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数週間前にStewart BrandからあるEメールが来た。僕がまだWorld of Warcraftをプレイしているか、そして小説「DAEMON」は読んだかを尋ねる内容だった。僕はWorld of Warcraftはまだやっていたものの「DAEMON」は読んでいなかった。これども、アマゾンのおかげで数日後にはもう読んでいた。

何年も前に、MUD(マルチ・ユーザー・ダンジョン)と、それが現実世界の人々に対して与える強い影響力について考えていたことを思い出した。MUDは最初のMMORPG(多人数参加型のオンラインのロール・プレイング・ゲーム)で、僕はそれにハマッている人を何人か知っていた。そして、僕もハマッた。(僕の名前がWiredに初めて登場したのも、1993年にHoward RheingoldがKevin Kellyと書いたMUDに関する記事で、僕の熱中ぶりに言及した時だったと思う。)人々はMUDの世界で結婚したり、離婚したり、仕事をクビになったり、アイディアを共有しあったりしていた。僕がプレイしたいくつかのMUDは、ゲーム内で出会う人々を介して、現実世界とつながっていた。

MUDというものはWorld of WarcraftよりもSecond Lifeに近く、プレイヤーは部屋やモンスターやオブジェクトを作り出すことができた。MUDに参加するということは、そのゲームをプレイしている人々の知性の凝集体に足を踏み入れるようなものだった。そこには参加者各自が現実世界の知識を駆使して作り出すクエストがあった。そうした彼らの世界でプレイすることは、彼らの脳内を歩きまわるようなものだった。いろいろなところから来た人々が、多種多様なテーマと目的を掲げたMUDを共作していく中で、これらの世界は融合しあい、衝突しあっていた。

MUDはその後MMORPGの進化経路上のどこかの時点で分岐し、オブジェクトや世界を創出することを好む人はほとんど、ゲームも作り出すことはできるものの主には世界の創出がその活動となるSecond Lifeのような場に移っていった。これに対して、いわゆるゲーマー層は、ゲームのプレイ面が高度に洗練される一方でプレイヤーによるコンテンツ作成がまったくできないWorld of Warcraftのようなゲームに移行した。(後者の開発陣は元熱狂的MUDプレイヤーだらけだったりするけれど。)

僕は今よりもMUDを活発にプレイしたり解析したりしていた頃に、次のようなイメージを抱いていた―。MUDの世界をちょいと裏返し、自分自身がそのMUDだと想像してみると、ゲームのプレイヤーたちは現実世界における自分の手駒やインターフェースのようなものにあたる。彼らはコンテンツを入力し、世界を創出し、現実世界を自分に教えてくれる。そして自分のことを友人たちに宣伝してくれる。彼らがゲームの経験値を稼ぐことに熱中し、よりのめり込んでくれることで、彼らは自分に糧となるものを提供し続け、生かし続けてくれる。彼らは彼ら自身ののめり込み先として、あるいはこれまでの投資を無駄にしないようにするために、サーバーを用意したり使用料を払ってくれたりもする。そしてMUDである自分が爆発的な人気を得ることができれば、プレイヤーの中には自分のDNAコードを使った新しいMUDを派生させる者が出てくる。自分の複製ともいえる存在が誕生するわけだ。

コアなプレイヤーたちはオープンソースである自分のソースコードを解析して、進化させ続けてくれる。コードの魔術師たちが自分のコードを使った個々のMUDを教育し、それぞれに個性を持たせてくれる。そしてそれをプレイするプレイヤーたちが、現実世界における自分の存在証明になるのだ。

ゲーマー層のほとんどが、企業の管理下にある開発チームによってデザインされたクローズドソースのゲームに移行した時、僕はこのような夢を見るのをやめてしまった。このように進化するだろうと僕が想像していた「生きた」状態ではなくなってしまったからだ。

ところが「DAEMON」を読んだことで、その夢が舞い戻ってきた。著者Leinad Zeraus氏の描く物語では天才MMOデザイナーの死後、彼の作り出した巨大なコンピュータデーモンが世界を乗っ取っていくことになる。これはいろいろな意味で僕が想像していた構図に似ているけれど、著者は恐ろしげなひねりを加えたうえで、スケールを遥かに遥かに大きなものにしている。これだけ感銘を受けた本は久しぶりに読んだ気がする。著者は「Fortune 100社と取引のある独立系システムコンサルタントで、防衛、金融、エンターテイメントの各業界向けの企業用ソフトウェアのデザイン実績をもつ」そうだ。その経験を活かして著作に抜群のリアル感と説得力を持たせつつ、なおかつ強烈なインパクトを与えてくれる。

読んでいて非常に楽しめた本なので、ネットやゲームが好きな人なら誰にでもオススメしたい。でもって、それらが好きじゃない人たちにもオススメしたい。これを読めば、こういったことのすべてを理解しておくことが重要であるということがわかる。手遅れになる前にね。

香港にあるSanrio Digital社の取締役になった。この会社は,サンリオの「ハローキティ」に関連するさまざまなオンライン事業を展開している,サンリオとTyphoon Games社が合弁で設立した。Typhoon Games社を経営しているのは,親友のYat Siu氏だ。彼らのブログサイトにもプレスリリースが載っている。

これからは,joi (at) hellokitty.comでも僕と連絡が取れるよ。 ;-)

追加情報: Sanriotownに,Sanrio Digitalが提供するさまざまなサービスが紹介されている。ハローキティのメールアドレスもそこで無償登録できるようになっている。

Kara Swisherは、僕が知る中で、最も頭が切れて、最も愉快で、そして時には最も辛辣なジャーナリストの一人だ。彼女は、Walt Mossbergと一緒に「Wall Street Journal All Things Digital conference」の司会をしている。

その彼女はいろいろあって、Jerry Yangとのインタビューの約束を取り付けるのに苦労している。そんなとき、彼女は「Jerry Yangと一緒にランチ」という賞が、最も多くのブログ読者に寄付を促したブロガーに対してDonorsChoose.org Bloggers Challengeから与えられることを知ったようだ。この企画に参加したい人や寄付をしたい人は、DonorsChooseサイトにあるAllThingsDのページを見て欲しい。

というのはですね......、僕はただKaraのファンであるだけでなく、彼女にクールな人達を紹介してもらったり、家に泊まらせてもらったり...等々の借りもあるんだ。「これを宣伝してもらわないとね・・・大きな目標のためにね。面白そうでしょ」という彼女の僕への言葉はたぶん、ブログに載せてねという意味だろうと思う ;-)

幸運を祈るよ、Kara。かわいそうなJerry!

だけど、その目的は素晴らしい。本当に。僕は今すぐ寄付する。

今回のこと、一部始終を知りたければ、正直なところ内容を理解するのは少し難しそうな気もするけど、Karaのブログ記事を読んでね。

僕はGDCPrimeのカンファレンスで講演をしてきた。今回は「いかにユーザーが創造するオンラインゲームが新しいウェブのプラットフォームを創るか」っていう内容での講演。

それじゃ、GDC Primeって何かって?
GDC PrimeっていうのはGDCが開催されている間に開かれる、上級レベルのカンファレンスで招待者しか参加できないものなんだ。

それで、GDCって何ってこと?
GDCはThe Game Developers Conferenceの略でゲームの開発者の為の開発者によるカンファレンスなんだ。ゲーム業界に関わりのある多くの人が参加するイベントだよ。

もしあなたがゲーム業界にいるならきっとGDCの事を知っているだろうね。
もしあなたがゲーム業界とはあまり関係のない仕事についているなら、きっと僕みたいに知らなかっただろうね。少なくとも今聞くまではね。

僕は今までにこのカンファレンスに出たことはないんだ。だから会場に着いてどんな参加者が参加しているのかを確認するまでは、講演の内容を用意しないようにしようって決めてきたよ。 会場について会った参加者は保守的な人達だったり、ハッカーだったり、今の巨大なゲーム業界に反対している人達がうまくミックスされていた印象を受けた。

僕は今、「Got Game: How the Gamer Generation Is Reshaping Business Forever 訳:いかにゲーム世代がビジネスを永久的に変えるか 」(著:John C. Beck and Mitchell Wade)っていう本を読んでる途中なんだ。この本の著者を含んだベビーブームの世代はゲーム文化が世の中に与える影響について過小評価しすぎているって事が書いてある。この世代の人から見たゲーマーっていうのはベビーブームの世代よりも新しくて大きな世代であって、ゲーマーの人達をつなげているのはゲームだけっていうことなんだ。この著者の説明では、ゲームが世の中の文化に与える影響は商用インターネットの規模よりも大きくて、TVよりも少しだけ小さい規模だって説明しているね。

僕はこの本を読んだり、ゲーム業界のトップ達と話しているうちにちょっと変な感覚に襲われた。
僕のコンピュータを始めたときの最初の経験は昼間にリサーチラボでソフトを書くことであって、夜の間には自分のゲームを作ったりしていた。僕がティーンの時に培ったのはゲームのコードを書いたりゲームのコードをハックすることだったんだ。 後になってからはMUDをやってて、最高レベルのWizardになったりとか自分だけの世界を作ったりモンスターを作ったりしてた。 こんな経験があったから僕がゲーム業界に対して持っていたイメージはハッカーの集団だってことで、ユーザーが創造するっていう事が大事だって知っていた。

それで昨日、僕がこのカンファレンスで実感した事なんだけど、既にゲーム業界は大量生産、大量配布になっててハリウッド映画産業とかテレビ産業と同じ構造になっているってこと。 今ではいくつかの会社がゲーム業界とインターネットとの橋渡しをしているんだけど、それでもその他のほとんどのゲーム開発の会社とかゲーム業界は間違った考え方をしていると思ったよ。これは初期のゲーム開発者達にも同じことがいえる。 彼らはいつもコンテンツの重要性を過大評価して、ユーザー同士のつながりたい、シェアしたいっていう気持ちを過小評価しているんだ。

歴史を見てみると、MinitelっていうフランスのVideotexをやっていたサービスは個人をつなぐコミュニケーションの機能があったから生き残ることができた。(デザイナーはコミュニケーションの機能があることをほとんど忘れていたんだけど。) それに比べてDelphiのシステムの構造はユーザーに一方的に情報を伝えるだけで、ユーザー同士の情報交換ができる仕組みがなかったから、ダメになってしまった。 最近でもYouTubeの流行に代表されるようにユーザーからのビデオを発信するサイトはかなりがんばっているよね。

ひとつの考え方でこの進化を捕らえると、コンピューターとネットワークの進歩がコンテンツを通じてユーザー達を強くするってことがある。例えると、今までレコードとかCDとかをひとりで聞いていて寂しかったのが、カラオケとかテレビゲームが出ることによってもっとコンテンツと関われるようになって寂しいことはなくなってきた。 それが今ではMySpaceとかTextingとかBloggingとかWikipediaによってオンラインのコミュニティーに関われるようになったんだ。 それはある種類のコンテンツがどんどん減少していってる事を意味して、逆にある種類のコンテンツがどんどん増えているってことなんだ。どういうことかというと、プロフェッショナルなコンテンツがどんどんなくなっていって、僕たちユーザーの発信するコンテンツがどんどん増えているんだ。 プロフェッショナルなコンテンツは今後、重要でなくなることはないだろうけど、それはユーザー達がコミュニケートする為の基盤をつくるだけになるんじゃないのかな。

僕が恐れているのはゲーム業界のトップの人達が新しいネットワークされたゲーマー達と離れてしまうこと。GotGameの本ではMMORPGを他のゲームと同じように束ねて考えられているんだ。これはベビーブームの層とゲーマー世代の比較をするのには役立つんだけど、今までインターネットで犯した間違いと同じ様な間違いをゲーム業界が犯すんじゃないかっていう危惧がある。 今、現在の問題はゲーム業界があまりに大きくなりすぎていて、あまりに利益が上がる構造で、傲慢になっているんだ。これはインターネットで今まで習ったはずのインターネットはなかなか会議室の壁を突き破って外に出てこれないって事と同じで、大きなゲーム会社から出てこれないってことにつながるんだよね。

その一方で、この問題の意味をわかっている人達は既にいて、ネットワークされているように見える。この人達がゲーマーとゲーム会社の橋渡しとなって、2つの分断された世界をつなげる役割をしてもらいたいと期待するよ。 ゲーム業界は音楽業界が犯したのと同じ間違いをしないでもらいたい。音楽業界が犯した間違いはユーザーのニーズに反して著作権侵害などのレッテルをユーザーに貼ったことだからね。

2007/3/7 Joiの英語版ブログより
訳:Taiichi Fox