2009年1月 Archives

ルールは以下の通り。

1.この話を振ってきた人物にリンクし、投稿内にこのルールを記載すること。
2.自分に関する事実を7つ、投稿内で述べること。
3.投稿の最後に、あなたがこの話しを振る7人の人物の名前を記載し、そのブログへのリンクを張ること。
4.話を振ったことを本人に伝えること。

僕の振り元はMitchell Bakerだった。


1.僕が憶えている最も古い記憶は、釣り用のリールに砂を入れてしまって父親に怒られている光景だ。我々の家族はとても貧しかったにもかかわらず、うちの両親が古いポンコツ車でアメリカを横断するという名案を思いついたらしい。道中のある地点で、食べ物を買うか釣りざおを買うかの判断を迫られたようで、うちの父親、釣りざおを買って夕食の魚を釣り上げることに決めたそうな。ところが僕が釣りざおのリールに砂を入れて壊してしまい、全員夕食を抜くハメに。少なくとも僕はそう聞かされている。いずれにせよ、父親のあまりもの激怒っぷりに、怒られた事実が僕の少年時代の記憶に深く刻まれているようだ。3歳くらいのことだったと思う。

2.僕の初めての仕事は米国ミシガン州サウスフィールドにある「ウェット・ペット」という熱帯魚屋さんだった。そこに100個ほどある水槽に入っている魚のラテン語名は全て知っていたし、生まれて初めて本格的にハマったのが熱帯魚だった。12歳くらいだったと思う。タンディ社のマイコン「TRS-80」が発売されたのも確かこの年だった。僕は爬虫類・虫系・両生類にも凝っていて、時計付きラジオの中身をくり抜いてペット用のタランチュラを日本に密輸入したこともある。

3.僕が初めて本物のバーでまともな酒を飲んだのは15歳頃のことだった。母親の友人である日本人のビジネスマンが飲みに連れていってくれて、その日本人のガールフレンドであるフィリピン人として皆に紹介された。

4.僕は高校時代、「エントロピー」と銘打ったアングラ新聞の共同創設者にして共同編集者だった。最近読み返してみると、我々は公式のほうの学校新聞を批判したり、文法などの規則の不要ぶりを訴えたりするのに随分と時間を浪費していたことに気付くよ。放課後に校舎内に侵入して謄写版印刷機で紙面を印刷したのを記憶している。当時の共同編集者であり、バックナンバーを発掘してくれたEiji Hirai氏に感謝したい。Eijiによると我々は当時、新聞の編集にWordStarを使っていて、文字を太字で印刷する方法を解明して大得意になっていたそうだ。1982~84年頃のことだ。

5.僕はシャイで、けっこう怠け者だ。知らない人と出合うことの恐怖や、だらけグセの克服するために人生の大半を費やしてきた。やることリストの一番下に一番やりたくないことが溜まり、それらは決してこなされることがないのに気づいた瞬間を今でもおぼえている。そこで僕は、やることリストの上ではなく、一番下から取りかかるようにした。自分の問題を克服するために、こうした細かい工夫をするように自分を仕向けていったわけだ。結果として、僕は怠け者ではあるが、訓練によって修正が可能なことがわかり、若者時代よりも少しだけ生産的な活動ができるよう、自己訓練ができたようだ。

6.僕は昔から歌手になりたかった。けれど歌は苦手だ。母親は歌が上手く、遠い親せきを含めればプロのミュージシャンが大勢いる。中学の合唱団選抜試験は不合格だったし、カラオケではいつも恥をかく。そして歌が苦手な自分が嫌いだ。父親も歌えないので、彼のせいにしておこう。

7.僕は高校時代、レスリングの1984年度極東トーナメント(確か極東地域の米軍系高校、インターナショナルスクール計27校が参加)の自分の階級で準優勝したことがある。優勝の栄冠は米空軍の横田基地のMike Rothstein君に奪われてしまった。スポーツ面ではそれ以後、衰退の一途をたどっている。


以下の皆さんにこの話を振ります。
Sean BonnerMimi ItoLawrence LessigCatspawことMichelle LevesqueLoic Le MeurEthan Zukerman、そしてThomas Crampton

2008 Dopplr Report

Dopplrがユーザーの昨年分のパーソナルレポートを作成した。自分のDopplrページからPDF文書としてダウンロードできるようになっている。クリエイティブ・コモンズの「Attribution」(帰属)ライセンス下でライセンスされ、なかなか気の利いたデザインになっている。

自分ではなんとなく、昨年、自分の時間の半分以上を家から離れて過ごしていたような気がしてたんだけど、Dopplrによると僕は、365日中184日は自宅にいたようだ。僕の旅行先はLawrence Lessigと重なることが最も多く、旅行回数は49回で、月への距離(521,809km/324,237マイル)の143%を移動したそうだ。平均速度は58.43キロ毎時、ホイッペット犬が走るのと同じくらいとのことだ。(僕のマイレージプログラムにおける実際の移動マイル数はこれよりも遥かに多い。Dopplrが直接的な距離を測っているのに対し、航空会社は実際の航路で計算している、ということだろうか...)

僕の心にとても重くのしかかっていることは、僕の二酸化炭素発生量がおよそ60トン(ハマー6台分)にもなっていることだ。20トン程度である平均的なアメリカ人の、約3倍といったところだ。僕はいくつかのオフセット・サービスで、二酸化炭素をある程度は相殺している。しかし、旅行に行くべきかどうかの判断にあたっては、それによって二酸化炭素がどれくらい発生するのかということを何よりもまず考えてみるべきなのだろうなと思った。

Dopplrはバラック・オバマ大統領のパーソナルレポートも公表している。

何よりも先に、感涙にむせびつつ、アメリカ各地の全ての友人たちにおめでとうのことばを贈りたい。アメリカの人々のことを大変誇りにかつ嬉しく思っている。このたびの素晴らしい選択、そしてアメリカで民主主義が機能していることを証明してくれたことに、心の底から感謝したい。僕のアメリカに対する信頼は、今日この日、格段に強まったといえる。アメリカが今後どんなリーダーシップを示してくれるかに期待する。

これについてはもう少し落ち着いて、睡眠をとったうえでさらに書くことにする。(今は現地時間の朝3時。)

ただ、寝床に入る前にこれだけはと思ったので書いておくことにした。ホワイトハウスのウェブサイトにクリエイティブ・コモンズを含めた著作権表記を掲載してくれたことを、オバマ大統領とそのスタッフの皆さんに感謝します。本当にありがとうございます。

Whitehouse.govのサードパーティコンテンツはCC-BYライセンス

すでにお耳に入っているかもしれませんが、新しいWhitehouse.govウェブサイトが本日午後12:01、バラック・オバマ新大統領の就任式の最中に公開されました。皆さんが気づかれなかった可能性を考えて書いておくと、同サイトの著作権表記では、すべてのサードパーティ製コンテンツがクリエイティブ・コモンズのライセンスで最も制限が緩やかな「Attribution」(帰属)ライセンス下にあることが明記されています。

連邦法に則り、本ウェブサイト上に掲載されている、政府により作成された素材は著作権に保護されていません。アメリカ合衆国政府は、譲渡、贈与もしくはその他の手段により、著作権を獲得し、保持することができます。

別示ある場合を除き、本ウェブサイト上に掲載されているサードパーティーコンテンツはクリエイティブ・コモンズの「Attribution 3.0」ライセンス下にあります。本ウェブサイトへの訪問者はWhitehouse.govに対する投稿内容について、残りの全世界に対して、クリエイティブ・コモンズの「Attribution 3.0」ライセンス下にて、非独占的、取消不能の、ロイヤルティーフリーのライセンスを付与することに同意したものとみなされます。


(強調表示は僕による編集)

アメリカ合衆国第44代大統領がクリエイティブ・コモンズを選択したことをここに讃えたい!

ビデオ映像やビデオ・リミックスが政治的な問題を伝えたり、話し合ったりする、主たる手段の一つになるにつれて、文章に比べるとビデオは著作権の面で寛容でないことがわかってくる。つまりテキストに関しては、我々は政治的発言における互いの言葉を引用し、注釈をつけ、共有することに慣れており、且つ法的にもそうすることが認められている。ところがビデオとなると、大統領候補討論会、戦場の映像、そして政治的ビデオで我々が使いたいと思うであろうその他多くのものが著作権で保護されている。ビデオは昔から、より「エンターテインメント コンテンツ」的なものとして扱われてきているんだ。

ビデオジャーナリズムでは、一部「エンターテインメント コンテンツ」として取り扱われてきた。ここ に元CNN日本支部長のRebecca MacKinnonが書いた素晴らしい記事がある。CNNのリーダーシップがTed Turner(テッド・ターナー)からTime Warner社に移った際に、CNNの焦点がジャーナリズムから利益を生み出す「コンテンツ」へと変わっていったことについて書かれてある。

僕はアマチュアジャーナリズムはもちろん、アマチュアによるビデオジャーナリズムさえをも信じている。WITNESSで我々が試みているThe Hubのようなプロジェクトは非常に重要だと考えている。しかしその一方で、特に戦争・汚職・政治に関しては、記事を取材しにいく記者の動員と、物理的・法的な保護に費用がかかるため、プロによるジャーナリズムの役割がなくなることはないだろう。

Gennifer Flowersのスキャンダル発覚(クリントン元大統領の不倫)はビデオジャーナリズムにとって歴史的な一歩となった。大手ニュースネットワークの当時の首脳陣はこの事件を取り扱わないことに決めていた。彼らはニュースがいつ報道されるかを操ることができる立場にいたんだ。ところがすでにCNNが地元のニュースステーションへの全面的なニュース配信を始めていたため、地元ニュースが独自にニュースを組むことができたのだ。一部の地元ネットワークはCNNに提供された未編集のニュースに含まれていたこの一件を報道することにし、結局は翌日、どのネットワークもトップニュースとして報道することになったわけだ。この一件についてはSteven Johnson著の「Emergence」に詳しく書かれている。

世界的な分散化と対話への大衆参加という潮流の中、次に来るものは、各ニュースネットワークが、取材映像を大衆が利用可能な形で提供することだと僕は考えている。通信社が自社コンテンツを、再利用やリミックス用に提供するという、願わくば今後一般化するであろう取り組みの第一歩を踏み出してくれたアルジャジーラにとても感謝している。


アルジャジーラがクリエイティブ・コモンズ情報庫を運営開始

アルジャジーラが本日、クリエイティブ・コモンズのライセンスの中で最も制限が緩やかな「Attribution」(帰属)ライセンス下にて、12本の放映クオリティの動画をリリースします。プロの手によって記録された各動画には詳細な情報ページがありblip.tvをホストとして元ファイルのダウンロードやMiroへの導入が容易になっています。これらの動画の価値は、このリリースを報じたInternational Herald Tribune/New York Timesの記事で実に的確に表現されています:


イスラエル軍による規制のため、西側ニュースメディアによるガザからの報道が大幅に制限されてしまっているこの紛争において、アルジャジーラは明らかに有利であった。彼らは元から現地にいたのだから。

さらに重要なのは、これらの動画が寛容な「CC-BY」ライセンス下であることで、アルジャジーラへの帰属が明示されてさえいれば、競合相手の放送会社、ドキュメンタリーの製作者やブロガーを含む、誰もがこの動画を使用できる点です。

詳しい情報はアルジャジーラのクリエイティブ・コモンズ情報庫、および我々のプレスリリースでご確認いただけます。また、こちらをクリックすればMiroのフィードにアルジャジーラの情報庫を追加できます。

2008年12月30日付けで正式にアラブ首長国連邦、ドバイ市民となった。

2007年にDella Van Heystがバーレーンでの会議に呼んでくれた時は、僕はまだ中東にはまともに行ったことがなく、世界市民たれという僕の一つの目標に向けてこの地域についてよりよく理解すべきだと思い、その会議への参加を決めたのだった。会議は興味深いもので、中東およびイスラム文化に関して僕がまるで無知であることを再認識した。バーレーンでの会議の後、Jayが僕を、彼が程なく引っ越す先となっていたドバイへと連れていってくれ、彼の友人のBalallを含め、何人かの人たちに紹介してくれた。

クリエイティブ・コモンズでの僕の仕事の一つに、クリエイティブ・コモンズの世界規模での普及を支援するというのがある。我々は、アジア、ラテンアメリカ、北米、オーストラリア・ニュージーランド、欧州では成功を収めてきている。ただ中東とアフリカについては、何人かの素晴らしい人たちと知り合うことができて前進はしつつあるものの、これらの地域は我々にとって手強い対象であり続けている。昨年我々はDonatella Della Rattaをクリエイティブ・コモンズの中東地域担当に任命しており、そのDonatellaと、まだ(増えつつあるものの)数が少ない僕のイスラム系の友人たちが僕をコーチングしたりその地域に関する理解を助けようとしたりしてくれている。

しかし僕はすぐに、イスラム世界について遠方から学ぼうとしてもダメだろうと気づいたのだった。民族的なステレオタイプの見方になる恐れもあるが、僕は世界の主立った文化のほとんどを理解できていると自負している。しかしイスラム文化に限ってはどうしてもうまく理解できずにいるのだった。

僕の人生における重要な決断のほとんどがそうであるように、まずは直感に任せて活動拠点をドバイ現地に移してしまい、当地で過ごす時間を大幅に増やしてみることに決めた。様々な案を検討した結果、比較的安全でリベラル、便利な場所であるドバイが活動拠点に適していると判断した。今まで行ったどんな場所とも様々な面で大きく異なる場所ではあるが、医療施設、空路、銀行などの基本的なインフラは問題なく機能しており、現地への適応に手を借りることのできる必要十分な数の友人がいるように思えた。また、僕の大きな盲点を埋めるための行動として、ドバイを選ぶことで、アフリカが少しだけ近くなりそうにも思えた。

時間の大半を過ごす場所としては飛行機の中以外にないといえる僕は、「ドバイに引っ越す」ことはそこに住居を構え、私物の大半をそこへ移すことを意味する。僕の主たるビジネスは世界各地で発達初期にある消費者向けインターネット会社に投資することで、主たる非営利活動はクリエイティブ・コモンズなんだけど、どちらもグローバルな取り組みだ。僕はここでのフリーの時間を(夏の猛暑は多分はずすだろうけど)学業とアラビア語の習得にあてようと考えている。慶応大学がここや周辺地域との繋がりを深めていこうとしているので、それらの試みもできる限り支援していくつもりだ。

ドバイにはとても面白い人々がいて、徐々に知り合いが増えつつあるんだけど、この地域での僕の活動の多くは、他のアラビア系諸国とアフリカに関連したものとなりそうだ。ドバイがいわば活動のハブとなり、そこを起点にしてその周りを探検するわけだ。

Mizukaのお母さんと千葉の親せきに日本での留守を守っていただき、Mizuka自身は日本とドバイを行き来することになりそうだ。僕は今までどおり、時間の大半を日本、米国および欧州で過ごすつもりだ。

最後になったけど、現在も進行中のドバイへの移行作業を多岐にわたって手助けしてくれたJayRenu、Ballal、Naziaに感謝したい。また、地元の学会との接点をもつ際に足がかりおよび助力を多々くださった波多野大使およびMariaにも感謝したい。

まだはっきり決まっていないこともかなりあるし、他に僕が関わっているどの事もやめたわけではないので、傍目には僕の行動が劇的に変化することはないだろう。でもドバイに住み始め、すでにいくつかの面白い変化が起こりつつあるのを感じている。

注:この地域には他にも様々な宗教があるにもかかわらず、「イスラム」と「中東」を同義のように使ってしまっていることは僕も自覚している。非イスラム系の信仰で育ってきたため、イスラム的な要素が僕の無知の領域の最も大きな部分を占めている。