2016年6月 Archives

Black and White Gavel in Courtroom - Law Books
Photo by wp paarz via Flickr - CC BY-SA

社会参加型 (society-in-the-loop) 機械学習という用語を使うのをぼくが初めて効いたのは、イヤド・ラフワンがそれを口にしたときだった。かれはScience に掲載されたばかりの論文を説明していたところで、その論文自動運転車に人々がどんな判断を行ってほしいと思うかについて世論調査を行うというものだったお----哲学者たちが「トローリー問題」と呼ぶものの現代版だ。この考え方は、世間の優先順位や価値観を理解することで、社会が倫理的と考えるやり方で機械が振る舞うように訓練できるというものだ。また、人々が人工知能 (AI) とやりとりできるようにするシステムを作って、質問をしたり行動を見たりすることで倫理を確かめてもいい。

社会参加型 (society-in-the-loop) 機械学習は、人間参加型 (human-in-the-loop)機械学習を拡張したものだ----人間参加型 (human-in-the-loop)機械学習機械学習は、メディアラボのカルシック・ディナカールが研究してきたもので、AI研究の重要な一部として台頭しつつある。

ふつう、機械はAIエンジニアたちによって、大量のデータを使い「訓練」される。エンジニアたちは、どんなデータを使うか、どう重み付けをするか、どんな学習アルゴリズムを使うか、といった各種パラメータをいじって、正確で効率よくて正しい判断をして正確な洞察を与えてくれるようなモデルを作り出そうとする。問題の一つは、AIというかもっと厳密には機械学習がまだとてもむずかしいので、機械を訓練する人々は通常、その分野の専門家じゃない。訓練するのは機械学習の専門家で、学習後に完成したモデルを試験するのも専門家であることが多い。大きな問題は、データの中のバイアスやまちがいは、そうしたバイアスやまちがいを反映したモデルを作り出す、ということだ。こうした例としては、令状なしの身体捜索を許容する地域からのデータだ----その標的になったコミュニティはもちろん、犯罪が多いように見えてしまう。

人間参加型 (human-in-the-loop)機械学習機械学習は、専門家とのやりとりを通じて学習する機械を作り出すことにより、その分野の専門家が訓練をやるか、少なくとも訓練に参加できるようにすることだ。 人間参加型 (human-in-the-loop)コンピューティングの核心にある発想は、モデルをデータだけから構築するのではなく、そのデータについての人間的な視点からもモデルを作るということだ。カルシックはこのプロセスを「レンズ化 (lensing)」と呼んでいる。つまりある領域の専門家が持つ人間的な観点またはレンズを抽出し、訓練期間中にデータと抽出されたレンズの両方から学ぶようにするわけだ。これは確率的プログラミングのためのツール構築と、機械学習の民主化の両方にとって意味があることだとぼくたちは思っている。

哲学者、聖職者、AIや技術の専門家たちとの最近の会合では、機械が裁判官の仕事を奪うという可能性について議論した。データがらみのことなら機械がとても正確な評価を下せるという証拠はあるし、裁判官が決める保釈金の額や仮釈放の期間といったものは、人間より機械のほうがずっと正確にできると思うのは無理もないことだ。さらに、人間の専門家は適切に保釈金額を決めたり仮釈放の判断をしたりするのが苦手だという証拠もある。仮釈放判定委員会による聴聞が昼ご飯の前か後かで、結果にはかなりの影響が出てしまう(この論文で引用された研究についてはいくつか批判があり、論文著者たちはそれに対して答えている)。

議論の中で、一部の人はある種の判断、たとえば保釈金額や仮釈放などを裁判官ではなく機械に任せてはどうかと提案した。哲学者と聖職者数名は、それが効用主義的な観点からは正しく思えても、社会にとっては裁判官が人間だというのが重要なのだと説明した。そのほうが「正しい」答えが出るよりも大事なんだという。効用を重視すべきかという問題はさておき、どんな機械学習システムだろうと、社会が受け入れるかどうかはとても重要になるし、この観点に取り組むのは不可欠なことだ。

この懸念に対処する方法は二つある。一つは「人間参加型 (human-in-the-loop)」にして、人間の裁判官の能力を補ったり支援したりするのに機械を使うというものだ。これはうまくいくかもしれない。その一方で、医療や飛行機の操縦といったいくつかの分野の経験を見ると、人間は機械の判断を取り消してまちがった判断を通してしまうことがあり、一部の場合には人間が機械の判断を取り消せないようにしたほうがいい。でも人間が投げやりになったり、結果を盲目的に信用するようになったりして、機械にすべて任してしまう可能性もある。

第二の方法は、機械を世間によって訓練させること(社会を参加させる)だ----人間が、機械が自分たちの、おおむねおそらくは、多様な価値観を信頼できる形で代弁していると思うような形で訓練してもらえばいい。これは前例がないことではない----多く意味で、理想的な政府は、それが十分に物事を理解しており、熱心だと人々が思っているので、それが自分を代弁していると感じ、そして政府の行動に対して自分が最終的に責任を負うと感じるようなものだ。社会が訓練できて、社会が信用できるほど透明性があるようにすることで、社会の支持と代弁能力を獲得できる機械を設計する方法があるのかもしれない。政府は、競合して対立する利害と対処できているし、機械だってそれができるかもしれない。もちろんややこしい障害はたくさんある。たとえば伝統的なソフト(コードは一連のルールだ)とはちがい、機械学習モデルはもっと脳みたいなものだ----一部だけを見て、それが何をするか、今度どう動くかをずばり理解するのは不可能だ。社会が機械の価値観や行動を試験し、監査する手法が必要だ。

この機械の究極の創造者にしてコントローラーとしての社会からインプットを得て、そしてその支持を得る方法を編み出せれば、それはこの司法問題の裏面も解決するかもしれない----人間が作った機械が犯罪を犯したらどうするか、という問題だ。たとえば、自動運転車の振る舞いに対して、社会が十分な入力とコントロールを得ていたと感じるならば、その社会は自動運転車のふるまいや潜在的な被害についても、自分やそれを代表する政府に責任があると感じ、自動運転車の開発企業すべてが直面する製造物責任問題を迂回する一助になるんじゃないだろうか。

機械が社会からの入力をどのように得て、社会によりどう監査されコントロールされるかという問題は、人命を救い正義を実現するために人工知能を導入するにあたり、開発されるべき最も重要な領域となるかもしれない。それにはおそらく、機械学習ツールを万人が使えるようにして、とてもオープンで包含的な対話を実施し、人工知能の進歩からくる力を再分配することが必要になる。見かけ上だけ倫理的に見えるよう訓練する方法を考案するだけじゃダメだ。

Credits
  • イヤド・ラフワン (Iyad Rahwan) - 「社会参加型 (society-in-the-loop)」など多くのアイデアについて
  • カルシック・ディナカール - 「人間参加型 (human-in-the-loop)」機械学習について教えてくれたことと、ぼくのAIの先生となっ* てくれたこと、その他のアイデアについて
  • アンドリュー・マカフィー (Andrew McAfee) - 仮出所審査委員会についての研究紹介と考え方を教えてくれた
  • ナタリー・サルティエル - 編集作業
  • 訳:山形浩生

Minerva Priory library
The library at the Minerva Priory, Rome, Italy.

訳:Hiroo Yamagata

最近、技術研究者、経済学者、ヨーロッパの哲学者や進学者たちとの会合に参加した。参加者は他に、アンドリュー・マカフィー、エリック・ブリニョルフソン、リード・ホフマン、サム・アルトマン、エリック・サロビル神父だ。ぼくにとってこの会合が特におもしろかったのは、会話に神学的(この場合キリスト教的)な視点があったことだった。話題の中に出てきたのが、人工知能と仕事の未来だった。

機械が人間にとってかわり、多くの人々を失業させるのではという問題は、何度も繰り返されてはいるけれど、未だに重要であり続けている。サム・アルトマンらは、生産性の激増は経済的な過剰を作り出して、失業者にはユニバーサルな「ベーシックインカム」を支払えるようになると論じた。ブリニョルフソンとマカフィーは「負の所得税」を提唱している――低所得労働者に課税ではなく補助金をあげて、仕事という実践が生み出す他の重要な影響を阻害することなく、金銭的な再分配を助けようというものだ。

負の所得税を支持する人々は、仕事の重要性が単にそこから得られる所得だけでなく、それが社会的にも心理的にも与えてくれる安定感なのだということを認識している。仕事は社会的な地位を得る方法だし、また目的意識も与えてくれる。職場は社交の機会でもあるし、多くの人々が生産的で幸せでいるための構造も提供してくれる。

するとAI などの技術がいつの日か生産性の過剰をもたらして、金銭的には働く必要がなくなったとしても、人は相変わらず社会的地位を獲得し、仕事から得ている意味ある目的を得るための方法を見つけなくてはならない。この社会では、働いているのに給与のない人もいる。その最大のグループは、在宅の男女で、家や子供の世話をするのが仕事だという人々だ。その労働は現在はGDPに計上されないし、そういう人々はあるべき社会的地位や価値も得られないことが多い。なんとか文化を変えて、お金を稼がない人にも尊厳と社会的地位を与えるような仕組みや制度を作り出せるだろうか?ある意味では学術界や宗教機関や非営利サービス組織がそうした構造をある程度は持っている。つまり、お金を主体とせずに動く社会的地位や尊厳が得られる。この価値構造をもっと広く拡張する方法はないものだろうか?

そうしてクリエイティブなコミュニティはどうだろう?どうしてアマチュア作家やダンサーや歌い手が、金銭的な収益以外の形で成功を定義できるような組織原理を構築できないんだろうか?それでマスメディアによる流通と消費で支えられない少数のプロ以外にも、社会の中でクリエイティブな役割を開放できるんじゃないだろうか?「食うに困るアーティスト」という表現を、過去の風変わりな比喩表現にできないか?仕事の概念を、これまで一般に理解され受け入れられてきた生産性概念と切り離せないだろうか? 活動性とユーダイモニアの観点からすると「内面の仕事」というのがもっと有意義なものと捕らえられないものだろうか?

ペリクレス時代のアテナイは、人々が活躍して生産的になるために働く必要がなかった道徳的社会の好例に思える*。自尊心と共有された社会的価値観が、金銭的な成功やいまのような仕事と関連していないような新しい時代を想像できるだろうか?エリック神父は「活動性というのはどういうことだろう?」と尋ねる。現代のユーダイモニアとは何だろう?わからない。でもそれがなんであれ、根本的な文化の変化を必要とするのはわかる。その変化はむずかしいけれど、不可能ではない。その第一歩としてふさわしいのは、技術や金融イノベーションと並行して、文化についての作業を始めることだ。それにより未来は何もすることがない無関心なガキどもの世界よりは、ペリクレス時代のアテナイと似たものになる。もしそれがペリクレス時代のアテナイを動かす道徳的価値と美徳だったとするなら、いまあるような形の仕事がなくなった世界に間に合うようにそれを開発するにはどうしたらいいだろうか?


* ペリクレス時代のアテナイには奴隷がたくさんいた。将来の機械時代には、機械の権利について心配する必要があるだろうか?ロボット奴隷の新しい階級を作り出すことになるだろうか?

Credits
  • Reid Hoffman - Ideas
  • Erik Brynjolfsson - Ideas
  • Andrew McAfee - Ideas
  • Tenzin Priyadarshi - Ideas
  • Father Eric Salobir - Ideas
  • Ellen Hoffman - Editing
  • Natalie Saltiel - Editing
  • Hiroo Yamagata - Translation

Leafy bubble
Photo by Martin Thomas via Flickr - CC-BY

訳:Shin'ichiro Matsuo

2015年のブログポストで、ビットコインがいろんな点でインターネットに似ていると思っている話を書いた。そこで使ったメタファーは、ビットコインは電子メール――最初のキラーアプリ――みたいなものであり、ビットコインに使われているブロックチェーンはインターネットのようなものだ――つまり電子メールをサポートするために普及したけれど、その他の実に多くの目的にも使えるインフラ――というものだった。ぼくは、インターネットがメディアや広告に対して果たしてきたものと同じ役割を、The Blockchain(訳注:ビットコインのブロックチェーン)が金融や法律に果たすのではないかと示唆した。

今でもぼくはこれが正しいと思っているけれども、産業界は舞い上がりすぎている。10億ドル以上のお金がビットコインとフィンテックのスタートアップにすでに投資されていて、これは1996年におけるインターネットへの投資額に追いつき追い越す勢いだ。現在のフィンテックビジネスの多くは、当時のスタートアップに似ていて、当時のpets.com(訳注:当時大失敗したドットコム企業)が、XXXのためのブロックチェーンになっただけだ。今のブロックチェーンは1996年のインターネットほどは成熟していないと思う――たぶん1990年か80年代末というところだろう――まだIPプロトコルについての合意もなく、CiscoもPSINetもなかった時代だ。多くのアプリケーションレイヤの企業が、安定性やスケーラビリティから見て準備ができていないインフラの上に構築されているし、その発想もダメなものか、良いアイデアにしても早すぎるかのどちらかだ。また、これらのシステムの設計に必要となる、暗号学、セキュリティ、金融、コンピュータ科学の組み合わせを本当に理解している人はとても少ない。理解している人々は、非常に小さなコミュニティの一部でしかなく、この未成熟なインフラの上に建てつつある10億ドルの大建築を支えられるほどたくさんはいない。最後に、インターネット上のコンテンツと違い、ブロックチェーン上で行き交う資産や、多くの要素の不可逆性のため、ブロックチェーン技術に、WebアプリやWebサービスでやっているのと同じレベルのソフトウエアのアジャイル開発――やってみて、成功したものだけ採用――は適用できない。

これらの基盤的なレイヤに取り組んでいるスタートアップや学者はいるけれど、まだまだ足りない。すでにちょっとバブルになりつつあるんじゃないかと思うし、そのバブルは弾けたり修正が入ったりするかもしれない。それでも長期的には、インフラをどうすべきか理解して、願わくは非中央集権的でオープンな何かを作れると思いたい。バブルが弾ければ、最初のドットコムバブルの崩壊でインターネットに起きたような、システムからのノイズ除去が起きて、みんな意識を集中できるようになるかもしれない。一方で、ダメなアーキテクチャしかできずに、多くのフィンテックアプリは既存のものをちょっと効率的にするくらいのもので終わることもあり得る。ぼくたちは、皆が本当に非中央集権的なシステムを信頼するか、無責任な導入が人々を遠ざけてしまうかを決めるような決定を下すべき重要な時期にいる。コミュニティとしてコラボレーションを増やし、イノベーションと研究開発をスローダウンさせることなく、たんねんにバグと悪いデザインを取り除く必要があるだろう。

アプリケーションを作るより、インフラを構築する必要がある。あるバージョンのビットコインが「インターネット」になるのか、Ethereumのような他のプロジェクトが単一標準になるのかはわからない。もしかしたら、いろいろちがったシステムが、何か互換運用性を持つ形になる可能性もある。最悪の事態は、アプリケーションばかりに気をとられてインフラを無視してしまい、真に非中央集権的なシステムの構築機会を見逃し、有線のインターネットよりモバイルインターネットに似たシステムにおちついてしまうことだ――有線のインターネットはおおむね定額制だしそんなに高価ではないのに対し、モバイルインターネットは独占企業にコントロールされて従量課金とありえないほど高額なローミング料金の世界だ。

インフラとしてデザインとテストが必要な部分はたくさんある。合意アルゴリズム――個別のブロックチェーンが公開台帳を改ざんできないようにしてセキュアにする方法――についてはいろいろなアイデアがある。また、ブロックチェーン本体をどの程度スクリプト記述可能にするか、それともその上のレイヤで実装すべきかについての議論もある――どっちの主張にも一理ある。また、「プライバシと匿名性」対「アイデンティティと規制」をめぐる問題もある。

Bitcoin Coreデベロッパチームは、Segregated Witnessについて実績をあげつつあるようで、これはみんなのスケーラビリティに関する懸念の一部など多くの懸念を解決できるはずだ。一方で、歴史が浅いがパワフルで、もっと使いやすいスクリプティングやプログラミングの仕組みを持つEthereumは、ブロックチェーン上で新しい用途を設計しようとする人々からかなりの勢いと関心を集めている。他にHyperledgerなどのプロジェクトは、独自のブロックチェーンシステムとブロックチェーンにとらわれないコードをデザインしている。

インターネットは、オープンな標準に基づく明確なレイヤを持っていたからこそうまく行った。実際、TCP/IPがATM(訳注:Asynchronous Transfer Mode 非同期転送モード)――標準としての対抗馬――に勝てた理由は、ネットワークのコアが非常にシンプルで「バカ」だったエンド・ツー・エンド原則のおかげで、ネットワークの末端が非常にイノベーティブになれたからだ。この二つの標準がしばらくしのぎを削ったあげくに、TCP/IPが明白な勝者だと判明した。ATMを核とした技術への投資の多くは無駄になった。ブロックチェーンでの問題は、そもそもレイヤがどこにあるかすらわからないし、標準への合意のプロセスをどう仕切るべきかさえわかっていないということだ。

(Ethereum) Decentralized Autonomous Organizationプロジェクト、「The DAO」は、現在ぼくが見ている中でも心配しているプロジェクトだ。発想としては、Ethereum上に、コードとして書かれた「エンティティ」を作るというものだ。そのエンティティは会社の株に似たユニットを売り、投資したりお金を使ったりもできて、ファンドや会社とまったく同じように活動できる。投資家はそのコードを見て、そのエンティティが納得できるものかを判断して、トークンを買ってその投資の収益を期待する。なんだかSF小説みたいで、90年代前半のサイファーパンクだったぼくたちは、メーリングリストやハッカー集会で途方もないことを夢見ようとしていた頃に、みんなこの手の妄想は抱いたものだ。問題は、The DAO*がすでに1.5億ドルを投資家から集めていて、「リアル」なのに、それがビットコインほど検証されていないEthereumの上に構築されていることだ。そしていまだに合意プロトコルも固まっておらず、次期バージョンではまったく新しい合意アルゴリズムへの切り替えすら考えているという。

どうやらThe DAOはまだ法的に完全に記述されておらず、投資家たちにパートナーシップ上のパートナーとして損害賠償責任を負わせかねない。英語を使って弁護士たちが書いた契約とはちがい、DAOのコードでヘマをしたら、どこまで簡単にそれを変えられるかははっきりしない。契約書の言葉上のミスなら、裁判所がその意図を見極めようとすることで対応できるけれど、分散した合意ルールにより強制されるコードには、そんな仕組みが存在しない。また、コード自体が悪意を持ったコードで攻撃されかねないし、バグが脆弱性を引きおこす可能性もある。最近、 Dino Mark, Vlad Zamfir, Emin Gün Sirer――中核開発者と研究者たち――が、「The DAOに一時的なモラトリアムを」 (A Call for a Temporary Moratorium on The DAO) という、The DAOの脆弱性を指摘した論文を公開した。それにThe DAOは多分、この時点ではまだあれこれ口を出してほしくない様々な規制当局の人に対し、危険信号を発してしまうんじゃないだろうか。The DAOはEthereumにおけるMt. Gox――つまり、プロジェクトの失敗が多くの人に損をさせ、一般の人や規制当局がブロックチェーンの発展に急ブレーキをかけるきっかけ――になりかねない。

ぼくがこんな冷や水を浴びせたところで、この分野のスタートアップと投資家は猪突猛進を続けるのはまちがいないだろう。でもぼくは、できるだけ多くの人が専念すべきなのはインフラであり、構築しようとしているスタックのいちばん低いレイヤに存在する機会だと思っている。合意プロトコルをきちんと構築し、物事を非中央集権的なかたちにとどめ、過剰な規制を避けつつプライバシ問題を扱い、お金と会計を根底から再発明する方法を見つること――これこそがぼくにとってはエキサイティングで大事のことだ。

企業が研究を始め、実用的なアプリケーションを見つけるべきエキサイティングな分野はいくつかあると思う――発展途上国のソーラーパネルなど市場の失敗に直面している分野の証券化や、貿易金融など信頼の欠如がとても非効率的な市場を作り出すために標準化された仕組みが存在するような部分のアプリケーションなどだ。

中央銀行や政府も、すでにイノベーションを探し始めている。シンガポール政府はブロックチェーン上での国債発行を考えている。幾つかの論文では、中央銀行が個人の預金を直接受け入れて、デジタルキャッシュを発行する可能性が検討されている。一部の規制当局も、人々がイノベーションとアイデアのテストを規制上の安全領域で行えるようなSand Boxの構築を計画しはじめた。もともとのビットコインのデザインが政府を避けよう、というところから始まっているのに、面白いイノベーションの一部は政府の実験から登場するという皮肉な可能性もあり得る。そうは言っても、政府は、堅牢な非中央集権的アーキテクチャの開発を助けるよりも、その邪魔をする可能性の方が高いだろうけれど。


* このポストのわずか3日後に、The DAOはぼくが恐れていた通りに「攻撃」された。ここに、攻撃者を名乗る人物からの興味深いポストがある。Reddit上ではすぐに、このポストにつけられた電子署名は無効であると判断された。そして、その自称攻撃者からの別のポストでは、彼らは(Ethereumの)マイナーたちに、フォーク(訳注:攻撃によって得た利益を無効にするEthereumのブロックチェーンの変更)に賛同しないように賄賂を送ろうとしている。これが本当の攻撃者なのか、あるいは壮大な釣りなのかはわからないが、非常に興味を惹く主張だ。

Credits

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写真:Daderot(パブリックドメイン、Wikimedia Commonsより)

僕がMITメディアラボの所長に着任した当初、ニューヨークタイムズはこれを変わった人選と評したが、その通りだった。最終学歴は高校卒業だったし、タフツ大学とシカゴ大学の学部課程および東京の一橋大学の博士課程からいずれもドロップアウトしていたからだ。

最初に同ポストの打診が来た時は、学位がないから応募すべきじゃないだろう、との助言をもらった。数ヵ月後、選考委員だった Nicholas Negroponte(ニコラス・ネグロポンテ)から再び連絡があり、面接を受けにMITに来てみないかと誘われた。初回の候補者リストからは最終候補が出なかったそうだ。

教授陣、学生陣、スタッフとの面接は好感触だった。僕の人生でも最も刺激的な類の2日間であり、同時に、間の夜に日本で大地震が発生したため、かなり辛くもあった。あの2日間は様々な意味で僕の記憶に刻み込まれている。

委員会からの連絡はすぐに来た。僕が第一候補らしく、異例の候補であるため、再訪して Architecture and Planning(建築と計画)学部長である Adele Santos(アデル・サントス)氏、加えて、もしかすると学長(現在はMIT総長)の Rafael Reif(ラファエル・ライフ)氏とも面接されたし、とのことだった。ラファエルとの面接で豪華なオフィスに座ると、彼はどこか問い詰めるような目つきで、「何の話をしようか」と聞いてきた。そして僕が自分が候補になった展開の特殊性を説明すると笑顔になり、彼が誰に対してもしているように、「MITへようこそ!」と温かい歓迎の言葉をくれたのだった。

メディアラボの所長としての僕の仕事はラボの運営および研究を監督することだ。MITでは研究室と学術プログラムとが政教分離のごとく分けられているのが普通だけど、メディアラボは Architecture and Planning学部の中に「独自の」学術的な Program in Media Arts and Sciences(情報科学芸術プログラム)を構えていて、それが研究側と強固に連繋している点がユニークだ。

創設以来、メディアラボは常に研究の実践面、すなわち論文を発表するだけではなく、実施し、実績を展示し、投入することで学ぶという方針を重視してきた。学術プログラムは教授(現在は Pattie Maes(パティー・マース))が担当しており、僕自身も密接に関わっている。

僕の前任者、およびメディアラボ創設時に所長を務めた Nicholas(ニコラス・ネグロポンテ)はどちらも教授職を兼ねていた。しかし僕の場合、僕自身がそうと知らなかったことと、僕に学生を指導したり十分に学術的な働きができたりするかMITが判断しあぐねた結果、着任時点では教授にはならなかった。

そのことはほとんどの局面では重要ではなかった。僕は教授陣の会合にはすべて出たし、ごく稀な例を除くと権限と支持を得られている実感があった。気まずい空気となったのは「伊藤教授」と誤認されたり、他の大学の学者さんたちに自分の立場を説明したところ「なるほど、教授かと思ってましたが経営側の方なんですね」と返されたりした時くらいだ。

...なので教授である"必要性"は特に感じなかったし、教授となるための申請をしてはどうかと声がかかった時には、どのような利点があるかよくわからなかった。メンターの方々数名に相談したところ、(教授になれば)メディアラボの所長を退任した後でもMITに居続けることが可能になるだろう、と言われた。正直、ラボ所長の役を退く自分など想像すらできないけど、有用な選択肢に思えた。加えて、教授になることでMITの正式な構成員としての色合いが強まることもある。評議会の承認が必要なので、通ればそれがお墨付きとなるわけだ。

僕は自分の研究グループを立ち上げようとは思わないし、これまでもメディアラボ全体を僕が担当する「研究グループ」、かつ、僕のこだわりどころと見なしてきた。ただし、時々新たな試みの立ち上げを手伝ったり、教授陣の支援をしたりしていく中で、より学術的なマインドセットを要する思考や行動に関与することが増えてきた。さらに、メディアラボおよびMIT全体の学術プログラムについて、僕は以前よりも色々と意見をもつようになってきている。教授陣の一員となることでこれらの意見を表明する土台を固められるだろう。

このような考えを胸に、そして賢明なるメンターの方々からの助言に後押しされ、僕は申請を行い、本日付けで Media Arts and Sciences(情報科学芸術)実務教授としてMIT教授陣の一員になることを承認された。

昔よく妹とケンカをしたものだ。妹は博士号を2つもっていて、研究者で大学教授だったので、揶揄の意味を込めて学者呼ばわりしていた。僕がメディアラボ所長に就任した時、馴染めないだろうとか、うんざりするだろうと警告する声が多かったのをおぼえている。僕はもうMITに5年ほど勤めているけど、これまでのどんな仕事より長続きしている。(そして妹は今や起業家となっている。)僕はようやく自分のすべきことを探し当てた手ごたえを感じていて、この仕事、このコミュニティ、そして僕自身と僕が仕えるコミュニティに発展をもたらし、インパクトを与えられる可能性に対し、かつてないほど嬉しく思っている。

これまで僕を支えてきてくれたMIT、僕の数多いメンター、同僚、学生、スタッフ、友人の皆さんに心から感謝している。この旅路を歩み続け、その先にあるものを目にするのが楽しみでしかたない。

教授になります、2016年7月1日付けで。