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時間:5:30「悠遠」
軸 :西田幾多郎 「悠遠」
茶碗:大樋9代
茶:星野抹茶「宝授」

西田幾多郎は京都哲学の創始者であり、千葉工業大学の創立メンバーの一人でもある。この掛け軸にはと書かれています。時間的、空間的に、はるかに遠いこと。また、そのさまを表す。永遠という意味もあります。

私たちが使っている道具の多くは何百年も前のものであり、掛け軸や使っている道具は何百年も使われ続けるだろう。古代の茶碗を手にすれば、それがいつ作られたのか、それを扱った人々、そして彼らを取り巻く社会や歴史を想像することができる。そして、その茶碗を未来に置き、そこに住む人々や社会を想像することは容易である。そして、永遠を思い描くまで、過去と未来の時間を引き伸ばし、押し続けるのだ。

Calligraphy of lotus in the mud
完全に放置されていた私の書道から「泥中乃蓮」少しづつ浮かび上がってきます。下の字は私の「花押」で、私の名前「穰一」から作られてます。(ノートカードに筆ペン)
私のお気に入りの仏教僧の一人であるティク・ナット・ハンは、「No Mud, No Lotus」とよく言っていました。これは、「泥中乃蓮」(でいちゅうのはす)という言葉に非常に似ています。仏教では、泥は苦しみと闇を象徴し、そこから蓮の花が咲くと考えられています。泥がなければ、蓮は現れません。蓮が泥から現れるように自分自身をイメージする、そういった経典や瞑想法はいくつかあります。

最近、私は日本の茶道を学んでいます。茶室での重要な要素のひとつは、禅僧が書いた掛け軸を選ぶことです。ですから茶道を学ぶには、同時に禅も学ぶ必要もあります。その学びのひとつとして一緒にお稽古をしている仲間たちとお稽古やお茶会の前に、季語や禅語、仏教の言葉を話し合う試みを始めました。そして、日本語の筆記や書道の練習も始めました。

今週の仏教の言葉は「泥中乃蓮」。ちょうど今の時期は七十二候「蓮始開(蓮の花が咲き始める)」ですので、この季節にふさわしい言葉として選びました。

ゆっくりと上達への歩みを進める私の筆で、繰り返しこの言葉を書いていると泥の中から伸びようとする蓮のように、筆から文字が浮かび上がってきました。そして言葉と共に、ここ数年泥の中から顔を出そうとしている蓮のように感じられる私自身の人生にも共鳴してきました。この言葉はまさに泥のようである今という時代に共通の目的と調和を持ち、共に歩みを進めようとする私たちの社会へのメタファーでもあります。

深淵から抜け出る、そんなビジョンとメタファーと共に私は今日という一日を始めます。