妹のMimiと僕とは様々な点で対照的だ。彼女は成績がオールA、僕はBだらけだった。彼女は学業に集中でき、簡単にこなしていたようだったが、僕は悪戦苦闘した。

結果、Mimiはどこでも行きたい大学に行けるという選択肢を得ることになり、最初はハーバード、その後スタンフォードで学ぶ、職業としても学問の道をそのまま進んでいる。

一方の僕は、第一志望クラスの大学のどれにも入れず、入った先でも数年だけ通ってドロップアウトした。後に、一緒に仕事をしていた有名な物理学者に説得されて再び大学に通うことにしたものの、正式な教育に、また講義に集中して何かを学ぶという能力を僕自身が欠いていることに幻滅し、再びドロップアウトしてしまった。(80年代の終わり頃のシカゴのナイトライフシーンという、素晴らしいコミュニティを知ったのもあった。)

僕が正式な教育を通じて学んだ最も重要なことは、中学で習ったタッチタイピングか、もしかすると高校でレスリングをやっていた学んだ仲間意識と運動競技の大切さかもしれない、と言ってもいいだろう。

正式な教育とはこうも相性が悪いわけだが、僕は会社を運営し、講演をし、Mimiと同じ会議のいくつかに出席することを許されるくらいのことを学ぶことができた。

学び方とデジタルメディアを専門とするMimiと、正式な教育と非公式な教育について話しをした。また僕が(どうやら)生き残れた理由は次のようなことだろうとも話しをした。頭の良い人たちや指南してくれる人たちとの接点を持っていたこと、また理解ある母親のサポートがあったこと、他にも、興味を持ったらとことんのめり込む僕の性格、そしてインターネットにアクセスできる環境にあったこと、だ。正式な教育を改善してドロップアウト率を低下させることが非常に重要とする意見には僕は全く同意するものの、(少なくとも現在の形態での)正式な教育にあまり適さない性格や興味を持っている人たちはどれくらいいるのだろうかと考えてしまう。

僕のように正式な教育と上手く付き合えない人の内、健全な正式教育を受けられる環境にありながら、指南役がいない、インターネットにアクセスできないといったことでドロップアウトしてしまう人間はどれくらいいるだろうか。非公式な教育の重要性を正しく認識し、それを後押しできるような方法―正式な教育からドロップアウトすると現状では社会的不名誉を負ったり孤立したりしがちであるが、そのような不利益を伴わずに、興味本位で自主的な学び方のほうが得意である私のような種類の人たちがそのような学び方で学べる方法はないだろうか。

あるいは正式な教育のほうをより柔軟なものにして、より幅広い学習適性を持つ人たちにも対応できるようにすることで、僕のような人間が正式な教育の枠組みの中でも卒業できるようにすべきなのか? 妙な話だが、僕の非公式な学び方ではいくつかの分野で遂に限界に達しつつあるため、自分の興味対象の分野を探究するために必要な厳密さと深さを求め、僕の場合、正式な教育を提供する機関を拠り所にすることがますます増えつつあるのだ。

Mimiが上記と関連の深い講演「New Media and Its Superpowers: Learning, Post Pokemon」(新しいメディアおよびその大いなる力:ポケモン以後の学習について)をアップロードした。

2 Comments

初めまして。

今日はどんなことが書いてあるのか、
ブログの更新をいつも楽しみにしています。

お仕事頑張って下さいね!

初めまして☆

私も正式な教育とは相性が悪い方なので記事を興味深く読んでみました。

個人的には、環境が及ぼす影響が大きいのではないのか?と思うので環境の整備は重要だと思います。