最近どうも「ブロガーの壁」に突き当たったみたいだ。自分のブログを読んでくれる人が増えるにつれ、より大勢の人に向けて書いているんだということを自覚するようになってきた。何か投稿する度に、いろんな視点からの、思慮深いコメントやメールが寄せられるんだから。
「素早く/頻繁な投稿」がブログの基本だという。それは確かに真実だと思うけど、自分が投稿したエントリーに関する議論の厳格さや、出会う人の中に占めるこのブログの読者の割合が増えていることを思うと、もっと面白くて「防御可能」なこと──自己弁護のために時間を費やさなくてもいいようなことを書くようにしないと、と構えてしまう。実際、何についてブログを書くかについては、ずいぶん保守的になってきていると思う。
デーナ・ボイドは、多面的なアイデンティティの決壊についてよく話をしている(僕はしょっちゅうリンクを張ることで彼女の言論のコンテクストを決壊させてます)。以前ダナが「お母さんにブログを見つかっちゃった」という記事を引用していた。これはアーヴィング・ゴッフマンが『行為と演技—日常生活における自己呈示』の中で言っていた「人間は相手によって言動を変え、異なるアイデンティティの一面を提示する」ということにも関連すると思う。
ウェブログで問題になるのは、読み手が多様なコミュニティに属するバラバラの人間であるがゆえに、書き手のアイデンティティの多面性は決壊し、結果として、公的なアイデンティティとしてはある意味「浅い」人格を選ばざるを得なくなるということだ。
シカゴでDJをやっていた頃からの友だちで米国国務省で働いている連中も、僕の会社の社員も、家族も、テキサスの思慮深い保守勢力も、サイファーパンク方面の友だちも、外交官も、日本で仕事のお付き合いがある方たちも、親しい友人たちも、みんな時々は僕のブログを読んでくれている。リアルの人生では、これらの人々に対する付き合い方はそれぞれかなり異なる。いろんなアイデンティティの一面を見せているわけだ。だけどブログでは、全員の反応のことを想像して書かなきゃいけない。それぞれに直接対話しているときのような「深み」に到達することは不可能だ。
だから、たとえば「お酒をやめた」というような個人的な話を露出することがあっても、ブログにおける僕のアイデンティティは浅くならざるを得ない。「深さ」の前提となるコンテクストがそこにはないからだ。僕の禁酒についてもらったコメントの中でも本当に思いやり深いものは僕(の酔態)をよく知っている人からのメールかIM(インスタント・メッセンジャー)経由のものだった。ブログって、自分の駄目さ加減を知るのに役立つようなものではないんだよね。
ハリーは「ヴァーチャルな親密さ」について書いている。どういうことだろう? 僕は彼女の言う「親密さ」はロビン・ダンバーの「魔法の数字150」に繋がる話だと思う。
さて、現時点で#joiitoのIRCチャネルにたむろしてる人間の数は87人。IMの友だちリストに入っているのは216人(同じ人が重複していることもある)。一方でLinkedInのサービスでは僕は490人の人と繋がっていて、携帯電話のメモリには510人分の登録があって、年賀状は約1000枚もいただく。ブログに関しては、1日に13,000のユニークアクセスがあり、ページビューは30,000。今日参加したとあるNPOの基金調達の会合で出会った政治運動家が言うには、選挙に当選するためにはだいたい50,000人と握手しなきゃいけないそうだ。
ロス・メイフィールドは、人間のネットワークを政治的、社会的、創造的という3つのレイヤーに分類している。政治的なネットワークは1,000人単位、社会的だと150人規模、創造的となると12人程度になる。僕の感触では、政治的なネットワークは10,000人単位で、次に来るのがビジネスのレイヤーでこれは500人規模、で、創造的なネットワークが12人くらいだということには異論はない。もちろん科学的な意見ではなくて、個人的な考えだけどね。
この仮説を前提にすると、このブログは政治的なレイヤーに近づきつつあることになる。そう考えると、仕事の連絡をLinkedInで済ませることが多くなった分、IRCやチャットで話をしている時間は気取らずにハッピーでいられることや、今でも何より夕食のおしゃべりが好きなのも肯ける気がする。もし、自分のブログの読み手の規模や人員構成を自分で決められるなら、それぞれのレイヤーに合わせて書き方を変えることもできるだろう。
ミーナは、ブログの本質は一部の評論家タイプの人間が「メディアに対抗する」みたいなものじゃなくて、むしろ普通の人たちが友人たちと一緒に楽しむところにあるんだ、と言う。僕もそう思うし、政治的なレベルに持ち込んでしまうよりは、気持ちとか感情のレベルでブログをやっている方が、よっぽどやりがいがあるのかもしれない。ただ、気をつけなきゃいけないのは、ある日突然有名になっちゃったり、母親に見つかったりして、それまで築いてきたコンテクストがいきなり瓦解しちゃうこともあるということ。
自分のブログのオーディエンス、およびアイデンティティの多面性を管理することはとても難しい。これを本気でやろうとすると、オンラインでも実生活でも、人生最大級の苦労を強いられる。
──以上、なんか最近うまくブログできないよ、ということをブログしてみました。
Joiさんが日本語でもBlogしているということを発見、単純に驚きました。英和比較してませんが、翻訳ソフト等にかけてるんですか?ただBlogするだけでも多大な時間と労力を必要とするでしょうに、多忙なJoiさんがそこまでしてるとは、ほんとに驚きました。
さて、Blogに関してはまったく素人の上、その存在をいつも疑問に思っている者のひとりとして、興味深くarticleよみました。丁度Jimも昨日Blogについて立ち止まって考えてみることにしたんでしょうか、お休みしてるみたいです。パートナーの私としては清々しいというか...いつも同じ部屋にいる私より、Blogやチャットを通じた目に見えない人達の意見や存在感の方が勝っているような気持ちになることがあるので、彼のBlog休憩は歓迎でした。Blogは他の媒体にない利便性やいろいろいいことあるんだろうけれど、個人的にはナマミの人とのコミュニケーションが大事でまたは、少数の本当にケアする人々を知ること一緒に考えることを好みます。それは、あくまで自分が他人に影響力を持たず(今後持つこともないと思いますが)*のんき*な存在であるのと、あとは自分がprivateな人間だからかな。あらゆる意味でBlogをする人は勇気ある人に思えてなりません。ま、ある時は匿名だったり、匿名だからこそ恥も外聞も捨てた内緒ごとをpubliclyに話せるし、話したいのかもしれないけれど。隣に座ってるごく普通のグレーのスーツで七三のおじさまが「そんなバカななこと!」を書いてるかと想像すると、ちょっとおかしいけれど、そんな人の奥様とか、その旦那の実態を知ってるのかな。パートナーであるJimのことを、彼のBlogを読まなければ把握できないようにはなりたくないと思う今日この頃。
きっといまが過渡期、だから、きっといまが面白い
それでは無理なのでは?
日本語と英語の両方のblogをされているのは、ただでも忙しいのに、大変にすばらしいことですね。
僕はBlogについてあまり詳しくないけど、自分の考えや感じや出来事を書くと世界が少し小さくなって皆の心が近づいて行く。面白いかどうか、それは別のことかな〜。とにかく、先週前に僕はBlogを全然読まなかったけど、君のBlogを読んですごい興味を持ってきた。(ところが、僕は、滋賀県に住んでる英語の先生です。小学校で働いています。楽しい。)ありがとう〜
伊藤さんのように影響力の大きい方がブログをするとこのような問題に行きつくのですね!
でも、ブログの先頭を突っ走る伊藤さんの存在はとてもまぶしいです。
僕も伊藤さんのあとを追いかけてガンバリマス。
寒くなってきますので風邪だけにはご注意ください。
東京インターネット時代から利用している xxx@xxx.an.egg.or.jp
メールアカウントや契約を廃止しようと追跡していて、ここにたどり着きました。
現在はソフトバンクに吸収された模様。
どこで手続きしたらよいものでしょうか。。
無料かどうかだけでもわかればよいのですが。
IDCソフトバンク様のほうで対応していただきました。
おじゃましました。