世界各地を頻繁に巡るなら、世界一周航空券(RTW)を使ったほうが遥かに安上がりになる。RTWの注意点はただ一つ、各大洋を一回ずつしか渡ることができず、ある地域から出てしまうと再びそこに戻ることはできないことだ。ニューヨークでのWITNESSの理事会からSXSWでの講演まで1週間空いていたこともあり、ドバイまで飛んで帰ってRTWをダメにする手はなかった。どこか腰を落ち着けて仕事ができそうな都合の良い場所を探していたところ、古い友達であるEric Hallerがコスタリカに住んでいてブロードバンド環境も備えているだろうことを思い出した。これはすなわち、World of Warcraftもプレイできるし非常にリラックスできる環境に浸ることができるということだ。
Ericとは1990年にショーン・ペンの初監督映画作品「インディアン・ランナー」の仕事をしている時に出会った。僕はエグゼキュティブ・プロデューサーのThom Mountの下で働いていて、その時に助監督セカンドを務めていたのがEricだった。我々は歳も近く、どちらもオマハでの数ヶ月間のロケ中、低賃金で過重な労働を強いられているという共通点があった。彼とはしばし一緒に遊ぶようになり、以後も連絡を取り続けた。後にEricはサンフランシスコに住むようになってブログを始めたのだが、そのブログで我々は再会した感じになった。その後彼は僕のWorld of Warcraftでのギルド「We Know」に加入し、今でも僕のギルド・アドミンの一人として手伝ってくれている。そしてEricは3年ほど前にプエルト・ビエホに引っ越した。
『一週間ほど滞在できそうな場所を探している』とEricにメッセージを送ると、プエルト・ビエホに遊びに来るよう勧められた。プエルト・ビエホはコスタリカを訪れる観光客の大半が向かう太平洋側ではなく、カリブ海側に位置している。カリブ海側での大都市といえばリモンだが、アメリカ国内のまともといえる空港からはLimonに飛ぶ便は一つもない。
激しい嵐の真っ只中、コスタリカのサンホセに着いた僕を、Ericは運転手つきで拾ってくれた。かなり危険な道を我々は6時間以上かけて運転し、コスタリカを横断して、プエルト・ビエホに辿り着いた。Ericにはレインコートを持って来るように言われていたんだけど、なるほど、その理由が分かった。どうにかこうにか無事に着いたものの、道路が穴だらけで、それはまるでミニ地雷の上を通っているようだった。
遅い時間に到着したので、その日は地元のイタリアンで軽く食事をしただけで就寝した。ホテルの部屋に着いて、初めは静かな雨の音とジャングルの動物たちの鳴き声がどうにも耳障りだったのだが、そのうち僕をいつもとは違う世界にいざなってくれた。眠りに落ち、10時間は目が覚めなかった。あれほど長く眠ったのはいつ以来だったか、思い出せないくらいだ。
Ericがやってきて、時計は片付けてパスポートのコピーと若干の現金以外は小さな金庫に保管するようにと僕に言った。何の計画もなかったが、それこそが大事なこと。我々はビーチサンダルで泥道を歩き、地元の店に行った。その店には、ミネラルウォーター1種類、ヘアブラシも1種類、樹上で熟れたバナナ、パパイヤ、パイナップル、他にも必要になりそうなものは一通り揃っていたけど、それ以上の物は何一つなかった。フルーツをひと山買って、Ericの家へと向かった。
道中、Ericはすれ違った人全員に手を振り、出会った人の3人に1人の割合で雑談していただろうか。Ericはプエルト・ビエホの大人気バンド「Plan B」のギタリストなのでほぼ全員と顔見知りで、彼の家に向かう途中でも、会う人会う人と、お互いに話しをするちょっとしたゴシップが必ずあるようだった。Ericの家は道から奥まった位置にあり、ジャングルの近くの小じんまりとした場所にあった。丁寧に切り取られた葉の破片を携えて長旅をするアリの行軍をまたいでいる時、彼がハキリアリに気をつけるようにと言ってきた。コスタリカは世界でも指折りの、多様な生物が生息する国だということが実感としてわかる。
Ericの家にはフルーツというフルーツがすべてあり、ミニジャングルとでもいうべき場所になっていた。愛用の山刀を見せてもらったのだが、その山刀が唯一主要な園芸用具だそうだ。気候は申し分なく、植物に水をやる必要など皆無で、いちど堆肥が盗まれてからは(これまでに盗まれたことのある唯一のものだそうだ)、彼の堆肥の元は庭に直接捨てているそうだが、すぐに植物の栄養に変わるから問題ないとのことだ。Ericには、インターネット回線、使い込んでいるビーチバイク、ギターがあり、ネコがいた。かつては屋根裏にコウモリが生息し貴重なフンが取れたそうだけど、自分以上に肥料を必要としている農家の人にあげていたそうだ。
我々はフルーツを食べ、蚊をはたき(Ericは数日で慣れるだろうと言っていた)、コスタリカでの彼の暮らしについて話しをした。コスタリカは国として戦力の保有を禁止し、そこで節約した金を医療と教育に投資した。小国ならどこでも抱える問題のいくつかはまだ残っているとはいえ、コスタリカ国民の教育水準は高く、医療システムも概ねきちんと機能しているとのことだ。
牧歌的でのんびりしたプエルト・ビエホでの生活はとても安上がりで、新鮮なフルーツ、美味しいコーヒー、米、豆、魚、鳥などが非常に豊富なため、これといって何が『必要』ということもない。夜の演奏以外、計画の無い自分の人生についてEricが話すのを聞いて、僕も分かってきた。全米監督協会の助監督の平均余命のデータを見たときに、コスタリカでの自分の暮らしについて考え、Ericが気づいたことは、プエルト・ビエホでの最小主義的ながら完全に満たされている暮らしの中に平穏と幸福を見出そうとしないなんてありえない、ということだった。
数日間、Ericと町や海辺を散歩したり自転車で走ったりして、彼の地元や外国人居住者の友達たちと話しをして過ごした。プエルト・ビエホに辿り着いた人たちは実に多種多様で面白かった。カフェやバーやヨガスクールを開業したり、サーフィンを教えたりマッサージを仕事にした人もいた。誰もがフレンドリーで幸せそうで、すっかり羨ましくなるリラックスぶりだった。時々、明らかに場違いな観光客が現代的な快適さを探し求めている姿や、酔っ払って無礼をはたらく不愉快な大学生なんてのも見かけたけど、地元の人々はおおかた大目に見てやっていた。観光が町の収入源だからだ。
かく言う僕も、きっと場違いもいいところで日本人観光客的なオーラが丸出しだったと思うけど、Ericに紹介された僕は地元の人々によくしてもらい、安心してのんびりと過ごさせてもらった。コスタリカは色々と荒削りなところも多いけど、地域のコミュニティが息づいており、過去・現在・未来を問わず、少しでも変わったことがあると、そこに住む人々がその情報を共有できており、少なくとも噂話としては知っているようだった。このような自律的なコミュニティは、日本で僕が住んでいた千葉の小さな村やシカゴをどこか思い出させる。そこでは社会として必要なほとんどのことはコミュニティにより決められ、コミュニティの中にいなければ何も分からないのだ。 ;-)
Carribeansで味わった中で最高のコーヒーを味わい、Tex MexとThe Beach HutでPlan Bの良質なラスタ/カリプソ音楽を楽しみ、Mangoで楽しい時を過ごし、Rocking J'sで素晴らしいマッサージを受け、いくつかの快適なビーチでPeaceからサーフィンのやり方を学び、Soda JohanaとSoda Lydiaで美味しい地元の食べ物をいただいた。
Ericと一緒にサンホセに向かう公共バスに乗ると、まるで時空に裂け目が入ったかのごとく、自分の脳が現代世界の現実に引き戻されるのを感じた。出発の前夜にサンホセのホテルでまずいコーヒーを飲んでホテルの貧相なご飯を食べながら、早速プエルト・ビエホが恋しくなっていた。
プエルト・ビエホへの旅行は人生最高の休暇だったと思う。ただしそれは、Ericとその仲間たちのおかげであり、また彼から現実を持ち込まないようにと助言されたからこそ実現した。実際、ビーチサンダルと短パンとTシャツを出してからは一度もスーツケースを開かなかった気がする。自分のエゴ、金、時計、車、態度、ストレスを入口に置いて、現地の流儀に合わせられない人には、正直プエルト・ビエホはお勧めしない。現代的な快適さを求める人々にとってはプエルト・ビエホが苦痛になるだろうし、それ以上に、そのような来客はプエルト・ビエホの人々にとって苦痛になってしまうだろう。でも真の幸せを求めていて、時間をかけても現地の人々と知り合ってプエルト・ビエホという控えめで静かなコミュニティに溶け込もうと思うのであれば、(Ericがそうしたように)物を全部売り払って、数年間かけて足を運んでみることをお勧めしたい。
初めておじゃまします。現実を持ち込まないこと。この言葉にぐっときました。遊ぶときは現実を持ち込まないことがほんとに大切だとは思いつつ、つい仕事とか現実のことも考えている。酒を飲んでいるときもそうです。自分がまずいけないのですが、飲み友達はたいてい仕事上のストレスを抱えていてその話をする。飲んだ後、よし明日があるぞと思えるようにしたいです。先日、地元の居酒屋にSUDDEN DEATH SOURCEが置いてあり、それに挑戦したときは、かなりリフレッシュされました(笑)。そんなもんなんですね。そのときはソースのことしか頭になかった。
初めまして。
いつも応援していますよ~。
お仕事頑張ってくださいね!
また遊びにきますね。