幼少期から、あらゆる人たちにこう言われ続けてきた。集中しろ。集中しろ、しろ、しろ、と。僕は執着するのは得意なのだが、一つのことに集中するのは苦手なんだ。あらゆるものが面白いと思うので、結果としてすべてのことに集中してしまう。

John Hagel、John Seely BrownおよびLang Davision共著の新刊「The Power of Pull」では、世界は変わりつつあるのだと述べられている。従来のように、リソースや情報をストックしたり、すべてを制御し計画したり、通達や命令を中枢から辺縁に流す代わりに、今や革新は辺縁で起こっているのであり、リソースはストックしておくのではなく、必要に応じて調達するようになっているのだ、と。世界がストックからフローへと移行しつつあるのだ、と。Techcrunchに、僕が登場する同著の抜粋が掲載されている。

この本に書かれている素晴らしい考えの一つに、目指したい行き先の大まかな方向は設定すべきだが、セレンディピティを受け入れ、ネットワークからリソースを提供させてどんな偶発的な事象も価値あるものに変えるようにすべきであり、互いに共有し、他者の問題解決や構築を手伝うかたちで繋がり合うことにより、そのネットワークを発展させるべきだ、というものだ。

この考えは僕に、Edward Hallが定義したポリクロニック・タイムとモノクロニック・タイム(P時間とM時間)の対比を強く想起させる。M時間では時間や空間をミーティングやキュービクルに細分化し、組織や機関の大規模な拡張を可能にする。P時間は、さながらアラビアの「マジュリス」のようなものだ。何人もの人が一斉に呼ばれ、ひと連なりの長い意識の流れのように、シークがいろいろな合議のためにいろいろな人々を招き入れる間、誰もが待合室を往き来する。この場合、拡張性や秩序には欠けるものの、コンテキストとセレンディピティに溢れている。もしすべてを計画してしまったら、どこかでセレンディピティに恵まれたり、「幸運」に出くわしたりする可能性は非常に低くなってしまうだろう。

僕が経験した珠玉のミーティングの多くはセレンディピティ的であり、マーク・グラノヴェッターの「弱い靭帯の強み」と同様に、普段の付き合いの枠を超えたそういったコネクションこそがしばしば、明白な裁定の機会をも超え、最も大きな価値を提供するものとなる。

つまり、僕の人生は完全に混沌としていてまとまりが無いように見えるかもしれないけれど、前回の投稿を振り返ってみても、僕はエネルギー価の高い人たちとセレンディピティ的イベントで構成された、非常に豊富なネットワークに浮かんでいるのであり、一日も欠かすことなく、「よし! 今とてもいいことをしたぞ!」という実感を味わうことができている。移動が多いので疲れるし、安定性を欠いているために若干の混乱を伴うものの、僕は愛情にあふれた、冴えた人たちに囲まれていて、これまでの人生で最も幸福を感じているという実感がある。

僕の夢は今でも仏陀的な意味で精神の平穏と幸福を得ることだけど、そこに到達する経路はおそらくどこかの山あいの洞窟で瞑想をするのではなく、エネルギーの流れからなるネットワークに身を置くことを含む、なんらかの太極拳的な取り組みではないかという気がしている。

この「満遍なき注力」というモデルがどんな結果をもたらすのかはこれから見ていくとして、それが効果の無いものだとは思わない。とはいえ一応、お決まりの注意書きとして、「むやみにマネをしないように」と「効果には個人差があります」は書いておきたい。