自分の24歳の誕生日はとても明確に記憶している。1990年で、映画「インディアン・ランナー」の共同制作責任者の仕事を終えたところだった。東京の六本木にあるナイトクラブを、シカゴの「The Smart Bar」のチームと共に経営していた。マドンナが「ヴォーグ」をリリースしたばかりで、シカゴのハウスミュージックがアシッドハウスに進化し、レイブシーンが盛り上がっていた。世界も僕の人生も、楽しくて騒がしい時期だった。

僕が最初にTimothy Leary(ティモシー・リアリー)に出会ったのは共通の友達である、当時 Kyoto Journal の編集長を務めていた David Kubiak(デビッド・クビアック)を通じてだった。レイブシーンにより1960年代的テーマがいくつもリバイバルしていたため、ティムに会えるのを非常に楽しみにしていた記憶がある。僕は意識と精神について書いた本をいくつか読んで自分の進むべき道を見出そうとしていて、そこにはティモシーがしばしば、中心的役割を担う人物として登場していた。直近では Robert Anton Wilson(ロバート・アントン・ウィルソン)著の「コスミック・トリガー」という本を読んでいた。その本では著者が最初に読み手に対し、その本に書かれているすべてがウソであると伝え、その後、かつてないほど素晴らしく精緻な陰謀論を語り紡いでいたのだった。その本で Wilson はjoi「23」が魔法の数字であり、ティモシー・リアリーが宇宙人たちから「通信」を受けたのだと説明していた。僕は何を信じていいのか、そもそも何かを信じるべきなのかを判断しきれずにいたものの、当時、世界は秘密であふれていると確信していて、自分もそれらを知りたいと思っていた。

ティムと共に、当時六本木の中心にある交差点に立っていたのを覚えている。夜、街に繰り出す時には誰もが待ち合わせていた由緒正しき喫茶店の店名から、「アマンド」と呼ばれていたあの交差点だった。新進のサイバーパンクシーン、その日本での展開についてそこで立ち話をしていて、僕はティモシーに、自分が24歳になったばかりで、歳が魔法の数字のはずの「23」であるうちに何か神秘的なことが起こるとばかり期待していたことを話した。そして彼に、コスミック・トリガーに書かれた『スターシード通信』についても尋ねた。ティモシーが笑いながら、あれは丸々ジョークなんだと教えてくれた様子を明確に覚えている。あの本に書かれたすべての内容、および彼らが話題にすることの大半はひとつの壮大な冗談であり、まったくもって信じていいものではないのだと。その一瞬で、僕が信徒であった宗派の導師だったはずのティモシーにより、道から転げ落ちてしまったのだ。

ティモシーはその後、別のジョークも聞かせてくれた。

「ヒッピーの一団が人生の意味を求めてインドに行った。何年も何年も山々を登り、答えを知っている導師を探し求め、ようやく人生の意味を知っているとされる導師を探し当てた。彼らが『人生の意味とは?』と彼に尋ねると、導師は『濡れた鳥は、夜は飛ばない』と答えた。ヒッピーたちが『飛ばないのか?』と尋ねると、導師が『飛ぶのか?』と聞き返した。」

これは僕がこれまでの人生で学んできた精神面の教訓のうち、最も重要なものだ。その日の晩、ティモシーにジェットコースターのごとく東京のナイトライフシーンを見せてまわり、彼が後に「ニューブリード」と呼ぶことになる日本の若者たちを紹介した。技術と文化に精通し、ドロップアウトするんじゃなくて自分たちが主流になりたがる、新たな若者文化のことだ。ティムは自分のスローガン「スイッチを入れ、波長を合わせ、消し時を見極めろ」をいじって「スイッチを入れ、波長を合わせ、自分の波を流せ」に変え、僕をゴッドサンとして迎え入れた。ゴッドサンの役割はゴッドファーザーに学びをもたらすことだと説明された。僕らは一緒に本を書き始め、そのテーマを軸に公開イベントをいくつか開催した。

ティモシーは常に「権力に疑問をもち、自分で考えろ」と言ってまわっていた。覚えているのは、彼と僕とで講演をしたイベント後に、若者の一団がティムのところに来て、「で、僕らはいったいどうすれば!?」と尋ねたのに対し、彼が「自分で考えろ!」と怒鳴ったことだ。ティムと一緒にいる中でわかっていったのは、人々は導師役を欲しており、自分が導師ではないのだと説明しようとすればするほど、自分が実際は導師で、この世の秘密を教えてくれうるのだと、より多くの人が確信することだった。人々は「答え」と呼べるものを求め、何らかの目標に到達したいと欲しているのだった。しかし、答えも目標も、そもそも存在しないのだ。「勝ち」なんてものはないのだ。

ティモシー・リアリーによって自分本来の「悟りへの道」を踏み外させられた後、現在に至るまで、僕は好奇心と懐疑心の両方を伴ったスタンスで、様々なスピリチュアル系や気づき系の探求、追究をやってきた。今思えば、ティモシーは精神的な道というものの存在を実は信じていたんじゃないかという気がするけど、僕があの時たどっていた道そのもの、そしてその道についての僕のナイーブな認識は、さらなる探求心をもって一から出直せるように、あの時点で完全に粉砕されてよかったのだろうと思う。

僕は導師的存在の吸引力や、自分自身が導師的なものと誤解されるようなことをかなり頑張って避けてきた。これまでに大勢の方に師事し、様々な瞑想やマインドフルネス(気づき)の方法論を試してきたが、まだ自分では初心者だと思っている。僕はここまでの旅路にはとても満足しているし、人生1年1年、毎年より多くの幸せを享受し、より面白く感じている。自分の人生の鍵となる時点で軌道修正をしてくれたティモシーにお礼を言いたい。

去年、Eメールでのやりとりで、タフツ大学に短期間だけいた時からの古い友達、Pierre Omidyar(ピエール・オミダイア)が、Tenzin Priyadarshi(テンジン・プリヤダルシ)を訪ねたらどうかと書いてきた。Tenzin は MIT の Dalai Lama Center の責任者で、会って話して一緒に講座をやってみようと決まった。最良の学びは教えることで得られるという格言にあるように、僕は講座で教える側にまわることでマインドフルネスについてもっと学び、実践面の修練もできるだろうと、二つ返事で話に乗った。

テンジンと相談して、講座名は「Principles of Awareness」(意識性の大原則)に決めた。

意識とは何か。自己意識は最初から備わった状態なのか、それとも練磨によって成されるものなのか。アウトプットや心地よさの改善に寄与しうるのか。技術は意識を高めたり、あるいはその足を引っ張ったりする要因になるのか。我々が意識をもちうるこの能力に、倫理的な枠組みはあるのか。自己意識は幸せに繋がるのか。我々の講座は体験学習的な学習環境で実施し、学生/参加者が意識にまつわる様々な理論や方法論を掘り下げることができるようにする。学生には公開で記録を残すことを義務づけて、方法論や評価などを記録してもらい、講義中に定期的に成果や観察内容をプレゼンしてもらう。最終的なプロジェクト内容は、「アウトプット」や「心地よさ」に注目した、意識にまつわるツール、方法論、インターフェースなどの評価となる。

クラスミーティング(オンラインおよびオフライン)では実践、レクチャー、そして招聘講師や専門家とのディスカッションなどを行う。講義の一部は一般にも公開する。実践は瞑想からハッキングまで幅広い内容となる。

先週水曜日に実施した第1回目の講義は実に興味深いものだった。学生の顔ぶれは多彩で、瞑想が初めてという学生も何人かいる一方で定期的に祈りを捧げる(瞑想の一種)習慣をもつ者もいた。マインドフルネスの様々な形での実践経験をもつ面々もいた。意識に関する話し合いにおいて、テンジンと私で瞑想についてたくさん話した。学生の1人が僕に、「で、その頻繁におっしゃっている『あちら』とは何のことですか」と質問してきた。僕は、自分が瞑想時に行く、あの真なる自然と繋がる「場所」を「あちら」と呼んでしまっていたことに気づいた。瞑想の技術やスタイルによって、至福の場となりうる「あちら」を。「あちら」は「悟りの境地」でもありうる。テンジンがすぐにフォローを入れ、「あちら」にたどり着くことに注目してしまうと全員が「あちら」に行きたがってしまい、趣旨とずれてしまうことを説明した。

まったくもって同感だ。気の動きと瞑想を統合した中国発の氣功について、僕が耳にした最も有用なコメントは、目的意識をもつべきではない、ということだ。氣功には「勝ち」などないのだ。目的はよりよい状態になっていくことではなく(やっていくうちになることはなるのだが)、実践そのものが目的なのだ。僕に言わせれば、瞑想そのものも同様だ。自分とか他人相手に「勝つ」ことが目的ではないのだ。このブログ投稿を書く行為自体も、自慢げに思えたり、「何でも知ってるぞ」感が伴ってしまう気がしていているが、実践の要点はそこではないのだ。どんな形での実践もやればやるほど上手くなっていくし、成長を嬉しく感じるのは悪いことではないものの、マインドフルネスと瞑想のそもそもの目的は自分が「今」にいることで、目的意識や利己主義にかられたり、未来や過去に気をとられることではないのだ。

人が自分の瞑想の実践について自慢するのを聞くとどうかと思うし、これまで僕は瞑想やマインドフルネスの話題は、自分たちの体験を話し合う際に少人数の方々としかしていなかった。しかし、意識に関する講座を担当し、学生たちに体験を残らず共有しろ、その公開ログを書け、などと求めている今では、僕自身もそうすべきだと感じた次第だ。

今後数週に渡って、僕の実験や観察の一部についてさらなる投稿ができればと思っている。

2 Comments

伊藤穰一様

謹啓
突然のご連絡失礼いたします。初期資金を探しているVentureです。書籍コードを取り電子出版行いながら、認知科学を応用したインターフェイスの開発をしております。日本の人工知能学会に初めて参画し、先日はじめてシリコンバレーに伺いました。三角形各辺の和17-23のスペクトル対応と言語論に関して、論文を書いておりますが、途中資金がスタックしてしまい、音響関連の開発室のかたから伊東様のことを伺いました。アーリーステージでのベンチャー支援に積極的との記事も読みました。特許申請した13編集Key、論文発表の標準理論ボタンなどのIDEAをどうしても結実させたいと考えております。
http://ci.nii.ac.jp/search?q=渡部好美&range=0&count=20&sortorder=1&type=0
http://ci.nii.ac.jp/search?q=きいろ堂&range=0&count=20&sortorder=1&type=0
ホームページ
http://kiiro123.wix.com/kiiro
http://kiiro123.wix.com/kiiro#!news-and-events/c1pz
こちらで、論文研究のテーマを
社会事業にしたプロジェクトをはじめています。
大変不躾ですが
ご支援頂くことは可能ですか。
                 敬具

渡部好美
WATANABE YOSHIMI

iiiiiiiiiiiii@me.com
Kiiro Book Store
GreenHeights202 5-35-2 Kamikitazawa, Setagaya-ku,
Tokyo, 156-0057 Japan

はじめまして

穰一さんのTEDでのトークを、日本で放送されているスーパープレゼンテーションという番組で拝見し、すぐにでも連絡したかったことがあります。

もはや考えてから十数年経ってしまいましたが、いまだに捨てられない思いがあります。

地球温暖化の話が一般に認識されたころ、どうすれば良くなるだろうか考えた人は多いと思います。私もその一人。

エアコンの室外機の横の排水ホースを見て、ひらめいたこと。
それは、砂漠地帯の、日照時間が長い地域で、巨大なドームを入り江に造り、室外機を海底に置き海水を温め、増えた蒸気をむき出した室内機で結露させるという方法で、海水を真水に替える。
そしてその水を、内地に送り、砂漠であるその近辺を緑に替えていくということ。

上記のことを実現したくとも、(生活をぎりぎり保つ程度の収入の私)個人では、一生かけても無理だと考えておりましたが、あの番組で穰一さんがおっしゃられたことで、少し実現できそうな気がしてきたのです。

しかし、何から始めたらよいかわからず、この投書をしてみることにしました。

はなはだご迷惑とは思いましたが、何かが私を押しているような気がします。

よろしかったら、このことをご一緒に考えてみていた出けませんでしょうか。