Yuki Watanabe...

ダニー・ヒリスと「時間」 »

ジョン・ブロックマンの「億万長者の晩餐会」で、Thinking Machines から転職して 現在Disney Imagineering R&D の副社長であるダニー・ヒリスと話す機会があった。 ダニーは一万年間機能しつづける時計を開発しようと考えているらしい。それで 「時間」の話になり、私は武邑先生に教わった日本人の「間(ま)」の概念を簡単に 説明した。日本人の時間の感覚は中国の水時計に端を発するもので、円形の日時計 が起源ではなかった、つまり、空間と時間の両方をさしての「間」の考え方のほう が自然だ、と武邑先生はおっしゃっていたことがあった。ダニーは日本には早い段 階でいわゆる日時計があったかどうかを知りたがった。実際、中国人は西洋人に先 駆けて日時計をもっていたのではないかと考えていた。 ダニーはねじまき時計も良いけれど、放っておくととまってしまうだろうからあま り良い考えとは思えない。だからチャイムにねじ仕掛けをすればいいんじゃないか と思っていると説明してくれた。彼は伊勢神宮にも触れたが、ここでは新しい社が 古い社の隣に定期的に建設されるため、常に新しい建物を使っていられるのだとい う。私は、時計の部品を定期的に交換し続ければ、いずれ全ての部品が交換される ことになるんじゃないかと提案してみた。我々自身の体がそうであるように。ひと つのものとしてではなく、パターンとして。 私は武邑先生にいただいた論文をダニーに送り、エドワード・ホールの『文化を超 えて』を添えた。ダニーはエドワード・ホールが言及している「ポリクロニックな 時間」と「モノクロニックな時間」の概念を知らなかったからだ。 エドワード・ホールは時間と空間を軸にして直線的にとらえる文化があるという。 これにより発展もまた計測可能なものとして整理されるが、それだけがかならずし も人間の常識にそったやり方だとはいえない。中東の官僚は、しばしば、いちどき に訪問者を呼び、スケジュールではなく自らの優先事項に基づいて重要だと感じる ことから始める。仕事が多すぎるときは既存の組織を拡大するのではなく、別の組 織を結成する。西洋では組織は拡大し続けるが、モノクロニックな文化の中では小 さな組織が増えていく。何にせよ、興味深いテーマであり、すばらしい本だ。 以下は武邑先生の「間」に関する論文。 日本語で「間」とは、時間と空間の両方を指す言葉です。645 年の大化の改新以 前、この国には時間という概念はなかったといっていい。大化の改新を経て、よう やく漏刻(ろうこく)と呼ばれる中国の水時計の使用が始まり、時間の概念が生ま れたのですが、水時計は空間の間の概念だけを発展させたようです。以下、拙文を ご参照ください。では宜しく。武邑光弘 2 「間」について 武邑光弘 九年前の冬、デリック・ド・カーコフ教授が指揮する、テレビ会議でフランス、カ ナダ、日本をつなげるプロジェクトのため、トロント大学のマクルーハン学部を訪 問したときのことだ。そのとき、デリックは頻繁に、日本の「間」、あるいは「間 隔」という概念を、長距離通信で使う映像の伝達における時差と重ね合わせた。時 間と空間の両方を意味する「間」の構造に彼が焦点をあてていたことは実に興味深 かった。今日の日本にあって、こうした「間」の概念はどれほど意識されているの だろうか。日本で生まれ育った私だが、フランス系カナダ人のデリックの熱のこも った議論に言葉をうしない、曖昧な態度をとりつづけていた。予期せずしてつきつ けられたこの「間」という言葉から連想して、ジョン・ケイジが唱え、1970年 代の音楽シーンで物議を醸した東洋と西洋の音の構造の決定的な違いを私は思い出 した。そして、突如として抽象的な思考への扉が開かれ、能や茶の湯に代表される 日本の伝統美の奥深い世界が目前にひろがっていく喜びを感じた。 文化的DNAといってもいい、日本の伝統に関する決定的な体験の蓄積が、私の中 で呼吸していた。日本語で時間は、「時」という漢字と、空間を表す「間」という 漢字で書かれるが、私は不意に、「間」という言葉をメディア(媒体)という意味 におきかえてみた。間をおくという言葉には時間の概念が含まれているが、六畳間 の「間」は和室をさし、人は即座にその空間を思い描くことができる。西洋におい ては、長い間、いったいどうしてこの一語が時間と空間の両方を意味するのかとい う議論がなされてきた。メディア、中間に位置するもの、という概念は、時間と空 間の間隔をあらわし、それはウェブの概念にも似ている。 内的な世界を人を知らぬ間に紡いでいくウェブの機能は、メディアを理解するうえ で最も重要な概念だ。広範囲に渡る一方通行の従来のメディア・ネットワークは、 ネット(網)という言葉に象徴されるように、大衆を集めて網に捉えるという観念 を反映したものだった。ウェブを擁護し、著作権の保護に反対してサイバーパンク に決定的な影響を与えたハキム・ベイは、ウェブはこの類のネットではなく、ばら ばらに存在する情報源を相互の交信網として主体的に編み合わせたコミュニケーシ ョン手段であると表現している。それはソフィーの哲学、つまり、自由で自然な周 辺世界との交流を中心とした「旅」にもたとえられる。 従来の大衆社会においては、大量生産の広告とメディア装置を中心とする流通機構 の内部にいなければ、優れたコンテンツがあったとしても注目を浴びることは困難 だった。インターネット社会、またはデジタル社会は、これまで長期間の広範囲に 渡る浸透を条件としたこの流通機構を解体することになる。そして、コンテンツと その関連事項が瞬時に時間と空間のウェブを形成すると、「サイバー空間の間」と いうような時間と空間をつなぐ中継点が作られる。時間と空間の溝を埋めた従来の 流通機構とは対照的に、ウェブは「間」の柔軟な軸のおき方と、時間と空間に対す る古来の考え方に基づいている。この意味で、無料のコンテンツとウェブは、サイ バー文化にあっては、真に新しいメディア機構であるといえる。ネットワークとい う言葉は、ウェブワークに換えたほうが妥当だろう。 インターネットは、著作権に規定されていた枠組みを自由な情報交換に置き換え、 3 ウェブという時間と空間の合間に束縛のない交信地を構築することによって新たな 次元のメディアを広く普及させてきた。そのため、ウェブワークによって生まれた 特殊な距離間隔が保たれることになる。速度と遅延、圧縮と拡大――こうした機能 により、現在のサイバー空間は自由に編集され、形作られてゆく。ウェブ上の無数 の種族によって編み出された時間と空間は、「間」の美を具現化したともいえる。 日本で毎年6月10日が「時間の日」であるという事実はあまり知られていない。 70 年以上も前、1920 年にこの日が「時間の日」と定められたことは、1300 年遡り 671 年、飛鳥時代の旧暦4 月25 日(太陽暦の6 月10 日)に日本初の水時計(漏刻) が作られたことに由来する。今日、その意味を知っている人は少ないが、それは日 本史上で極めて重大な事件だった。というのは、それまで日本には時計というもの が存在せず、日本人には時間の概念が全くなかったからである。現実に目に見えて...

1998 年12 月5 日 勉強会 »

1998 年12 月5 日 勉強会 xml version="1.0" 参加者 國領、中村、森田、渋谷、水島、御手洗、Yeum、永田、伊藤、野原、山田、佐藤 議題: マクルーハンはXML についてどのような意見を述べただろうか? EDI はマーケティングと広告の崩壊をもたらすのだろうか? ブラウはリナックスについてどのような見方をしただろうか? OSS は商業ソフトウェアの崩壊をもたらすだろうか? 参考文献 マーシャル・マクル-ハン 『グーテンベルクの銀河系:活字人間の形成』 ピーター・M ・ブラウ『交換と権力』 リンク · マーシャル・マクルーハン o 熱いメディア・冷たいメディア http://www.regent.edu/acad/schcom/rojc/mdic/mcluhan.html http://www.stanford.edu/~xinwei/pub/img/media/McLuhan/UnderstandingMedia.html · XML XML.COM · オープン・ソースのソフトウェア o Halloween Documents o Homesteading the Noosphere Translated by Yuki Watanabe...

國領二郎氏・森田正隆氏との討論会 »

参考文献: K.J. アロウ,『組織の限界』 ロナルド・コース 『企業・市場・法』 チェスター・バーナード 『経営者の役割』 マーシャル・マクル-ハン 『グーテンベルクの銀河系:活字人間の形成』 討論会では、まず、アロウ、コース、バーナードが論ずる、組織の必然性と形成過 程をとりあげた。バーナードの論評は、同じ議論の繰り返しか重要度の低い論点が 大半だったが、組織について考えていくうち、知らぬ間に、バーナードの枠組みと 隠喩を使っていたことが度々あった。組織はいわゆる経済要因をより効率的にする 単なる手段なのではない。ヴィジョン、権限、責任といった多様な要素を機能させ ることも組織の存在理由である、というのが議論の主点。この点については、バー ナードの説明が最もわかりやすい。 さらに、組織の存在理由とは何かについてより深く考えていくことにした。國領氏 は、我々は協力するために協力することがないだろうか、という疑問を呈した。幸 福になるとはどういうことだろう? ただ組織に所属することで人は幸福になった 気がすることもある。これは、「そもそも実利とは何か」という問いにも通ずる。 経済の目的が社会の実利を最大化することで、より多くの実利を得て人は幸福にな れるのだとすれば…… 「生命、自由、幸福の追求」は、アメリカ合衆国憲法そのものだ。だからまず、実 利以前に、幸福とはなにかという議論からはじめなければならない。これは、アレ ックス・ド・トクヴィルの「アメリカには平等はないが、機会と『自由』がある」 という考察につながる。人は自ら選んで幸福になるというが、自由は、実はひどく 奇妙な幸福のかたちをしている。なぜならば人は幸福になるためにあくなき向上心 を持ち続け、達成困難な目標をひたすら追い続けなければないから。サイモンは向 上心と充足感の実利効果について論じていたが、仮にこのように幸福を定義するな ら、我々の幸福にかかわる多くのものが本当はお金では買えないものであり、実利 効果とは関係がないことは言を俟たない。 マルクスの表現でいえば、労働こそが主たる価値で、貨幣価値が労働価値にとって かわることはない。ボールドリラードならば象徴的価値が幸福を呼ぶと、ゴールド ハーバーならおそらく注目されることで人は幸せになれるというのかもしれない。 とはいえ……お金で買えるものは実に沢山ある。重要なもので、私たちを幸せにし てくれるもので、本当にかえないものってあるんだろうか。それは何だろう?どう すれば手に入るんだろう?興味は尽きない。 Translated by Yuki Watanabe...

チェスター・バーナード著『経営者の役割』を読んで »

チェスター・バーナード著『経営者の役割』を読んで 伊藤穰一 1998 年10 月4 日 今『経営者の役割』を読み終えたところだ。難解な文体で、バーナードが結論にた どりつくまでの過程を正確には思い出せない。本自体は読み進むにつれ面白くな り、著者の論点は経営者としての私自身の経験とも重なる点が多かった。もしかす ると、彼の結論の多くが自明でまわりくどく思えたのはこのせいかもしれない。 協力、調整、組織、決定、経営機能、責任、倫理というように築かれていくピラミ ッド型の組織のモデルはよくわかるが、私の頭の中では知識以前にあたりまえのこ とだった。 彼の責任と倫理の区別、また、公式、非公式に関わらず、組織は利益が倫理と相反 する個人を抱えるものであるという概念はわかりやすいが、それほどかたく考えな くても、よく知られ、理解されている概念だと思う。 経済価値の異なる要素が組織内で実利的に変換、交換され、実利効果は交換の機能 であるという考え方は面白く、価値交換の考察にはわかりやすい方法だ。また、資 金と資産は組織の経済の一面しか反映しないという考え方は真実で、私が考え続け ていたコンテクストと文化の価値の議論に通ずるものがある。 恐らくこれ以上書く前に國領先生と話した方がいいだろう。バーナードは私にとっ て当然と思えることばかりを書いている。とはいえ、もしも私が一緒に仕事をする 経営者がみなバーナードを読んで彼の考え方にそった行動をとっていれば、仕事は もっと楽になるだろう。 1999 年2 月15 日 もうすこし早く書きとめておくべきだったが、組織について考えたあと、バーナー ドが組織について重要なことを論じていたことに気づいた。組織が市場の延長だと 考える経済学者は多いが、バーナードは、取引を効率的にする以外の組織の存在理 由を数多く挙げている。もう一度バーナードに戻ったほうがいいかもしれない。特 に、フランシス・フクヤマ氏の信頼についての著述を読んだいま、バーナードを再 考する価値があるだろう。 Translated by Yuki Watanabe...

ケネス・J ・アロウの『組織の限界』に関するコメント »

ケネス・J ・アロウの『組織の限界』に関するコメント 1974年(Fels Center of Government) この本の中でアロウはまず、価格システムが、競争を介し全ての物事を公正にする 仕組みとしては十分ではないことを主張している。企業や政府といった組織は、誰 もが最大の利益が得られるような決定をし、資源配分をするといい、なぜ組織がよ り効率的なのかを説いている。権威は組織が権力を行使するために、なくてはなら ないものであり、過ちを最小限にくいとめるために必要なのは責任である。権威と 責任の均衡が重要だ。 彼が言うには、「単純に論ずることはできない。収入の妥当な分配を可能にする単 純な理論があるはずだというような主張をくりかえす素人ばかりで、本当に経済を 語れる経済学者は皆無だ。それでは、価格システムはそれ自体弁護できるような収 入の分配のしくみがないことが主たる欠陥だ、ということになる」これは私と妹の ミミのCEO の報酬についての議論と似ている。価格のメカニズムだけでは不十分 で、軽量しがたい価値は数多く存在する。アロウは、続いて信頼に言及する。「い ま、信頼には、非常に重要で有用な価値がひとつだけある。それは信頼が社会制度 の重要な潤滑油だということだ。信用は、他人の言葉がある程度信用できれば問題 の多くが回避されるという意味で、社会の効率を極めて高くする。不幸にして、こ れは簡単に購入することができない品物だ」組織の権威とそれに対する信用があれ ば、信頼が築かれ、システムの効率は高まる。 この信頼の概念は、日銀の人たちが彼らの貨幣の保証になっているという常識に似 ている。組織は信頼を管理でき、権利と責任の均衡が組織の能率をあげる重要な要 素ならば、権威と責任の均衡が社会の信頼度を示し、ひいては貨幣への信頼度を保 証するものになるとも言える。 アロウは組織の中で人が情報交換し、意思決定をすることを可能にする「コード」 にもふれている。組織は情報処理の効率を最大限にし、より多くの「経路」を作る ことでよりよい決定が下せる。組織の内部にいる人々は、「コード」を使って情報 を交換し、内外に通じる経路を保っている。アロウはこれらの経路が発達し、維持 され、意思決定に利用される情報の収集に使われる方法も解説している。また、 「この情報の定義は質に関わるものだ」とし、かつ、「A が真実かどうかを知るこ との価値は、B の真実の価値をしる価値よりもはるかに大きいこともありうる」と も述べている。 従って、活力のある組織には、権威と、責任と、質のよい情報を最大限活用したよ い決定を促す手段が必要である。組織は、どのように価値の高い情報を集め、組織 内での交換を促せばいいのか。アロウは、資本投資と経路の偏向にもふれている。 つまり、個人も組織も、ある特定の経路に固執しがちだということだ。急速な変化 が必要な環境では、これらの経路を立て直し、情報の質を見直し、かつ権威を保つ ような何らかの手段を講じる必要がある。 Translated by Yuki Watanabe...

文化の保護と育成:情報化時代の資産 »

今また妹と話したところだ。ビリヤードができ、これまでになく粋な小皿料理が饗 され、造りは工業アート風、すべてじつに「お洒落」でよくはやりそうな新しいタ パス・レストランの話をきいた。ただし見栄えはいいものの、そこには独創的な本 物のよさがなく、フランチャイズ色が濃すぎたということだ。チェーン店はサンフ ランシスコの地域性をなくしてしまうというので、フランチャイズを禁止しようと いう動きも一部でてきているらしい。妹も、こうした傾向を文化の商品化と呼び、 なんとか阻止するべきだと考えている。 1998年8月26日、國領先生のeコマース研究会では、服飾のワールド社の人 の発表があった。ワールド社では、流行に対応するためPOS データを使って回転率 をあげているということだ。現在、POS データをうけとってから二週間程度で店舗 に新しいデザインの洋服を並べることができる。これで大成功したブランドがある らしい。私の感想と懸念は、それらが、流行が文化を消耗する速度を上げてはいま いかということだ。流行のもろさと、基盤がしっかりとした文化、または、ミド ル・アメリカの多様性のようなものの欠如が文化の軽視につながり、経済的な誘因 ばかりで内容の方向性が決められるようになってしまうのではないか。 京都造形大学の武邑先生は、京都の染物職人について話をされた。彼らはヨーロッ パの有名ブランドと定期的に交流しているという。ヨーロッパ人が京都の染物文化 を吸収し、それがオートクチュールのデザインの決定要因になっている。そこから 世界中のブランドが流行を感じとり、その文化が世界に広まっていく。染物を通じ て京都の染物師達は、周期的なものとはいえ流行の決定に貢献しているのだ。 エコロジストが大気汚染のコストを論じるときと似た議論は、文化の商業化や消耗 についても使えるのではないか。文化資本を厳格に評価する経済、組織のモデルが 考案できれば、資本組織の中での価値交換とその経済との関係が文化を保護する枠 組みを作っていける可能性はある。そうすれば徐々に、無秩序になりつつあった市 場や流行を安定させることができるかもしれない。文化は情報経済のもっとも重要 な安定剤となりうる。 (いわば、ぬかみそのようなものかな……;-P) Translated by Yuki Watanabe...

1998 年8 月26 日のノートから 『企業の本質』ロナルド・コース »

1998 年8 月26 日のノートから コースは、組織としての「企業」を、雇用主と従業員、主人と従者の関係を決定する ものと定義づけている。いわゆる「簡素派」の人々の解釈だ。そして、企業の雇用 の必要性は企業の取引コストの最適化で説明できると説く。 興味深い主題で、他の理論も厳密で有益だが、コースの結論と論理は彼が論破しよ うとしている理論と同じ意味で限界がある。 まず、企業が数種類の製品分野に進出していても企業の規模が適正であるかどうか をあらわす曲線があるはずだという考え方は、多少短絡的だ。また、企業内に存在 し、企業の体力や価値をきめる知識や競争力についての彼の分析にはあまり深みが ない。無論、彼が論文を発表した1937 年当時はシリコン・ヴァレーもネット企業 も存在しなかったが、あの時代に企業に生命を与えた規模の拡大と取引コストの減 少を可能にする技術革新が、既存の枠組みを超えるネット企業やコミュニティーを 生み出したのだ。 企業の定義をと評価基準をきめる論文としては面白かった。 1999 年2 月16 日 あと知恵だが、岩村さんと話してみるととくに、コースは企業を市場を超えたもの として捉えていたようだ。私がコースに言及すると、岩村さんは、コースがはじめ にそれを考え付いたわけではないとおっしゃっていた。どちらにしても、岩村さん のような人たちは、すべて市場の延長だと言うのだろうけれど。 Translated by Yuki Watanabe...

チャンドラーについての走り書き 「目に見える手:アメリカのビジネス界における経営革命」 »

チャンドラーについての走り書き 「目に見える手:アメリカのビジネス界における経営革命」 1998 年8 月23 日 大量生産 対 ニッチ 鉄道の先行権 対 個別の技術層 資産ピラミッドの底辺 保険? 縦型の統合 計量可能な資本集約型の製品への依存 規模 + ビジネスの類似型 (サイモン + 複雑さ) 7の法則? 株価市場査定… 情報条件 対 財務条件 情報資産 SWT、信頼、文化的調和 (コスト?) レイヤーの統合、SWT リンク + 隣接レイヤー ストック・オプションにつられて転勤する管理職 リナックス Translated by Yuki Watanabe...

ハーバード・A・サイモン著『システムの科学第3 版』に関するノート »

ハーバード・A・サイモン著『システムの科学第3 版』に関するノート サイモンが展開する思考と表現のモデルは実に面白い。彼自身の言葉を借りれば、 「状態」と「過程」の描写が秀逸なのだ。 サイモンは、あらゆる物事は一見複雑に思えるが、いったん考え方と視点を定めれ ば言葉で表現できないものはない、と結論づけているようだ。 一般に構成要素(まとまり)内の相互のつながりの方が、構成要素間のつながりよ りも強いという意味で「分解可能な」階層の仕組みを、彼は説明している。(1)ある いは……高周波のものには低周波のものとは異なる力学がある。このため、進化は 階層レベルで進むことが多い。また、分解可能な階層は概念としてより単純にする ことができる。全体の内部のデザインとそれぞれの構成部分の機能や「効率」のデ ザインとを分けて観察できるからだ。従って、DNA鎖の適応機能も、それぞれの 器官機能の内部の状態よりも、器官どうしの配置に決定づけられる、というのだ。 このモデルはどうかと思う。それぞれの構成要素のデザインが、ある階層には影響 を与えなくても、別の階層には関わっているとうことも考えられる。それは直線的 ではなく、数値化してみても「効率的」だとは考えにくい。例えば、器官や皮膚の 色は一定の変数に直接影響しないかもしれないが、適応という観点からすると、特 定の状況下でのみ重要な影響をもちうるかもしれない。特に情報や文化が関わるよ うな複雑な階層システムに組み込まれた「無秩序」は無視できない。この無秩序 を、サイモンは、階層の複雑さと分けて考えている。彼が説く他のモデルも同様の ようだ。しかし、このモデル自体がかなり制約されているように思う。私には、無 秩序な組織が「表現」できる「勘」のようなものがある。言葉につくせる論理では ないが、還元法的に物理的な世界と関わる一方、別の形で情報に基づく無秩序に関 与し、その両方が調和する世界を見つけて結論をだせるようにしてくれるもの。直 線的なロジックではなく、自然なものとより深く関わりあう美術、人間学、社会学 の命題への答えは、しばしばこの感情に近いものの中にみつかる…… 類似のものを分解し、階層をまとめて数を減らしたり、一定のやり方で整理しなお したりして新しい視点を組み立てることで、彼は複雑なものを単純化していく。実 に面白く、おそらく有効でもあるやり方だが、事象の保存や操作を効率的にする 様々な方法ではあっても、それぞれの方法はすべからくある一定の方向、あるいは 解決策に偏りがちである。 (2) サイモンは、実利機能を最大にする最適市場のモデ ルのばかばかしさについても言及している。的確な解決策を見つけることはできる が、唯一絶対の最適な解決策というものはない、と。この考え方は、複雑なものを 説明する方法についてもあてはまるのではないかと思う。 彼のスタイル、アプローチ、方法は良いが、ゆるいつながり、文化、および直線的 ではない相互関係の影響をを過小評価するあやうさがあるのではないか。一方で、 複雑なことも厳格に考えていくという実に知的刺激に満ちたことが可能になること も確かだ。思考回路が直線的であるとする彼の考え方は使える。(非論理的な意思 決定過程、夢想、感情などについては触れられていないが。)実利機能で全てを説 2 明するのは単純すぎ、向上心、または最低限の状態の維持も人間の動機づけにな り、最適化という考え方のみを用いることによる問題にある程度の解決策をしめし てくれるという彼の見方は役に立つ。他方、信頼ネットワーク、コミュニティー、 SWT、常識、文化などは、向上心や必要最低条件の計算では説明しきれない複雑な ものであるとも思う。 組織の役割について、市場のそれと対比させた彼の論述も興味深い。これはチャン ドラーにつながるのでそれまでおいておこう。 1.これはゆるいつながりのもつ力についてだ。サイモンは、SWTについて 考えるにあたって非常に有用な科学的研究法を使って、いくつかの例をあげ ている。マクロレベルでは重力が電気導力より重要であるという考え方は、 SWT の好例だろう。周波数について考えてみてもいい。 2.ホールは『文化を超えて』の中で、他人も自分と同じような考え方しかし ないものだと思いこむことの危険性にふれている。サイモンの表現を文字通 りに解釈することは、文化的な溝をより広げてしまうことになりかねない。 例えば、一般に認められた会計原則であるGAAPは構成要素を整理するの にはよいが、ある種の資産を見えにくくし、たとえ「市場」がそれを現実と みなしているとしても、特定の見解に基づいていることには変わりない。 メモ: 以下、サイモンが「まとまり」ととらえているものに関する引用を並べてある…… 読み進むうち、そして最終章にたどり着くころには、彼が、後に階級・複雑な構 造・分解の可能性についての結論に導くための伏線を張っているのだということに 気づいた。とりあえず引用だけ書き留めておき、後でゆっくり消化し、彼の結論を まとめよう。 引用 メモ ものごとは対称的にみることができる。人工物は、それ自体の内容と組織である 「内部」環境とそれが機能する周囲の「外部」環境の合流点、今日的な言葉で言え ば「インターフェイス」だといえる。(6 頁) 我々は、人工の科学をよりどころとすることで、抽象化と一般化の主たる道具であ るインターフェイスの相対的な平易さに依存することになる。(9 頁) 3 良好な環境におかれているとき、人は原動機から本来の役割のみを学ぶが、苦痛を 強いられているときは、その性能を制限する主たる要因となっている内部構造に注 目しがちだ。(12 頁) コンピューターは象徴組織、厳密にいえば、物理的象徴組織と呼ばれる種類の人工 物のなかでも重要なものだ。同じ種類に属する象徴組織は……人間の心と頭である。 (21 頁) 計算機能としての知能(インテリジェンス)……知能は象徴組織の機能だ……物理的 徴組織……総合的な知能行為のための必要にして十分な手段がある……(23 頁) 第二章:経済的合理性:適応性のある脳のはたらき……経済学は、内外の環境がどの ように相互作用をおこし、特に、ある知能組織の外部環境への適応(本質的な合理 性)が、知識と計算による、的確な適応行動(過程の合理性)を見極める能力にど のように制限されるかを明らかにする。(25 頁) 今日では幾分野にもわたる応用科学によって、企業は過程の合理性を極められる。 そのひとつが複雑な資料を数理学的に分析するオペレーションズリサーチ(O R)、もうひとつが人口知能(AI)だ。(27 頁) ORは直線的で、AIは帰納的…… 人間の選択が、実利主義に基づく一貫した推移的なものでないことを示す実例は、 枚挙にいとまがない。(29 頁)...

1998 年8 月16 日 手記 »

1998 年8 月16 日 今妹のミミと話したところだ。彼女は文化の商品化について考えているということ だ。興味をそそられたのは、それが同じ現象について私が理論化しようとしている 経済の文化指向の別の表現で、視点が逆だったからだ……いつものことだが。 マルクスの、商品の盲目的崇拝の概念、労働者の疎外感について、また物事には利 用価値と交換価値があるという考え方について、彼女は語った。物事の価値はしば しば価格に基づき、生産に関わった労働は考慮されないという考え方だ。マルクス が労働に拘泥しすぎているという点では意見が一致したが、利用価値と交換価値が あるという考え方は面白い。 読んだばかりのサイモンについて考えている: 我々は市場の発達の第三段階にいる… 1. 市場は商品の価値を管理し、安定し、また制御されていた。 2. その後、大企業、そして組織や経営者が経済を牛耳るようになり、彼らの決 定と商品の評価が市場に反映された。指導者の行動が予測不可能でより広範 囲に渡るようになると、市場は次第に不安定になっていった。 3. いまでは、市場は、ファッション、ブランド、技術革新、文化、そしてその 他のまったく非物理的な、理解しがたい要素が複雑に絡み合った相互作用の 混沌とした副産物にすぎない。市場はもはや管理されてはいない。有形資産 はその企業の価値とほとんど関係がなくなってしまった。実際、標準の企業 価値評価モデルで計算した現実的な価値とさえ一致していない。 従って、文化を商品化しようとするというのは時代の流れに逆らうようなものだ。 我々は商品化できない情報の効率的な交換を促す枠組みを作り、情報交換を支援 し、管理していく方法を考えなければならない。これはコミュニティーを発展させ るという考えにもつながる。 Translated by Yuki Watanabe...

インターネットの美学 - 媒体としてのコンテクスト »

インターネットは、高速で安価なグローバル・ネットワークによって、コンピュー ター、人、センサー、乗り物、電話機など、ありとあらゆるものを結びつける。こ れらの相互の接続関係をコンテクストと呼ぶが、コンテクストは、具体的には節点 (ノード)が接続される方法とタイミングをさす。情報のコンテンツ(内容)を名 詞とすれば、コンテクストは動詞であるといえる。 メディアと通信の新しい形態が生まれると、はじめは既存の媒体の模倣に終始する 傾向がある。カール・マラマッドは、テレビの創成期、番組ではしばしばラジオの アナウンサーとマイクばかりが映っていたことをひきあいにだす。インターネット は、よくオンライン出版、またはオンライン放送の手段と言われる。雑誌の出版に 携わる人は、端末のスクリーンに映るインターネット広告は、雑誌の良質な全面広 告には及ばないと言う。テレビの関係者は、インターネットの粗野な映像の質を、 できのいいテレビのコマーシャルのそれと比較することがよくある。インターネッ トは媒体として、同じ大量の情報を大勢に届けるには適さない。現在、インターネ ットは、低価格で、狭いバンド幅を使って人々をつなげるものである。インターネ ットが提供するのはコンテクストであり、インターネットの未来を築いていくにあ たっては、このことを念頭におかねばならない。 今日、世界にあるインターネット上の情報は、ときをおかず鮮度を失ってしまうも のがほとんどだ。現在の株式相場に関する情報は有料だが、十五分後には無料にな っている。今日(または明日)の新聞を買うにはお金がいるが、昨日の新聞はイン ターネットでは無料公開されている。ここで古い記事のデータベースよりも重視さ れているのは、新聞と記者の関係なのだ。ネットスケープのブラウザは数週間で古 くなるから、パソコンショップから古いネットスケープのディスクを盗んだところ でほとんど意味はない。大量のソフトウェアをダウンロードするかわりに、人々 は、必要な情報をインターネット上のどこで探すか、あるいは上級のユーザーであ れば、誰に尋ね、どこでみつけるかという知識を蓄えておこうとする。それは、情 報についての情報についての情報……金融制度が物理的実体をなくしたために貨幣 が抽象的でつかみどころのないものになってしまったように、インターネット上の ほとんどの情報はコンテンツではなく、コンテクストに関係している。インターネ ット上の情報というのは、本にまとめられ、倉庫に集められてトラックで運ばれる ような過去の確実なデータそのものにではなく、必要なとき、一定の場所で、ライ ヴで接続されているということに意味があるのだ。 ネット上のコミュニティーは討論、ゲーム、あるいは、その他なんらかの双方向的 な接続形態で繋がる人々のグループで構成されている。人々はこうしたコミュニテ ィーに時間と精力を注ぎ、これらのコミュニティーは技術とコンテクストを媒体と して複雑な関係をもつ集団に発展していく。そして、コミュニティー特有の場所と 2 なっていく。コミュニティーはそれを支える技術をもとに発展するが、技術を通り こして成長してしまう。技術というのは、新しい有機組織の成長を促進する遺伝的 な基礎だが、生まれた組織は、参加者を通じ、環境からインプットを得ていく。 進歩の緩やかな物理的世界における静物的な芸術作品である文章、またはほかの形 のコンテンツが、インターネットの流動的な、高速のコンテクストによって生き返 ることもありうる。魅力的なアイデアやデザインはたちまち人気を博し、試作、編 集、再配布の対象となる。芸術家は、彼らが生んだ作品が、あっという間に始めの 意図とはまったく異なるものに発展していくのを観察することができる。オリジナ ル作品の芸術家は親のようなものだが、みなし子とは違い、作品はインターネット 上で教育を受け、よしにつけあしにつけ、環境と社会の産物として形成されてい く。従って、インターネットに作品を載せることは、変化しないものを創るという よりも、子を生むようなものである。 コミュニティー、マルチユーザーゲームのしくみ、市場、検索エンジン、ルーター の設定などは、すべて新しいコンテクストが端緒となっている。コンテクストの美 学は、コンテクストを中心とする優れた意匠であるといえるだろう。コンテクスト 志向の優れたシステムは、ライヴで繋がるネットワークの収斂、相互作用、成長を 促す。そのことがネットワークの価値を高め、さらに多くのユーザーと接続先をひ きつける。 インターネットは、自ら変化に対応できる適応機能を備えている。昨年、アルス・ エレクトロニカでのシンポジウムでサンタフェ研究所のジョン・キャスティが指摘 したとおり、複雑な適応機能が働く過程を完全に理解することは可能だが、それが 何をなしうるかを予測することは不可能だ。インターネットは、完全な混沌と秩序 のはざまの微妙な領域でそれ自身を律していくのである。エリック・ヒューズの言 葉を借りれば、それは「機能的な無秩序」といえる。厳格なプロトコールや単一汎 用のオペレーティング・システムといった秩序をインターネットに強いれば、それ が適用される層は非常にもろくなり、システムに与えた衝撃が甚大な損傷を引き起 こすという災害理論どおりの結果をまねく。ウィルスやバグがひとつ現れれば、す べてのシステムが麻痺してしまうことにもなりかねない。現在集積されている仕様 やソフトウェアが非能率的で多様であるために、リスクは少しずつ広まるにとどま っている。多くの小さな地震が壊滅的な地震を防ぐのに役立つように、非効率と小 さな過ちの積み重ねで、インターネットは内部崩壊や爆発にみまわれることなく適 応し、成長していく。 秩序が整った効率的なシステムは、変動の増幅に非常に影響されやすい。見当違い のフィードバックによって、経済、政治、交通、見解の些細な変動が並外れて効率 的なネットワークにより増幅され、システムの崩壊や破滅をまねいてしまうおそれ もある。自然は、エネルギーを調整し、システムの均衡を保つ高度なフィードバッ クの作用で変動を制御している。この直線的ではない均衡を保っていくことが、シ ステムをより速く、より効率的にすることよりもよほど重要になりつつある。この 均衡こそが、コンテクストの美学であるといえる。 インターネット上の雑然としたコンテンツと人々の数をみると、秩序などほとんど 3 ないかのようだ。こうした無秩序は、コンテンツと人々を有益なコミュニティーと ネットワークの分類を可能にするコンテクストを加えるだけで、実はより一層有意 義なものに変えていくことができるのだ。 ゆえに、完全なる秩序からもまったくの無秩序からも、情報、価値、活力はほとん ど生まれないと私は結論づけたい。有用なのは混沌として無秩序なものに秩序を与 えていくシステムである。さらに、この秩序と無秩序の中間にあるシステムを実現 させるためには、可能な限り活力を維持し、作りつづける一方、フィードバックシ ステムが、増幅効果による破滅や無力化をもたらさないよう留意しなければならな い。そのためには、人、コンテンツ、交通、資金といった形の活力源をひきつけ、 コンテンツを価値あるものに育てるための一連の規則、あるいは模倣によって伝え られる習慣や作法、いわゆるミームが必要である。一種のミーム工学といってよ い。 ミームのエンジニアやインターネットの芸術家は、ネット上で育ち、発展していく アイデア、ソフトウェアのプロトコール、画像をうみだすのにやぶさかでない。静 物を作るのではなく、作品に息吹を与えるのだ。伝統的な芸術家は作品を守ろうと するが、ミームのエンジニアは、自らが生んだミームが模倣され複製されるべく努 める。ミームに力と審美的な価値を与えるのは、利用頻度、知名度、そして、再生 産なのだから。インターネットを舞台とする芸術家もミームそのものも、コンテン ツよりはむしろコンテクストの媒体において活動することになる。...
Whiplash by Joi Ito and Jeff Howe
Freesouls by Joi Ito

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