2018年8月 Archives

ブログ用のDOIが使用可能に»

MIT Pressとの共同作業でKnowledge Futures Groupを開発するにあたって、学術出版というものをちゃんと理解しようと勉強中。いろんなプロトコルやプラットフォームを調べる中で、特に興味深かったのがデジタル・オブジェクト識別子(Digital Object Identifier(DOI))だ。DOIを管理し、登録機関の連盟をまとめている組織がある。DOIには様々な用途があるが、主な目的はデータセットや出版物などのデジタル・オブジェクトに永続的な識別子を割り当て、メタレベルでURLを管理することだ。URLは、学術論文が起草されてから発表されるまでの間、あるいは映画がサプライチェーンを通る過程で変更する場合があるため、DOIが役に立つのだ。

Crossrefという登録機関は、学術出版物やそれらに含まれる引用データを専門に扱っていて、このサービスによりDOIは引用データを効率よく管理・把握する便利な方法として普及した。学者たちが所属機関情報や出版物を管理するために使うORCIDなど多くのサービスでは、DOIは出版物を取り込み、管理する手段として利用されている。

DOIには様々な用途があるものの、その取得と設定にはある程度手続きが必要であることと、学術関連のパブリッシャーのためのサービスであるCrossrefが成功したことにより、DOIには「権威」、「信頼」、そして「正式な出版」といったイメージが定着した。CrossrefのGeoffrey Bilderは「実際は違う」と警告しており、DOIを上記のように捉えるべきではない、と発言しているものの、僕は今のところは、この認識で問題無いと思っている。

学者が自分のプロフィールや引用データを管理するために利用できるいろいろなツールを使ってみた。僕の場合、査読された論文はこれまでひとつしか発表していないけれど(査読してくれたKarthik、Chelsea、Madars、ありがとう!)、管理してみて気づいたのは、ブログ投稿がインデックスされないこと。また、博士論文を書くために調べものをしていて気づいたのは、ブログが引用されることはあまりないこと。僕は職権を利用し、研究という名目でMIT PressのAmy Brand所長にあるお願いをしてみた。彼女は以前Crossrefに所属していた頃、DOIの採用に携わった人物で、そんな彼女に僕のブログ投稿にDOIをつけてもらえないか聞いてみたのだ。

思ったより手間のかかるプロセスだった。まず、登録プロバイダにて登録されたDOIプレフィックス(ドメインのようなもの)が必要なのだ。これは、AmyがCrossrefを経由してMIT Press名義で取得してくれた。BorisがDOIサフィックス形式を定義し、サブミッション・ジェネレータを用意し、僕のブログに必要なものをすべて組み入れてくれた。MIT PressのAlexaが僕のブログのDOIをCrossrefに登録する手続きを取ってくれた。次に問題となったのは、DOIの世界には「ブログ」というカテゴリーは存在しないこと。専門家に相談したら、一番近いのは「データセット」ということだったので、僕が今書いている文章は、以前まではブログと呼ばれるものだったけれど、DOIの観点から、そして学術界的には、データセットという名称となるのだ。いつかどこかで誰かが引用するかもしれないものとして、この投稿には意義があると思っているので、DOIをつけてもらったことは問題ないと判断している。Crossrefがブログ投稿の「creationType」を増設するか、あるいは、引用されるウェブ資料をより広く扱うスキーマに拡張してくれれば、と思う。

また、APAのブログ引用書式がURLだけでなく、ブログの名前も含まれるように更新されることを希望する。僕は滅多にルールを破ることはしないけれど、このブログAPA引用テンプレートでは、正式なガイドラインから逸脱してブログの名前を付け足した。この投稿のAPA引用は厳密に言うと「Ito, J. (2018, August 22). ブログ用のDOIが使用可能に. [Blog post]. https://doi.org/10.31859/20180829.1929」となるけれど、僕は「Ito, J. (2018, August 22). ブログ用のDOIが使用可能に [Blog post]. https://doi.org/10.31859/20180829.1929」とした。この変更した書式を使って提出した論文が減点されても責任は取れないので、ご承知願いたい。

ブログ投稿が引用されない傾向についてツイートした際、ブログは査読されないため、引用されれば問題が生じる可能性があるという反応があった。それはもっともな意見だし、考慮しなければいけない課題だけれど、引用されるものをすべて査読する必要は無い、と僕は思う。一方で、他者の文章を明確に引用し、ブログ投稿に貢献した人たちやその内容を明記し、査読が行われるべき場合は行うようにしたほうがいい、とは思っている。

「ブログ」という名称にこだわりがあるわけではないけれど、これはブログだと思っている。ブログが可能にしてくれたように、迅速に何かを発表し、学術文献の世界に繋げられるようにしておくことは価値があることだと思う。

最近では、学術プレプリント・サーバの人気が高まり、学会誌への寄稿をしなくなった学者が増えている。論文は学会誌に提出せず、アーカイブ・サーバに掲載し、学会でプレゼンテーションを行う、という流れだ。

僕の印象では、学術出版側による調整、ブロガー側の慣行の調整、そして両方のカルチャーの調整が行われれば、ブログはこの環境で相当な役割を果たせるはずだ。Geoffreyは「引用する価値のあるものには何でもDOIをつけるべきだ」と提言していて、僕も賛成だ。さらに言うと、ブログは引用する価値のあるデータの塊であるだけでなく、非公式の出版物のような存在であってもいいと僕は思う。

こういったことを考える時のパートナーであり、僕のブログのデザインや管理を15年も続けてくれているBoris Anthonyは、セマンティック・ウェブや知識の創造について深く考えており、このブログを整理するにあたってかけがえのない働きをしてくれた。また、僕のブログ投稿すべてにDOIをつけるのではなく、学術的な価値があるものに限定すべきだと説得してくれたのも彼だ。(^_^)

追伸 ワードプレス用のDOIプラグインがあるようだ。デベロッパーが登録したプレフィックスを使用したものらしい。

Credits

このサイトにDOIを実装するための技術面やデザイン関連の作業を行い、この投稿が取り上げたアイデアや編集を手伝ってくれたBoris Anthony氏

DOIを取得し、理解し、文章で紹介するにあたって指導してくれたAmy Brand氏

DOIのフォーマットを正しく行い、Crossrefに届ける際に手伝ってくれたAlexa Masi氏

訳:永田 医

国連特別報告者のフィリップ・アルストンは、2017年12月15日にある厳しいリポートを発表した。ニューヨーク大学ロースクールの教授であるアルストンは人権活動家で、貧困問題などの専門家でもある。

リポートでは、スタンフォード大学の貧困と不平等研究センターが算出した次のようなデータ[PDFファイル]を引用した。「労働市場、貧困、セーフティーネット、経済的な不平等という観点から見ると、米国は世界で最も裕福な10カ国のうち最下位である。そればかりか21カ国中でも18位にとどまっている」というものだ。

そのうえで、「米国における社会的な流動性は、先進国のなかで最低レヴェルにまで低下している。アメリカン・ドリームは急速に色あせ、幻想となりつつあるのだ」と書いている。

このリポートの発表に先立つ同年の12月11日、日刊紙『ボストン・グローブ』に興味深い記事が掲載された。同紙の調査報道班「スポットライト」チームの調べによると、ボストンの都市圏に住む非移民の黒人世帯の純資産の中央値は8ドル(約900円)であるのに対し、白人世帯の純資産は平均で24万7,500ドル(約2,780万円)だという。

米国は明らかに、所得格差によって分断されてしまっている。そして、この問題に対する有効な解決策は見つかっていない。

同様の懸念を抱くテック界のリーダーやカトリック教会の代表者と、働くことの未来について過去数年にわたって広範な議論を続けてきた。こういった状況のなかでよく出てきたのが、ユニヴァーサル・ベーシックインカム(UBI)という概念だ。

これまで仲間と同じように、UBIについてはっきりとした態度を取ることを避けてきた。しかしいま、これについてきちんと考えるべきときが来たと感じている。

賛否がはっきりと分かれる概念

テック業界やヘッジファンドの著名人の「仲間うち」では、米国における貧困と技術革新による雇用喪失という問題への優れた解決策として、UBIがよく取り上げられる。ただ考え方自体はそれほど目新しいものではなく、わたしが生まれる前から存在した。

UBIは、生活保護のような現金の支給か負の所得税(所得が一定水準に達していない人も税金を還元する仕組み)といったシステムによって貧困層(もしくは国民全員)の生活水準を改善し、社会改革を起こそうという概念だ。

興味深いことに、この概念はノーベル賞経済学者のミルトン・フリードマンのような保守派から、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような改革派まで、どちらからも支持を得ている。一方で、UBIを批判する声も保守と革新の両方から聞かれる。

保守派は、社会保障費の削減が可能になるという理由でUBIに賛成する。医療や食糧支援、失業手当といった個々の社会保障の代わりに一定金額を支給して、その使途に政府が関与せず個人が決めるようにすれば、究極的には安上がりだというのだ。

これに対して、改革派はUBIを富の再分配の機会と捉える。例えば、無報酬で家事労働に従事するグループにも収入の道が得られる。さらに、UBIの支持者はこれが貧困の撲滅につながると主張する。

しかし一方では、同じくらいの反対意見も存在する。保守は労働意欲が失われると警告するし、財源をどうするかという問題もある。働く者が働かない者を養うという結果に陥るのではと懸念しているのだ。

また懐疑的な改革派は、雇用主が賃金を引き下げるのではないかと指摘する。ほかにも、国が既存の社会保障を骨抜きにし、提供する責任を放棄する言い訳に使われるのではないかと懸念する声もある。

結果としてUBIは、党派が対立する問題でありながら、超党派の支持を得るというパラドックスに陥っている。

パネリストとして最近招待されたあるカンファレンスで、司会者が「UBIについてどう思うか」と参加者に質問する場面があった。500人ほどいた聴衆の大半は、「効果があるかはわからないが、実証プログラムなどをやってみるべきだ」と考えているようだった。

UBIに対する意見が大きく異なるのは、運営方法や社会的な反応がほとんどわからないからだ。具体的に、どのようなものなのかきちんと理解している人は少ない。スマートフォンやWikipediaが登場する以前の、酒場における酔っ払いの言い争いと同じで、正確に議論できないのだ。ただ、知っておくべき基本原則や、実態を想像するのに役立つ研究がある。

シリコンヴァレーが原因で注目を集める

UBIという制度が注目を浴びるようになったのは、シリコンヴァレーが原因だ。テック界の大物や学者などが「ロボットや人工知能(AI)は、近いうちに人間の仕事を奪うだろう」と騒ぎ始めたのである。同時に「ロボットは誰もやりたがらない低賃金の単純労働を担うようになる」というポジティヴな予想もある。

一方で「ロボットが自分の能力には見合わないと判断した底辺の仕事を、人間がやらされる羽目になる」と警告する専門家もいた。そして、UBIはこの状況を救うことができるかもしれないという。

昨年の全米知事協会の会合でイーロン・マスクは、テクノロジーが人間の雇用を奪うという未来は「自分にとっては最も恐ろしい問題」で、「解決策は容易に思いつかない」と語った

マスクや一部の起業家は、UBIによって収入が確保されれば相応の余暇ができるため、この空き時間を使い、自らを鍛え直すことができると主張する。勉強してロボットにできない技術を身に付ければいいと言うのだ。新しいタイプの起業家が誕生し、アメリカン・ドリームが再来するかもしれないとまで言う者もいる。

ただ、それは少し先走り過ぎているかもしれない。英国のバース大学政策研究所のルーク・マルティネリは「財政的に実現可能なUBIでは不十分だし、十分なUBIは費用という意味で現実的ではない」と指摘している[PDFファイル]。大筋のところでは、この意見に同意する。

財源が最大の課題に

UBIで最も大きな問題は財源だ。仕事をせず、自分の好きなことを追求するのに必要な額(給与収入がゼロになっても最低限の生活ができる額)を月1,000ドル(約11万円)とした場合、すべての国民に支給するには、たいていの国で国内総生産(GDP)の5〜35パーセントに相当する予算が必要になる。これは、先進国の貧困を撲滅するコストとしても、かなり割高だ。

つまり、すべての国民が日々の生活を送るのに十分な額を本当に支給しようとすれば、社会保障をなくして浮いた金をUBIに回すしか方法はない。リバタリアニズムの信奉者と保守派の一部は賛成するかもしれないが、大方にとっては受け入れられる案ではないだろう。

シリコンヴァレーの議論を支えているのは、ピーター・ディアマンディスが『楽観主義者の未来予測』で主張しているような「科学とテクノロジーの急速な進化により、豊かな未来が訪れる」という信念だ。

ディアマンディスは医療の進歩やコンピューターの処理能力の向上、AI開発を含むテクノロジーの発展によってシンギュラリティ(人工知能が人類の知能を超える転換点)がもたらされ、世界が一変すると主張する。いまの世界が暗黒時代のように感じられる未来がやってくるというのだ。

ディアマンディスは、人間の脳はこうした未来を直感的に想像できないため、長期的な変化を過小評価する傾向にあると説明する。人類は「数十年後には、いまからは想像できないほど豊かになっているだろう」と、彼は著書に書いている。

彼は「わたしたちはすぐに、地球上のすべての人間の基礎的な需要を満たし、さらにはこれを上回る能力をもつようになる。全人類が富を手にする未来は、すぐそこまで来ているのだ」とも主張している。

ただ、テクノロジストが忘れがちな事実をひとつ指摘しておきたい。わたしたちはすでに、実際に世界全体を養うのに十分な量の食糧をもっている。その分配がうまくいかないだけだ。

テック業界とUBIの関係

テック界の富豪は「ケーキは残しておけるし、それを食べられる」と考えている。富裕層が経済的に豊かになれば、いずれは貧困層にも富が行き渡るというトリクルダウン理論を信じている。最終的には、誰も苦しまずに世界全体が豊かになると思っているのだ。では、彼らにはなぜそのような確信があるのだろうか。

テック業界に君臨する企業は、非常に短期間でトップまで上り詰めた。創業者も同様に、あっという間に莫大な富を手にしている。そして、マーク・アンドリーセンが『ウォール・ストリート・ジャーナル』への寄稿「Why Software is Eating the World(ソフトウェアが世界を飲み込む理由)」で予言したように、この快進撃に終わりはないように見える。

シリコンヴァレーのリーダーのほとんどは、急拡大する市場のおかげで、過去のゲームの勝者たちのように攻撃的な戦略を取らなくても富を築くことができた。このため、彼らは自分たちのビジネスが本質的には「よいことをしている」と感じている。そしてこの結果として、大まかに言うと恵まれない人を救うべきだと強く信じているのだ。少なくとも、そう思える。

米国やフィンランドの事例

テクノロジストは次のように考えている。自分たちの予見が正しく、機械化によってアメリカのGDPが大幅に拡大するなら、この未来に付随する問題を何とかするのも自分たちの役目であるに違いない。

テック界の大物は、UBIに関する研究を支援したり、自分の資産で実証や実験をし始めたりしている。社会秩序を保ちながら、自分の支配的な地位を維持できる未来を実現するためだ。

UBIの小規模な実証実験は、地域や組織において過去に何度も行われている。なかには労働を伴わない収入があっても、個人の勤労意欲は失われないという結果が出た事例もある。UBIを受け取ることになった人々は望まない仕事は辞めたが、よりよい職を探したり、学業を再開したりすることを選んだという。

Yコンビネーターの社長であるサム・アルトマンも、UBIの実験を進めている。「Basic Income Project」という少しばかり退屈な名前のこのプログラムでは、全米の2州からランダムに選んだ3,000人に対して実施される予定だ。

選ばれた人のうち、1,000人には月額1,000ドル(約11万円)、2,000人には50ドル(約5,617円)だけ支給される。後者はコントロールグループと呼ばれ、結果を検証する際の比較対象となる。

5年にわたるこの実験では、無条件で金をもらえる場合に人間がどのような行動を取るのかが明らかになるだろう。つまり、UBIを考える上でのひとつの科学的根拠が与えられるわけだ。UBIに関しては、エヴィデンスが絶対的に不足している。

結果はどうなるだろう。被験者は実際によりよい仕事に就こうとするのか。新しいことを学ぶための挑戦を始めるのか。子どもであれば学ぶ機会が増え、脳の発達が促進されるのか。犯罪率は低下するのか。こうした数々の疑問に何らかの答えが出るかもしれない。

ほかの大きな支持を集める理論と同じで、実際にどう運用していくかで現実のUBIの明暗が分かれる可能性がある。17年1月より開始し、大きな注目を集めているフィンランドの実験的なプログラムを例に考えてみよう。

フィンランドの社会保険庁事務所(KELA)と研究者チームが「就労の有無にかかわらず、国民に月額550〜700ユーロ(約7万2,500〜9万2,000円)を一律で支給してはどうか」と提案したのがきっかけとなり、スタートした。

フィンランド政府は、失業保険を支給されている非就労者のみを対象とし、この提案を受け入れた。保守政権はUBIがよりよい職の選択や新しい分野への挑戦につながるかには興味がなかったようだ。

彼らは「実験プログラムの重要な目的は雇用の促進にある」とはっきりと主張している。こうして労働を再び有意義なものとし、リベラルな価値観を推奨するアイデアは、つまらない仕事でもとにかく就業を促すための保守的なプログラムに変わってしまった。

これは、UBIを実施するには政治が大きな影響を及ぼす可能性があるという、大きな警告といえる。フィンランドの実験が終了するのは19年末だ。最終的な結果が出るまでにはまだ時間がある。

クリス・ヒューズの主張

Facebookの共同創業者のひとりで、そこそこの金持ちとなったクリス・ヒューズは、少し違った見解を示している。彼の案は、シリコンヴァレーのテクノロジーによる薔薇色の世界という未来予想と、東海岸のリベラル派の考え方のちょうど中間といえるだろう。

詳細はヒューズの新著『Fair Shot: Rethinking Inequality and How We Earn(フェアショット:不平等を再考し、いかに獲得するか)』に書かれているが、簡単に説明すると以下のようになる。

まず、UBIはいますぐにでも始められる。具体的には、給付つき勤労所得税額控除(EITC)を通じて中低所得の納税者に月額500ドル(約5万6,000円)を支給することにより、「米国の全国民に経済的安定」を与えられるという。この際には、児童手当、高齢者向け福祉、教育手当などもEITCの対象に含める(現行のシステムでは、給与所得を伴わない場合はEITCの対象にならない)。

ヒューズは、この方法で「アメリカの貧困を半分に減らせる」と主張する。EITCには現在、年間700億ドル(約7兆8,700億円)かかっている。だが彼のやり方を採用すると、費用は2,900億ドル(約32兆6,000億円)に拡大してしまう。

ヒューズはフランスの経済学者エマニュエル・サエズとガブリエル・ズックマンの「アメリカの富の90パーセントは人口の1パーセント以下の超富裕層に集中している」という研究を引き合いに出し、この上位1パーセントへの所得増税を訴える。

具体的には、年間所得が25万ドル(約2,810万円)を超える層への所得税率を現行の35パーセントから50パーセントに引き上げるというのだ。投資収益も一般所得と同様に扱い、長期的に保有する株式の売却益への課税率は高所得者層に対し、20パーセントから50パーセントに引き上げられる。

ヒューズは実際に私財を投じて、自らの理論を証明しようとしている。カリフォルニア州ストックトンで行われる実証実験に「必要な資金を提供する」と決意したのだ。

UBIは米国を救うのか

UBIは米国を救うだろうか? 議会では富裕層を対象とした減税法案が通過したし、大統領もこれに署名した。それでも、わたしはヒューズの提案はある程度は合理的だと思う。実際にEITCは評判のいい制度だ。

懸案材料は現在の政治情勢と、わたしたちがものごとを冷静かつ論理的に話し合う能力が大きく損なわれたままである、という点だろう。これに加えて、合理的なアイデアを法制化しようとするときには付きものの、さまざまな問題もある。

ひとまず、シリコンヴァレーの富裕層がついに「このままいくと将来的に自分たちのビジネスに負の影響が出るかもしれない」と気付き始めたのは、素晴らしいことだ。UBIをめぐる研究に注目が集まっているばかりか、私財を投じた実験プログラムも行われている。

いまの社会では証拠というものは軽視されがちだ。しかしこうした実験が、UBIを理解するうえで役立つ科学的なエヴィデンスを提供してくれるだろう。

わたしは楽観的すぎるだろうか? そんなことはないと思う。では、現状を打破するためにやれることはすべて試してみるべきだろうか。そして、UBIは見込みのある解決策だろうか?

答えはどちらも「イエス」だ。

Credits

Translation by Chihiro OKA

わたしたちが積み木やクッキーのオレオが積み重なっているのを見るとき、それがどの程度安定しているかを直観的に感じ取る。倒れそうなのか、そうだとしたらどの方向に崩れ落ちるのかといったことを予測できるのだ。ここでは物体の量や質感、大きさ、形、向きといった条件を加味した極めて複雑な計算が行われている。

マサチューセッツ工科大学(MIT)教授のジョシュア・テネンバウムが率いるチームは、脳にはいわば直観的な物理演算エンジンとでも呼ぶべき能力が備わっているという仮説を立てた。人間が五感を通じて収集する情報は不明確で大量のノイズを含んでいるが、わたしたちはそれでも、その先に何が起きるのかを推測することができる。それによって外に逃げたり、米袋が倒れないように慌てて抑えたり、耳を塞いだりするのだ。

この「ノイズのあるニュートン物理学」のシステムは確率的予測に基づいており、予測が外れることもある。下の写真にある、不安定な形に積み上げられた石について考えてみよう。

脳は過去の経験から、石がこのままの状態を保つのは無理だと考える。ただ一方で、石は実際にそうなっている(これはパソコンゲームの物理演算エンジンと似ている。「グランド・セフト・オート」シリーズのようなゲームでは、プレーヤーが仮想世界の物体にどう反応していくかがシミュレーションされる)。

常識的な判断のできる人工知能AI)はこれまで、この分野で最も難しい研究課題のひとつだった。つまり、現実世界の物事の働きやその関係を「理解」し、その目的や因果関係、意味をくみ取ることのできるAIである。

AIは長年にわたって驚くべき進化を遂げてきたが、実用化されているものの大半は統計的な機械学習を基にしている。ワークモデルを構築するには、例えば大量の画像といった学習データを必要とする。人間がそれぞれのデータに「猫」や「犬」といったラベル付けをしてやると、ニューラルネットワークはそれを参照し、特定の画像が何であるかを推測するようになる。うまくいけば、人間と同程度の正確さに達することが可能だ。

この統計モデルに完全に欠けているもののひとつが、データの中身の理解である。AIは写真に写っている犬が動物で、ときにはクルマを追いかけたりするということを知らない。そのため、この種のシステムで正確なモデルを構築するには、大量のデータが必要になる。システムは画像のなかで何が起きているのかを理解するのではなく、パターン認識に近いことをしているからだ。それは「学習」に対する総当たり的なアプローチで、高速なコンピューターと膨大な量のデータセットが手に入るようになったことで実現した。

現実世界との相互作用が意味すること

機械学習は子どもの学習の仕方とも大きく異なる。それを説明するために、テネンバウムがよく引き合いに出す動画がある。ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所の所長を務めるマイケル・トマセロと、フェリクス・ヴァルネケン、フランシス・チェンが共同で作成したもので、大人の男性と小さな男の子の意思疎通に関するものだ。

男性は扉の付いた戸棚の前に立ち、手に持っている数冊の本を扉に何回か当てる。そばでその様子を見ていた男の子が、男性はその本を戸棚にしまいたいのだと理解し、戸棚の扉を開けてくれる。男の子の仕草が何ともかわいらしいのだが、それはともかく、ここで示された目の前で起きていることを見て解決策を思いつくというのは、人間にしかできないことだ。

男性の行動を見ていた男の子は、その場の状況を本能的につかんでいる。戸棚には扉がある。蝶番が付いているから、取っ手を手前に引けば扉が開くはずだ。一方で、男性は本を何回も戸棚にぶつけている。男の子は目の前にある物体や、そこで起こっていることを観察するだけでなく、男性の意図は何かを考える。「彼は何かをやりたいけれど、うまくいかないのだろう」と推測するのだ。

男の子が扉を開けるという行動に出るには、「人間が何かをしているときには計画や意図があり、それを達成するために他者による助けを必要とすることがある」ということを理解していなければならない。人間の子どもには複雑な概念を学習し、その概念を現実の世界に当てはめる能力が生まれつき備わっているのだ。子どもは誰に指図されることもなく、この能力を自然に発揮する。

わたし自身にも小さな娘がいるが、彼女も現実世界との相互作用を通じて学習していく。まるで脳の内部にあるさまざまな演算装置やシミュレーターといったものをトレーニングをしているかのようだが、そのひとつが(テネンバウムの言葉を借りれば)物理演算エンジンなのだろう。

このシステムは、積み木で遊んだりコップをひっくり返したり、椅子から落ちたりすることで、重力や摩擦の法則などのニュートン力学が、わたしたちの生活にどのように現れるかを理解する。そして、自分はこの世界で物理的には何ができるのかについて、基本的なパラメーターを身につけていくのだ。

子どもはこれに加えて、生まれたばかりのときから社会的エンジンとでもいうべき能力を示す。他者の顔を認識し、視線を追い、現実世界における社会的対象の考え方や振る舞い、そしてそれらが互いにどう作用していくのかを把握しようとする。

専門家が直観の役割を過小評価する理由

ワシントン大学教授のパトリシア・クールは、幼児の言語習得をめぐり「ソーシャル・ゲーティング」という仮説を立てた。人間の言語能力は、乳幼児期に周囲の世界とのやりとりを通じて養われる社会的理解力の発達と結び付いている、というのだ。また、ハーヴァード大学の認知心理学者エリザベス・スペルキは、乳幼児がどのようにして、生後10カ月といった早い時期から他者の目的を推測する「直観的心理学」を構築していくのか研究している。

ノーベル経済学賞の受賞者で行動経済学の大家ダニエル・カーネマンは著書『ファスト&スロー』のなかで、人間の脳の直感的な部分は数学や統計といったことはあまり得意ではないと書いている。カーネマンは以下のような例を用いて、このことを説明する。

野球のバットとボールがセットで1.1ドルで売られている。バットはボールより1ドル高い。さて、ボールはいくらだろう。多くの人が直観的に、10セントだと思うのではないだろうか。それは間違っている。ボールが10セントでバットはボールより1ドル高いなら、バットは1.1ドルだから、両方合わせれば価格は1.2ドルになる。正しい答えは、ボールが5セントでバットが1.05ドル。これなら合計は1.1ドルだ。

ここから明らかなように、直感は数字に関しては騙されやすい性質がある。自然界にある積み重なった石が、わたしたちの脳の物理演算エンジンを混乱させるのと同じだ。

学者や経済の専門家たちは、科学や学術研究における直観の役割を過小評価する理由として、バットとボールの例を持ち出してくる。しかし、これは大きな間違いだ。直感は物理的および社会的状況を素早く判断するのに使われるが、このとき脳は説明が不可能なほどに複雑な演算処理を行っている。こうした計算を数学的に書き出して実行することはできない。

例えばスキーが上手な人でも、滑っているときに自分が具体的に何をしているのか説明するのは難しいし、入門書を読んだだけでスキーができるようにはならない。脳と体は一緒になって動き、同調し、非常に複雑な方法で何かを学ぶ。成功すれば、直線的な思考を介さなくても、一連の動きが流れるようにできるようになる。

人間の脳は乳幼児期にとてつもない変化を遂げる。赤ん坊の脳では成人の2倍の数のシナプスが形成されている。そして脳が成熟するに従って神経同士のつながりは整理され、知覚の対象となる複雑なシステムの直観的理解力が養われる。階段、母親、父親、友達、クルマ、雪山といったものがわかるようになるのだ。

さらに成長すれば、波の細かな違いを見分けて大海原を航海できるようになるかもしれない。さまざまな種類の雪を研究する者もいるだろう。一方で、脳が重要でないとみなしたシナプスは淘汰されていく。

自然の声を聞けるシャーマンは「原始的」なのか

言葉を用いて何かを説明し、議論し、互いに理解する能力は非常に重要だ。ただ一方で、言語は単純化された表現手段であり、受け手によって違った意味合いをもつ場合があるということも理解しておく必要がある。わたしたちが知っていることや考えていることの多くは、言語化できない。何かを言葉で表すとき、それは実際の考えや理解の概要でしかないのだ。

どうやって滑っているのか説明できないスキー選手を否定するのが愚かであるのと同様に、事物のバランスが崩れているという自然の声を聞くことのできるシャーマンの直観をないがしろにすべきではない。先住民たちの鋭敏な感覚や彼らの自然との結び付きを「原始的」と見なす価値観の背後には、彼らはこういったものを言葉で説明できないし、わたしたちはそれを理解できないという現実がある。ただ実際のところは、彼らがもっているような自然を知覚する直観が、わたしたちには備わっていないだけかもしれないのだ。

わたしたちの脳は、自然の声を理解する神経細胞を退化させてしまったのかもしれない。そういったものは都市での生活には必要ないからだ。わたしたちは人生のほとんどを読書やコンピューターのスクリーンを見つめることに費やし、個室で座って世界を理解するための教育を受ける。

その結果として、世界を数学的あるいは経済的に説明する能力は身につくだろう。だとしても、その能力によって世界を正確に把握していると断言できるだろうか。わたしたちの脳は生態系のようなものについて、幼い頃から大自然に囲まれて育った脳、つまり自然を直感的に理解できる脳よりも、よくわかっているのだろうか。

機械が「直観モデル」を学習できる日

思い切って謙虚になってみてはどうだろう。わたしたちが「無知」とみなしている人たちの非直線的かつ直感的な思考を取り入れる努力をすれば、物事の仕組みを知り、解決は不可能と考えられている問題に対処するうえで、大きな進展があるかもしれない。彼らは教科書からではなく、実践し観察することで学習してきたのだ。

これは多様性をめぐる議論でもある。還元主義である数学や経済モデルは工学的観点からは便利だが、複雑適応系(CAS)をこうしたモデルで記述するには限界があることは覚えておくべきだ。そこには直感の入り込む余地がなく、人間の経験において感覚的なものが果たす役割を軽視してしまう危険がある。

テネンバウムと彼のチームが直観モデルを学習できる機械の開発に成功したら、いまは説明できないもの、もしくは複雑すぎて既存の理論やツールでは理解できないものについて、何らかの答えを出すことが可能になるかもしれない。機械学習やAIの説明可能性や、また先住民たちが自然とどのように関わっているかの研究において、わたしたちは「説明できること」の特異点に達するだろう。

それを超えたところに科学の未来がある。わたしたちはこれまでの世界認識を超越する何かを発見し、先へと進んで行くのだ。

Credits

Translation by Chihiro OKA

34581570_10156015313486998_718869846225321984_o.jpg2011年に僕がメディアラボの新しい所長に就任することが発表された際、異例な人選だという感想を持った人は多かった。僕が上級学位、いや、学士号すら取得していなかったため、当然だ。タフツ大学もシカゴ大学も中退し、それまでの人生のほとんどを奇妙な仕事や、会社や非営利団代の設立や運営に費やしていた。

メディアラボとMITが、大学を出ていない所長を雇うのは、かなり勇気を必要とすることだったと思う。でも、峠を越えてからは、ある種の勲章だと感じる人たちもいた。(みんながそのように感じたわけではない。)

日本のインターネットの父であり、僕の日本での先生である村井純氏は、慶應義塾大学政策・メディア研究科委員長も務めており、同科の博士課程を受けるよう薦めてくれていた。2010年6月、学士号も修士号も持たない人への博士号の授与は可能、との確認が慶応大学から届いたときからこの話はいよいよ本格的になった。僕はメディアラボに入所した際、メディアラボの共同創設者で初代所長を務めたニコラス・ネグロポンテ氏に、博士課程を修了することは僕のプラスになるかどうか聞いてみた。そのときは、学位を持っていない方が興味深いから修了しないほうがいいのでは、と薦められた。

それから8年経ち、僕は討論会などで「学者代表」のようなに呼ばれることもしばしばで、博士課程の学生を含む多くの学生を指導したり、ともに働いたりしている。これらのことから、博士課程を修了する時が来た、と思い至った。つまり、自分の職業の生産物のひとつに学位というものがあり、僕もそれを試してみるべきだと感じたのだ。もう一度ニコラスに聞いてみたら、今度は賛成してくれた。

僕が取得したのは「論文博士」という、あまり一般的じゃない種類の博士号で、アメリカではあまり見かけないもの。機関に所属して新しい学問をする従来の博士課程とは違って、これまでの業績の学問的な価値や貢献度について執筆や弁護などする。また、一般的な博士課程とは、シークエンシングや順序付けも違う。

論文を書き、大学への提出物をまとめ、受理してもらう流れを経て、主任アドバイザー村井純氏、委員・論文査読者Rod Van Meter氏、Keiko Okawa氏、Hiroya Tanaka氏、Jonathan Zittrain氏によって委員会が結成された。論文へのフィードバックや詳細な批評を受けて論文を書き直した。6月6日、慶応大学で論文の公聴会が行われ、その際の質疑やフィードバックに基づいてもう一度書き直した。

6月21日に、最終試験として、批評や提案への対応やそれらに基づいた修正を委員会に発表した。その後、委員会が非公開会議を行い、論文を正式に受理した。そして僕は論文をさらに書き直し、書式を整え、仕上げをしてから印刷した最終版を7月20日に提出した。

最後に、委員会を代表して村井氏が7月30日に職員会議で発表を行い、投票を経て博士号授与が決まった。

論文はルール通り、すべて自分で著作したものだけど、これまでお世話になったアドバイザーや同僚、そして仕事をともにしたすべての人たちのおかげで実現したものなので感謝でいっぱいだ。

このプロジェクトを始めたのは、学位取得のプロセスを理解し、体験してみることが一番の目的だったけれど、研究や読書を行い、論文について話し合う過程でたくさんのことを学んだ。題名は"The Practice of Change"(変化論)で、オンラインで掲載中(PDF、LaTeX、GitHubレポ)。内容は、これまでの僕の仕事の大部分を要約と、僕たちの社会が直面している課題をどのように理解し、解決策を設計し、どう対応していくか、という問題を取り上げ、メディアラボの活動をどのように実用化し、これらの課題に取り組んでいる人たちの励みになるようにするか、というもの。
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この論文を書くにあたって、様々な藪をつついてしまった感じがすることもあった。以前は、極端に学術的な議論は避けるようにしていたけど、僕がしてきた仕事の前後関係を把握して書き表すには、複数の異なる分野を理解することが必要だったため、新旧を含めた沢山の議論に足を踏み入れることとなった。僕がいろんな分野に進出することによって、それぞれに精通した人たちに迷惑をかけてしまうことも多々あるけれど、建設的な批判を受けたおかげで今後取り組むことになる刺激的な仕事が数多く浮かび上がってきた。

僕はまだ「厳粛な学者」になったとは思っていないし、研究や学問関連の成果物を世に出すことが仕事の焦点になることは今後もないと思うけれど、物事を見るための新しいレンズ(見方)を発見した思いだ。これから新しい世界を探索する気分、とも言える。ワールド オブ ウォークラフトのようなゲームで新しいゾーンに突入し、新しい探求や新しいスキル、繰り返し打ち込むことになる新しい作業、そして初めて学ぶことが沢山ある状態によく似ている。すごく楽しい。

Credits

「権威に対して疑問をもつこと、そして自分なりに物事を考えること」と言ってくれた代父の故Timothy Leary氏

この論文を書くように背中を押してくれた村井純氏

論文について多くのフードバックや指導、そして励ましをくれたアドバイザーのHiroya Tanaka氏、Rodney D. Van Meter氏、Keiko Okawa氏、Jonathan L. Zittrain氏

メディアラボを創立し、指導してくれたNicholas Negroponte氏

複雑なシステムや縮小の限界について考えることを促してくれた故Kenichi Fukui氏

『サイバースペース独立宣言』を執筆したJohn Perry Barlow氏

Foucaultのことを教えてくれたHashim Sarkis氏

Evolutionary Dynamicsについて指導してくれたMartin Nowak氏

いつも生きがいを感じさせてくれるMIT、特にメディアラボの同僚のみんな

この論文を含め、あらゆることで力になってくれた共同研究者のKarthik Dinakar氏、Chia Evers氏、Natalie Saltiel氏、Pratik Shah氏、Andre Uhl氏

この論文をまとめるにあたって協力してくれたYuka Sasaki氏、Stephanie Strom氏、Mika Tanaka氏

最終的な編集をしてくれたDavid Weinberger氏

論文の様々な部分についてフィードバックをくれたSean Bonner氏、Danese Cooper氏、Ariel Ekblaw氏、Pieter Franken氏、Mizuko Ito氏、Mike Linksvayer氏、Pip Mothersill氏、Diane Peters氏、Deb Roy氏、Jeffrey Shapard氏

最後に、この論文が書けるように家庭生活を調整し、ずっと支持してくれたKioとMizuka

ブログの訳:永田 医